「武士道の言葉」第三十二回 大東亜戦争・アジア解放 その1(『祖国と青年』27年3月号掲載)
世界中をわが家族と為して、平和に導かん
往け八紘を宇となし、四海の人を導きて 正しき平和打ち立てむ(「愛国行進曲」)
大東亜戦争は自存自衛の為に、已むを得ずして起ち上がった防衛戦争だが、戦士たちの多くは、敵国である米英のアジア支配を打ち破り、アジアを今こそ解放できる好機との強い使命感を抱いていた。
支那事変が勃発した昭和十二年の十二月、公募により作詩・作曲された国民歌謡が発表された。「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として「美しき明るく勇ましき行進曲風のもの」「日本の真の姿を讃え帝国永遠の生命と理想とを象徴し国民精神作興に資するに足るもの」が選ばれた。それが「愛国行進曲」である。
「見よ東海の空明けて旭日高く輝けば」に始まる愛国行進曲は、一番に「美しき国土」二番に「世界平和の理想」三番に「日本国の使命」が高らかに謳われている。この歌は多くの人に愛唱され、更にはアジア諸国にも伝播して行った。
私は平成十年に堀内豊秋海軍大佐五十回忌法要団に参加して、インドネシアのマナドに赴いた際、現地の方々が愛国行進曲を地元楽器で演奏し、声高らかに唄って迎えて下さった。現地では「愛国行進曲」は「大東亜行進曲」と呼ばれていた。
二番の歌詞は「起て一系の大君を、光と永久に頂きて、臣民我等皆共に、御稜威に副はむ大使命、 往け八紘を宇となし、四海の人を導きて、正しき平和打ち立てむ、理想は花と咲き薫る」である。「八紘為宇」は「八紘一宇」とも書かれるが、日本書紀の神武天皇「建国の詔」の中の言葉である。世界の人々をわが家族の様に考え、世界中の人々が幸せに暮らせる国を目指す事を、建国の理想に掲げられたのである。神武東征は、その為の「戦い」であった。
大東亜戦争は日本国の原点を改めて思い起こさせ、アジアに於ける「正しき平和」を樹立する使命感を人々に喚起したのである。
道義に基づくアジア共栄を目指す
大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し、道義に基く共存共栄の秩序を建設す(「大東亜共同宣言」)
アジア解放の理想を国家の政策として世界に発信したのは重光葵である。大東亜戦争開戦時に駐支大使だった重光は、中華民国(南京政府)を完全なる独立国として扱い、不平等条約を撤廃する「対支新政策」に着手し、日支間の紛争に御心を痛めておられた昭和天皇から絶大の賛辞を戴く。
更には昭和十八年四月に東條内閣の外務大臣に就任し、十一月には大東亜会議を開催、日本・中華民国・タイ・満州国・フイリッピン・ビルマ・自由印度仮政府の代表が東京に会して世界史初の「アジアサミット」を開催した。その成果として大東亜共同宣言が世界に向けて発せられたのである。その綱領には「道義に基づく共存共栄」「自主独立の尊重」「相互に伝統を尊重」「経済協力」「人種差別撤廃」が謳われている。
戦争には大義がなければならず、日本とアジア諸国が欧米を相手に戦う大義が表明されたのである。英米は昭和十六年八月に大西洋憲章(英米共同宣言)を世界に発信していたが、それはナチスドイツの侵略を非難するものの、自らが支配するアジア植民地の民族自決については何の保証も記さず、「領土変更」を否定していた。英米にはアジア植民地を放棄する意志は全く無かった。大西洋憲章のアンチテーゼとして「大東亜共同宣言」はその欺瞞を突いた。
奮闘空しく日本が大東亜戦争に敗れた後、連合国は、大東亜戦争の理想を喚起する文書を総て発禁処分とし、検閲によって大東亜戦争の呼称さえ禁止し、大東亜会議や大東亜共同宣言の存在を抹殺しようと企てた。それは、七年間に及ぶ占領政策の中で成功を収め、自虐教師を大量に生み出し、未だに学校教育では「大東亜」を冠する言葉は教えられない。
