「道の学問・心の学問」第八十一回(令和3年11月30日)
石門心学・中澤道二に学ぶ①
「高山の水は深谷に下つて能あり。最上の教は下機(げき)を度するに力あり。」
(『道二翁道話』続篇、三の上)
京都で始まった石門心学を、江戸に広げ、大名に迄影響を及ぼし、全国規模で爆発的に普及せしめた功労者が中澤道二である。
安永八年(1779)、江戸から手島堵庵を迎えて「心学」を学びたいとの強い要請が齎された時、62歳の堵庵は自らの代行者として中澤道二を指名し、派遣した。中澤道二55歳の時であった。師の慧眼に応え道二の江戸における教化活動は大きな成果を収め、更には約十の藩侯並びにその家中、旗本御家人に迄広がり、老中松平定信の意を受けて佃島人足寄場の日雇労務者の教諭を任される様になった。道二の感化力によって石門心学は関東一円に広がり、道二が遊説布教した地域は、九州を除く五畿七道二十七か国に及んだ。
この感化力は、道二の篤い求道心から生じている。道二は京都西陣で機織りを営む家に生まれた。両親が熱心な日蓮宗の信者であり、道二は幼少の頃から宗教的な感化を受けて育ち、青年時代、書を読む暇は無かったが、仕事の合間を縫っては、所々の講釈法談を聞いたり、儒者や高僧の所を訪ねて人生の疑問を投げかけたりした。41歳の時に等持院東嶺禅師の法席に連なり強い感銘を受け、更に自ら静坐工夫を重ねて、道の一端を掴んだ。46・7歳の頃、友人の誘いで手島堵庵の門に入った。既に仏教を通じて石田梅岩の言う「性」、手島堵庵のいう「本心」に近いものを自得していた道二は、堵庵にその明敏闊達を認められて、同門で重きを為す様になり、江戸教化の大任を任されたのである。手島堵庵は18歳で石田梅岩と出会い、20歳で悟りを開いているが、中澤道二は41歳まで道を求める苦闘を続けていたが為に、その得た真実の重みには尚一層の重みがあった。43歳の時に小栗了雲と出会って悟りに至った石田梅岩と相通じるものを体験していた。堵庵は、その苦労人である道二の中に本物の輝きを感じ取ったのである。
道二は、人々に自らの「本性」「本心」を自覚させる為に、様々な譬えを用い、庶民が納得する身近な出来事を題材にして、道を説いた。道二は常に「高い山に湧く水は深い谷に下っても良く人々の役に立つ能力を持っている様に、最も優れた教えは、道を求める力の劣った者をも感化する力がある。」と述べていた。道二によって「道話」という大衆を感化して行く形態が生み出され、聴衆は爆発的に増えて行った。道二は江戸に来た翌年、参前社を起こし、十一年後には百二十畳敷の大道場が新築されている。道二は79歳で歿する享和3年(1803)迄の24年間を、只管道を説いて止まなかった。
道二は「このように処々方々でわいわいとわめいて歩いているのも、他に求める事があるからでは無い。どうにかして、お前さん方を、一日なりとも安楽にしてあげたいと思うだけである(ほろりと涙をこぼされた)」と述べている(続篇三の上)。道二の求道心と、衆生救済の強い思いが、石門心学の爆発的な流行を生み出したのである。
石門心学・中澤道二に学ぶ①
「高山の水は深谷に下つて能あり。最上の教は下機(げき)を度するに力あり。」
(『道二翁道話』続篇、三の上)
京都で始まった石門心学を、江戸に広げ、大名に迄影響を及ぼし、全国規模で爆発的に普及せしめた功労者が中澤道二である。
安永八年(1779)、江戸から手島堵庵を迎えて「心学」を学びたいとの強い要請が齎された時、62歳の堵庵は自らの代行者として中澤道二を指名し、派遣した。中澤道二55歳の時であった。師の慧眼に応え道二の江戸における教化活動は大きな成果を収め、更には約十の藩侯並びにその家中、旗本御家人に迄広がり、老中松平定信の意を受けて佃島人足寄場の日雇労務者の教諭を任される様になった。道二の感化力によって石門心学は関東一円に広がり、道二が遊説布教した地域は、九州を除く五畿七道二十七か国に及んだ。
この感化力は、道二の篤い求道心から生じている。道二は京都西陣で機織りを営む家に生まれた。両親が熱心な日蓮宗の信者であり、道二は幼少の頃から宗教的な感化を受けて育ち、青年時代、書を読む暇は無かったが、仕事の合間を縫っては、所々の講釈法談を聞いたり、儒者や高僧の所を訪ねて人生の疑問を投げかけたりした。41歳の時に等持院東嶺禅師の法席に連なり強い感銘を受け、更に自ら静坐工夫を重ねて、道の一端を掴んだ。46・7歳の頃、友人の誘いで手島堵庵の門に入った。既に仏教を通じて石田梅岩の言う「性」、手島堵庵のいう「本心」に近いものを自得していた道二は、堵庵にその明敏闊達を認められて、同門で重きを為す様になり、江戸教化の大任を任されたのである。手島堵庵は18歳で石田梅岩と出会い、20歳で悟りを開いているが、中澤道二は41歳まで道を求める苦闘を続けていたが為に、その得た真実の重みには尚一層の重みがあった。43歳の時に小栗了雲と出会って悟りに至った石田梅岩と相通じるものを体験していた。堵庵は、その苦労人である道二の中に本物の輝きを感じ取ったのである。
道二は、人々に自らの「本性」「本心」を自覚させる為に、様々な譬えを用い、庶民が納得する身近な出来事を題材にして、道を説いた。道二は常に「高い山に湧く水は深い谷に下っても良く人々の役に立つ能力を持っている様に、最も優れた教えは、道を求める力の劣った者をも感化する力がある。」と述べていた。道二によって「道話」という大衆を感化して行く形態が生み出され、聴衆は爆発的に増えて行った。道二は江戸に来た翌年、参前社を起こし、十一年後には百二十畳敷の大道場が新築されている。道二は79歳で歿する享和3年(1803)迄の24年間を、只管道を説いて止まなかった。
道二は「このように処々方々でわいわいとわめいて歩いているのも、他に求める事があるからでは無い。どうにかして、お前さん方を、一日なりとも安楽にしてあげたいと思うだけである(ほろりと涙をこぼされた)」と述べている(続篇三の上)。道二の求道心と、衆生救済の強い思いが、石門心学の爆発的な流行を生み出したのである。
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