「御文章ひらがな版・拝読のために」から (平成11年発行・本願寺出版社)
末代無智章の大意
末法の世にあって、まことの智慧もなく、在家の生活をしているものたちは、一心に阿弥陀如来をたのみたてまつって、ほかの神や仏に心を向けず、ひたすらみ仏におまかせしなさい。
そのものを、どんなに罪は重くとも、かならず阿弥陀如来はお救いくださいます。
これが第十八願、すなわち念仏往生の願のこころです。
このように信心を決定した後は、寝てもさめても、命のあるかぎりは仏恩報謝の念仏をすべきです。
(五帖第一通)
この御文章は、他の多くの御文章と同じように、二種深信の形をお示しいただいていると理解できるでしょう。
そこで、
”ともがらは、こころをひとつにして”の一言が大変重要な一文になっていると感じます。
「御文章ひらがな版・拝読のために」
では、"こころをひとつにして"を"一心に"と現代語訳されています。
三省堂提供「大辞林 第二版」によりますと
一心とは、
(1)二人以上の人が心を一つにすること。
(2)一つの物事に集中した心。専心。
とされています。
(1)の意味で解釈すると、 ともがら(複数のひと)が同じ心を持つこととなり
(2)の意味で理解すると、現在よく用いられる、私が一つの心に集中することとなります。
御文章にある"こころを一つにして"は、(1)の意味で理解するべきでありましょう。
「私たち(ともがら)が、心を一つにして、生きていけよ。」という(1)の意味での、阿弥陀如来からのメッセージ(本願)をしっかりと受けて止めていくことが、真宗門徒の生き様であり、それが教えに基づく社会性の発露であると、私は理解しています。
- 本願:自分の立場・経験だけでしかものを見ることのできない私たちに、「共に生きる」生き方こそ、私達が求める道であったと、目覚めさせるはたらき。親鸞聖 人は「他力とは如来の本願力なり」といっておられる。
小松教区で編集、刊行されました「現代文御文(第五帖)」には、弥陀の本願をこのように味わわれています。
共に生きるとは、おかげさまの生き様であり、報恩の人生とも言えます。阿弥陀如来の本願に照らされて、平和に(安穏に)生きることができるという、そういった生き方を自分だけでなく、子に、孫にと伝えて生きたいという、ご門徒様方のお気持ち、報恩のお心が、浄土教団の発展につながり、み教えが正しく、広がることで、共に生きる世界がひろがってきていると思います。
社会制度とか、民族とか、あえて言えば宗教というものを飛び越えて、「共生と報恩」の人生観が広がっていっていただきたいものだと、心から念じております。