私が学生時代にサークル顧問としてお世話になった九州大学国史学教授の山口宗之先生は、先の戦争は太平洋だけが戦地になった訳では無く、シナ大陸・東南アジア・インドまで含む戦いがあった訳で、歴史学の立場からも「太平洋戦争」との呼称は間違っていると憤慨され、左翼の家永三郎でさえ「太平洋戦争」との呼称には疑義を呈している、と語られていた。
左翼学者も良心が痛むのか最近は「アジア・太平洋戦争」などと称する様になって来たが、日本人なら日本人が使い、閣議決定した呼称である「大東亜戦争」を堂々と使うべきである。
天皇陛下の大御心を貫く道義の戦争
私は、機関の信条を、陛下の大御心――四海同胞一如の御軫念を奉じ、敵味方を超越する至誠、信念、情誼、情熱のヒューマニズムに徹し、道義の戦いを捨身窮行することを部下と誓い合った。(藤原岩市『F機関』)
大東亜戦争時に日本の理想を体して戦った日本軍の将兵は綺羅星の如く居るが、その中でも「F機関長」藤原岩市陸軍少佐の事は、日本人全てに知ってもらいたい人物である。
藤原岩市氏の回顧録である『F機関』は昭和四十一年に原書房から出版され、その後番町書房(四十七年)振学出版(六十年)と版を重ねており、平成になってからも二十四年にバジリコから出版されている。又、藤原氏が亡くなる(昭和六十一年二月逝去)二年前より十回に亘って「体験と省訓」を語られた『留魂録』では、藤原氏の生涯が語られている。藤原氏は晩年、日本を守る東京都民会議の運営委員もされていたのでそのお姿はかすかに覚えている。
藤原氏は、大東亜戦争開戦前の昭和十六年九月に、東南アジアのマレイ・北スマトラ民族工作の任を帯び、タイのバンコックに派遣された。開戦と共にマレイ・シンガポール作戦の中で現地民工作を実施し、大成功を収めた。マレイ半島に上陸した日本軍は南下して大英帝国のアジア侵略の牙城であるシンガポール攻略を目指した。それに対し、マレイ半島には英印軍が展開して、吾が軍の進撃に立ちふさがった。英印軍というのは、高級将校以外の下級将校や兵隊の殆どがインド人で構成されている。
当時のインドは大英帝国の植民地だった。そこで、F機関のメンバーはインド独立連盟の志士達と協力して、密かに英印軍の中に潜入して、投降を呼びかけるのだ。日本軍の敵は英国である事、インドを抑圧支配しているのは英国であり、日本人とインド人が戦わねばならない必然性は無く、逆に協力してインド独立の為に起ち上がるべきではないかとの説得を行うのである。
勿論、武器も持たずに素手で敵地に入って行くのだから、生命の危険が伴う。しかし、F機関員には高い理想と信念があり、その言動は誠に溢れ、インド人将兵の信頼を充分に勝ち取るものであった。その結果、戦わずして4万5千名のインド人将兵が投降、更にはその中の大多数が志願してインド国民軍に加わり、日本軍と共にインド独立を目指して起ち上がったのである。
何故、F機関は成功を収める事が出来たのか。それは、機関の信條を「陛下の大御心」ヒューマニズム・道義に置いていたからに他ならない。そこに機関長藤原岩市氏の真骨頂が有る。
「殺人剣」では無く「活人剣」に
日本の戦さ(剣)は殺人剣ではなく活人剣であるべきだ。(藤原岩市『留魂録』)
F機関のFは「フリーダム、フレンドシップ、藤原の頭文字」を採って命名されている。
藤原氏は、この任務を命じられてから「日本には建国の理想に立脚した独自の戦争哲学があるべきであり、これに基づく戦争指導と思想戦の計画展開が伴うべきだ」と考え、「日本の戦争哲学と心理戦の探求開発」を志して、山鹿素行『中朝事実』や古事記・日本書紀・万葉集等の古典、平泉澄博士や大川周明博士の所論、シナの兵書や孔子・孟子・老子などを繙き、思索を深めて行く。
