随分とお久しぶりな気のするこのブログ。
いったいどなたがこんなに訪れてくださるのかと、訝しがりながら、本日はお知らせをさせていただきます。
百合ヶ丘に「たまり」を開業して5年。
2011年正月のこと。
同じ年の3月に東北の震災がありました。
その日は向ケ丘遊園の青色申告会を訪れていて、4階にあるその部屋の激しい揺れに何か、覚悟もしたのを覚えています。
開いた窓から、駅前の通りにいる学生らしい男の子たちの会話が聞こえてきました。
「おい、震源地は宮城だってよ、ここでこんな揺れだぜ、震源地は、、、、、」
絶句して途絶えてしまったその会話を聞き、わたしも、空恐ろしく感じたのです。
その後、駅3つの距離をたくさんの人々とともに歩き、やっとアトリエについたときにはさすがに疲れていました。その頃はここにラジオもテレビもなかったのですが、インターネットから流れるたくさんの情報が、災害の物凄さを語っていました。
そして、原発事故。
私はその後、郡山の子供達を原告とした、「集団疎開裁判」に身を投じ、演劇班として原発事故後の福島の様子を毎週金曜日に文科省前で伝えてきました。
目の手術などがあり、店の営業もあり、力尽きて前線を離れてからも、私らしく長く続けられる支援の方法はないものかと、模索していました。
そうこうしているうちに、アトリエの移転があり、リニューアルオープンもあったりして、やっとここまでたどり着きました。
この、「手つむぎ展」構想は、リニューアルオープン時からあったのですが、今、協力してくださる方々を迎え、やっとの実現です。
どうぞ皆さま売り上げにもご協力下さり、沢山募金ができますよう、よろしくお願いいたします。
いったいどなたがこんなに訪れてくださるのかと、訝しがりながら、本日はお知らせをさせていただきます。
百合ヶ丘に「たまり」を開業して5年。
2011年正月のこと。
同じ年の3月に東北の震災がありました。
その日は向ケ丘遊園の青色申告会を訪れていて、4階にあるその部屋の激しい揺れに何か、覚悟もしたのを覚えています。
開いた窓から、駅前の通りにいる学生らしい男の子たちの会話が聞こえてきました。
「おい、震源地は宮城だってよ、ここでこんな揺れだぜ、震源地は、、、、、」
絶句して途絶えてしまったその会話を聞き、わたしも、空恐ろしく感じたのです。
その後、駅3つの距離をたくさんの人々とともに歩き、やっとアトリエについたときにはさすがに疲れていました。その頃はここにラジオもテレビもなかったのですが、インターネットから流れるたくさんの情報が、災害の物凄さを語っていました。
そして、原発事故。
私はその後、郡山の子供達を原告とした、「集団疎開裁判」に身を投じ、演劇班として原発事故後の福島の様子を毎週金曜日に文科省前で伝えてきました。
目の手術などがあり、店の営業もあり、力尽きて前線を離れてからも、私らしく長く続けられる支援の方法はないものかと、模索していました。
そうこうしているうちに、アトリエの移転があり、リニューアルオープンもあったりして、やっとここまでたどり着きました。
この、「手つむぎ展」構想は、リニューアルオープン時からあったのですが、今、協力してくださる方々を迎え、やっとの実現です。
どうぞ皆さま売り上げにもご協力下さり、沢山募金ができますよう、よろしくお願いいたします。