仁斎は「倹約」と「吝嗇」の違いについて、「人に施す事を好むか否か」にあると言い切った。 . . . 本文を読む
砲兵隊長だった吉村大尉は、敗戦後火砲と運命を共にせんと自決を志すも、部下の帰国の為に責任を果たす可く留まった。帰国後の敗戦の日に自宅にて従容として自刃した。その遺書全文を紹介する。 . . . 本文を読む
伊藤仁斎の号となった、「仁」の言葉に仁斎は如何なる思いを込めたのか。仁斎の言葉に学ぶ。 . . . 本文を読む
昭和8・9年は済々黌剣道部第二次黄金期で、幾度も全国大会で優勝している。その時の主将の金津は硫黄島で、翌年の主将島田はニューギニアで戦死している。特に、激闘で知られる硫黄島では済々黌出身者7名が戦死し、その内の4名は剣道部出身である。 . . . 本文を読む
伊藤仁斎は学問によって徳を成した人物で、論語や孟子の中の教えを自らの日常生活に活かす事が学問であるとして、古義学を打ち立てました。人徳者、仁斎の言葉に学びます。 . . . 本文を読む
田邊章一は、昭和9年東京日日新聞等が募集した「映画脚本『大日本帝國史』」で見事第1等に入選を果たした。その感動的な歴史記述は徳富蘇峰等も高く評価した。熊本第一高女で教鞭を執った田邊は女学生の生き方に強烈な感動を与えた。出征・敗戦後、シナ大陸でマラリアで戦病死。その33回忌に教え子たちが追悼集を出版した。 . . . 本文を読む