その結果、次の五点の結論を得る。
一、日本建国の理想「八紘一宇」に立脚すべきである。しかし、神国を以て任ずる唯我独尊を戒むべきである。
二、日本の戦さ(剣)は殺人剣ではなく活人剣であるべきだ。(略)日本精神は三種の神器に表徴されている。剣は正義と勇気を、鏡は清浄明澄を、玉璽は和合寛容を表現するものである。
三、東洋の思想は一、二、の示すように自他一如、大和融合を特色とし、物心一如の調和を尊ぶ。(略)日本も東洋思想を逸脱して西洋思想の亜流に溺れた一面もあることに反省を要する。
四、戦争には透徹した大義名分と目的が確立宣明されなければならぬ。それは敵国や第三国軍官民の共感が得られる普遍性が必要である。しかも誠実な実践によって立証されなければならぬ。
五、日本の思想戦は、相手の共鳴参加を求めることを建て前とするものである。(略)相手の共鳴参加を得ても、その自主独立的立場を尊重して協調連帯を尊ぶのが日本思想戦の原則であるべきである。
藤原氏は、自らの学問と思索の中で信念化した「日本の戦争哲学」を部下と共有し、全身全霊で実践して行った。藤原氏は言う「隷属民族は共通して、相手の誠心と愛情の有無を極めて敏感に感得看破する。」「彼らはつくろい、装った巧言令色や儀礼応接には絶対に騙されない。その反面、無私の誠心と愛情、心からの人権人格の尊重、平等対等の敬愛、自由独立闘取の心情に対する心底からの共鳴共感の有無は、敏感に感得感受する。」と。F機関員たちはその誠心の実践によって敵をも味方に変えたのである。
現代日本にも民族の誇りを喪失した「隷属民族もどき」が多数存在する。その者達をも感化し、憲法改正に賛成の票を投じる一員と出来るか否かは、吾々の誠心と人格・言動とにかかって居る。
世界中をわが家族と為して、平和に導かん
往け八紘を宇となし、四海の人を導きて 正しき平和打ち立てむ(「愛国行進曲」)
大東亜戦争は自存自衛の為に、已むを得ずして起ち上がった防衛戦争だが、戦士たちの多くは、敵国である米英のアジア支配を打ち破り、アジアを今こそ解放できる好機との強い使命感を抱いていた。
支那事変が勃発した昭和十二年の十二月、公募により作詩・作曲された国民歌謡が発表された。「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として「美しき明るく勇ましき行進曲風のもの」「日本の真の姿を讃え帝国永遠の生命と理想とを象徴し国民精神作興に資するに足るもの」が選ばれた。それが「愛国行進曲」である。
「見よ東海の空明けて旭日高く輝けば」に始まる愛国行進曲は、一番に「美しき国土」二番に「世界平和の理想」三番に「日本国の使命」が高らかに謳われている。この歌は多くの人に愛唱され、更にはアジア諸国にも伝播して行った。
私は平成十年に堀内豊秋海軍大佐五十回忌法要団に参加して、インドネシアのマナドに赴いた際、現地の方々が愛国行進曲を地元楽器で演奏し、声高らかに唄って迎えて下さった。現地では「愛国行進曲」は「大東亜行進曲」と呼ばれていた。
二番の歌詞は「起て一系の大君を、光と永久に頂きて、臣民我等皆共に、御稜威に副はむ大使命、 往け八紘を宇となし、四海の人を導きて、正しき平和打ち立てむ、理想は花と咲き薫る」である。「八紘為宇」は「八紘一宇」とも書かれるが、日本書紀の神武天皇「建国の詔」の中の言葉である。世界の人々をわが家族の様に考え、世界中の人々が幸せに暮らせる国を目指す事を、建国の理想に掲げられたのである。神武東征は、その為の「戦い」であった。
大東亜戦争は日本国の原点を改めて思い起こさせ、アジアに於ける「正しき平和」を樹立する使命感を人々に喚起したのである。
道義に基づくアジア共栄を目指す
