第12回(令和5年7月21日)
「人はすべからく事上に在りて磨錬し、功夫を做(な)すべし。」 (『伝習録』下巻4)
陽明学が実践の哲学だと言われるのは、王陽明がこの「事上磨錬」を強く提唱した事による。「事上磨錬」は「じじょうまれん」と読む。もの事に当りながら自分を磨き鍛錬して行く、という意味である。
本文は「人はすべからく事上に在りて磨錬し、功夫(くふう)を做(な)すべし。すなはち益あらん。もし只だ静を好まば、事に遇ひてすなはち乱れ、ついに長進なく、静時の工夫もまた差(たが)はん。」(人間は実生活を生きている。それ故、実際の物事に当りながら心を磨き、練り上げて行く工夫こそが大切なのだ。そうすれば、必ず身についていくであろう。もし、静坐にばかり頼っていたら、物事に遭遇した時には、心が乱れて、それ迄の功夫は全く役に立たなくなってしまう。)と続いている。
弟子達が中々修行に集中できないと悩んだ時に、王陽明は「静坐」を勧めた。そうすると弟子達は静かに自分の本心と向き合う事が出来る様になったが、その内に、「静坐している時は心が集中できるが、身体を動かし始めると心が乱れてしまう」と言って、静坐ばかりする様になった。静坐の弊害に気付いた王陽明は、真の修業は日常生活のそのものの中にある、と「事上磨錬」を説いたのである。「事上」=物事に当る中に修業はあるのだ。日常生活の全てに於て、それぞれの場で自分を磨き出す事、即ち「磨錬」こそが大切なのである。
禅でも「只管打坐(しかんたざ)」と言って、坐禅の精神で全ての生活を貫く事が真の修行としている。だが、仏教は「出家」が基本であり、陽明学に代表される儒学は「修身→斉家→治国→平天下」という、実社会を治めて行く為の学問、即ち「経学(けいがく)」であり、その点が禅とは一線を画している。
事上磨錬、何と素晴らしい言葉であろうか。私は大学生の時にこの言葉とその意味を知ってから、日々直面する様々な事を全く恐れない様になった。日々向き合う全ての事が自分の修養の糧なのである。直面する物事を真正面から受け止め、それに応じて心を尽して(良知を致して)生きる、その事自体が人生修行なのである。「事上磨錬」、是非、人生を導く言葉として、それぞれの魂に刻んで欲しい。
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「人はすべからく事上に在りて磨錬し、功夫を做(な)すべし。」 (『伝習録』下巻4)
陽明学が実践の哲学だと言われるのは、王陽明がこの「事上磨錬」を強く提唱した事による。「事上磨錬」は「じじょうまれん」と読む。もの事に当りながら自分を磨き鍛錬して行く、という意味である。
本文は「人はすべからく事上に在りて磨錬し、功夫(くふう)を做(な)すべし。すなはち益あらん。もし只だ静を好まば、事に遇ひてすなはち乱れ、ついに長進なく、静時の工夫もまた差(たが)はん。」(人間は実生活を生きている。それ故、実際の物事に当りながら心を磨き、練り上げて行く工夫こそが大切なのだ。そうすれば、必ず身についていくであろう。もし、静坐にばかり頼っていたら、物事に遭遇した時には、心が乱れて、それ迄の功夫は全く役に立たなくなってしまう。)と続いている。
弟子達が中々修行に集中できないと悩んだ時に、王陽明は「静坐」を勧めた。そうすると弟子達は静かに自分の本心と向き合う事が出来る様になったが、その内に、「静坐している時は心が集中できるが、身体を動かし始めると心が乱れてしまう」と言って、静坐ばかりする様になった。静坐の弊害に気付いた王陽明は、真の修業は日常生活のそのものの中にある、と「事上磨錬」を説いたのである。「事上」=物事に当る中に修業はあるのだ。日常生活の全てに於て、それぞれの場で自分を磨き出す事、即ち「磨錬」こそが大切なのである。
禅でも「只管打坐(しかんたざ)」と言って、坐禅の精神で全ての生活を貫く事が真の修行としている。だが、仏教は「出家」が基本であり、陽明学に代表される儒学は「修身→斉家→治国→平天下」という、実社会を治めて行く為の学問、即ち「経学(けいがく)」であり、その点が禅とは一線を画している。
事上磨錬、何と素晴らしい言葉であろうか。私は大学生の時にこの言葉とその意味を知ってから、日々直面する様々な事を全く恐れない様になった。日々向き合う全ての事が自分の修養の糧なのである。直面する物事を真正面から受け止め、それに応じて心を尽して(良知を致して)生きる、その事自体が人生修行なのである。「事上磨錬」、是非、人生を導く言葉として、それぞれの魂に刻んで欲しい。
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