大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し、道義に基く共存共栄の秩序を建設す(「大東亜共同宣言」)
アジア解放の理想を国家の政策として世界に発信したのは重光葵である。大東亜戦争開戦時に駐支大使だった重光は、中華民国(南京政府)を完全なる独立国として扱い、不平等条約を撤廃する「対支新政策」に着手し、日支間の紛争に御心を痛めておられた昭和天皇から絶大の賛辞を戴く。
更には昭和十八年四月に東條内閣の外務大臣に就任し、十一月には大東亜会議を開催、日本・中華民国・タイ・満州国・フイリッピン・ビルマ・自由印度仮政府の代表が東京に会して世界史初の「アジアサミット」を開催した。その成果として大東亜共同宣言が世界に向けて発せられたのである。その綱領には「道義に基づく共存共栄」「自主独立の尊重」「相互に伝統を尊重」「経済協力」「人種差別撤廃」が謳われている。
戦争には大義がなければならず、日本とアジア諸国が欧米を相手に戦う大義が表明されたのである。英米は昭和十六年八月に大西洋憲章(英米共同宣言)を世界に発信していたが、それはナチスドイツの侵略を非難するものの、自らが支配するアジア植民地の民族自決については何の保証も記さず、「領土変更」を否定していた。英米にはアジア植民地を放棄する意志は全く無かった。大西洋憲章のアンチテーゼとして「大東亜共同宣言」はその欺瞞を突いた。
奮闘空しく日本が大東亜戦争に敗れた後、連合国は、大東亜戦争の理想を喚起する文書を総て発禁処分とし、検閲によって大東亜戦争の呼称さえ禁止し、大東亜会議や大東亜共同宣言の存在を抹殺しようと企てた。それは、七年間に及ぶ占領政策の中で成功を収め、自虐教師を大量に生み出し、未だに学校教育では「大東亜」を冠する言葉は教えられない。
私が学生時代にサークル顧問としてお世話になった九州大学国史学教授の山口宗之先生は、先の戦争は太平洋だけが戦地になった訳では無く、シナ大陸・東南アジア・インドまで含む戦いがあった訳で、歴史学の立場からも「太平洋戦争」との呼称は間違っていると憤慨され、左翼の家永三郎でさえ「太平洋戦争」との呼称には疑義を呈している、と語られていた。
左翼学者も良心が痛むのか最近は「アジア・太平洋戦争」などと称する様になって来たが、日本人なら日本人が使い、閣議決定した呼称である「大東亜戦争」を堂々と使うべきである。
天皇陛下の大御心を貫く道義の戦争
私は、機関の信条を、陛下の大御心――四海同胞一如の御軫念を奉じ、敵味方を超越する至誠、信念、情誼、情熱のヒューマニズムに徹し、道義の戦いを捨身窮行することを部下と誓い合った。(藤原岩市『F機関』)
大東亜戦争時に日本の理想を体して戦った日本軍の将兵は綺羅星の如く居るが、その中でも「F機関長」藤原岩市陸軍少佐の事は、日本人全てに知ってもらいたい人物である。
藤原岩市氏の回顧録である『F機関』は昭和四十一年に原書房から出版され、その後番町書房(四十七年)振学出版(六十年)と版を重ねており、平成になってからも二十四年にバジリコから出版されている。又、藤原氏が亡くなる(昭和六十一年二月逝去)二年前より十回に亘って「体験と省訓」を語られた『留魂録』では、藤原氏の生涯が語られている。藤原氏は晩年、日本を守る東京都民会議の運営委員もされていたのでそのお姿はかすかに覚えている。
藤原氏は、大東亜戦争開戦前の昭和十六年九月に、東南アジアのマレイ・北スマトラ民族工作の任を帯び、タイのバンコックに派遣された。開戦と共にマレイ・シンガポール作戦の中で現地民工作を実施し、大成功を収めた。マレイ半島に上陸した日本軍は南下して大英帝国のアジア侵略の牙城であるシンガポール攻略を目指した。それに対し、マレイ半島には英印軍が展開して、吾が軍の進撃に立ちふさがった。英印軍というのは、高級将校以外の下級将校や兵隊の殆どがインド人で構成されている。
当時のインドは大英帝国の植民地だった。そこで、F機関のメンバーはインド独立連盟の志士達と協力して、密かに英印軍の中に潜入して、投降を呼びかけるのだ。日本軍の敵は英国である事、インドを抑圧支配しているのは英国であり、日本人とインド人が戦わねばならない必然性は無く、逆に協力してインド独立の為に起ち上がるべきではないかとの説得を行うのである。
勿論、武器も持たずに素手で敵地に入って行くのだから、生命の危険が伴う。しかし、F機関員には高い理想と信念があり、その言動は誠に溢れ、インド人将兵の信頼を充分に勝ち取るものであった。その結果、戦わずして4万5千名のインド人将兵が投降、更にはその中の大多数が志願してインド国民軍に加わり、日本軍と共にインド独立を目指して起ち上がったのである。
何故、F機関は成功を収める事が出来たのか。それは、機関の信條を「陛下の大御心」ヒューマニズム・道義に置いていたからに他ならない。そこに機関長藤原岩市氏の真骨頂が有る。
「殺人剣」では無く「活人剣」に
日本の戦さ(剣)は殺人剣ではなく活人剣であるべきだ。(藤原岩市『留魂録』)
F機関のFは「フリーダム、フレンドシップ、藤原の頭文字」を採って命名されている。
藤原氏は、この任務を命じられてから「日本には建国の理想に立脚した独自の戦争哲学があるべきであり、これに基づく戦争指導と思想戦の計画展開が伴うべきだ」と考え、「日本の戦争哲学と心理戦の探求開発」を志して、山鹿素行『中朝事実』や古事記・日本書紀・万葉集等の古典、平泉澄博士や大川周明博士の所論、シナの兵書や孔子・孟子・老子などを繙き、思索を深めて行く。
その結果、次の五点の結論を得る。
一、日本建国の理想「八紘一宇」に立脚すべきである。しかし、神国を以て任ずる唯我独尊を戒むべきである。
二、日本の戦さ(剣)は殺人剣ではなく活人剣であるべきだ。(略)日本精神は三種の神器に表徴されている。剣は正義と勇気を、鏡は清浄明澄を、玉璽は和合寛容を表現するものである。
三、東洋の思想は一、二、の示すように自他一如、大和融合を特色とし、物心一如の調和を尊ぶ。(略)日本も東洋思想を逸脱して西洋思想の亜流に溺れた一面もあることに反省を要する。
四、戦争には透徹した大義名分と目的が確立宣明されなければならぬ。それは敵国や第三国軍官民の共感が得られる普遍性が必要である。しかも誠実な実践によって立証されなければならぬ。
五、日本の思想戦は、相手の共鳴参加を求めることを建て前とするものである。(略)相手の共鳴参加を得ても、その自主独立的立場を尊重して協調連帯を尊ぶのが日本思想戦の原則であるべきである。
藤原氏は、自らの学問と思索の中で信念化した「日本の戦争哲学」を部下と共有し、全身全霊で実践して行った。藤原氏は言う「隷属民族は共通して、相手の誠心と愛情の有無を極めて敏感に感得看破する。」「彼らはつくろい、装った巧言令色や儀礼応接には絶対に騙されない。その反面、無私の誠心と愛情、心からの人権人格の尊重、平等対等の敬愛、自由独立闘取の心情に対する心底からの共鳴共感の有無は、敏感に感得感受する。」と。F機関員たちはその誠心の実践によって敵をも味方に変えたのである。
現代日本にも民族の誇りを喪失した「隷属民族もどき」が多数存在する。その者達をも感化し、憲法改正に賛成の票を投じる一員と出来るか否かは、吾々の誠心と人格・言動とにかかって居る。
「日本のおかげで、アジアの諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか」
と書き記しています。この言葉が、あの戦争が何であったか、そのすべてを表わしているでしょう。