ゴルフという時間の過ごし方

2005年05月14日 | 人生は旅である。
スコアはどっちでも良くて、あはは(o ̄∇ ̄)o

一日緑の光の中で、真剣になったり、大笑いしたりして過ごすという「ゴルフ」という時間の過ごし方。

私は好きです。

今日は、一年中でも何日もないであろうという、ゴルフ日和でした。

面白かった

今年の春のゴールデンウィーク終了

2005年05月09日 | 人生はマーケティングもある。
<<お詫び>>この文章はあるMLに流したものの転載です。一部改行が見苦しくなっていることをお詫び申し上げます。

【改めて、ジャーナリズムということについて。】
(ジャーナリズムにフェアネスはあるか?)

「ジャーナリズム」でぐぐっていたら、江川紹子氏のサイトが引っかかりました。
http://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_40.html
もう、お読みの方は多くいらっしゃるかと思いますが、題名が『「新聞・テレビを殺
します」 ~ライブドアのメディア戦略』となっている。2月10日に書かれたものなの
で、その後のフジ-ライブドア騒動への予言があるとかどうだとかはこの際関係はない
のです。

その中で、「そうだよな」と思う一節があります。

『少数であっても、"志"を持ち、ジャーナリストとしての"矜持"を忘れない記者たち
は、いい仕事をしている。間違った受け止め方をしている人がたくさんいるからとい
って、"良心"を否定するのは違う。本来の、"志"が広がっていくことに、私はまだ期
待をしたいと思っている。』

江川氏はオーム事件に関わり「志」をもって、自らの「良心」に従い「ジャーナリス
ト」として、行動された人だと、私は感銘を持って受け入れています。これこそがジ
ャーナリズムだと。

ただし、氏の行動自体にフェアネスはあったか。私は無かったと思う、だからこそ行
動できたのだと思う。

フェアネスの一つの意味付けとして「法律に乗っ取って」というものがある。「法の
もとの平等(法治国家)」これが、今の地球上の社会システムでは大勢をしめていま
す。これが、人間の発明した「他人との付き合い方」では現状では一番うまくいく
「やりかた」だと認めざるをえないでしょう。

では、その意味におけるフェアネスに照らしてオーム(初期オーム)は外れていたか、
というと、そうとは言えないでしょう。手続き(法律)を経て宗教法人登録をしたわ
けだし、国政選挙にも出たわけだし。道場を作ったり、信者を求めたり、浄財を集め
たり、それらは、法律に則って行われたはずです(初期においては)。どうあれ、信
者たちは自分の気持ちに正直に(自分の気持ちのまま動けるというのはフェアネスの
もう一つの形だと思います)オーム真理教という団体の所属していった。

ただ、その教理(まあ、教理というべきかどうかは議論すべきところだし、大方の宗
教者はそれを教理とは認めないでしょうが)があまりに「反社会的」であった。反社
会的な考え方に「おかしい」と思う気持ちそれが、江川氏の持った「良心」だと思い
ます。そして、良心の導くままに志を持って、「おかしいものはおかしいと言わねば
ならない」という「使命感」を持って行動されたのが江川氏だと思うのです。

フェアネスを突き詰めていたら、あれほど早くオームが問題化しなかったのではない
か。「へんな考え方の人間が、集まってなんか解らんことやってるけど、勝手だしい」
と思想信仰の自由を最大限「フェア」に保障していれば、教理の矛盾が外に向かうこ
となく自滅していったのではないか。(そういう意味では連合赤軍事件は志が高すぎ
たからの悲劇だったかも。)

私は江川氏の行動を支持するものですし、「志」「良心」「使命感」が無ければ、
「ジャーナリズムではない」と思っています。そして、絶対正しい「志」、人類共通
の「良心」、揺るぎの無い「使命感」がないことも、知っています。したがって「ジャ
ーナリズム」には「フェアネス」は「無い」と結論付けてしまうのですが、いかがで
しょう。

「ジャーナリズムは真実を伝える」なんていう考え方は、まだあるのでしょうか?



【メディアで禄を食むということ】

インターネットメディアが現出して、多くの人が極めて低廉に情報伝達技法「メディ
ア」を扱えるようになって「メディア」の機能がかなりわかりやすくなってきている
と思います。
メディアが伝えていることはいくつかの様相があります。

・ジャーナリズム
・エンターテインメント
・事実とまったくの嘘=2ちゃんねる
・企業の商品情報=広告

2ちゃんねるという機能を持ったメディアはインターネット技術がなければ、これほ
どのマスを持ちえなかったとは思いますが、もともと塀の落書きですよね。

で、メディア企業に勤めて給料を得ることについて考えたいと思います。

メディア企業は企業であるわけですので収入と支出があります、って当たり前。
支出については、人件費とコンテンツの制作経費(紙代・印刷代も含めて)、とコン
テンツの流通経費(アンテナの維持費とか、電気代とかそんなもの)それにファイナ
ンスの経費など、かなり項目は多くに渡ります。
一方、収入は二つ。購読料と広告掲載料。テレビ局には文化省から補助金が出ている
から三つか。あ、寄付金なんてのもあるだろうけど知らない。保険金と配当収入本筋
じゃないから外します。

地上波民放テレビ・ラジオ、多くのインターネットメディアは購読料収入はありませ
んから、広告掲載料が唯一の収入源となります。

新聞というジャーナリズムを代表するメディアも、収入は購読料と広告掲載料からな
ります。中央五紙と呼ばれる「マスメディア」(新聞のどこがマスメディアだと?)
においては、購読料は印刷費と流通費で消えます。社員の給料と拡大再生産のための
投資費用は広告費から賄われているというのは有名な話。広告収入が購読料収入を超
えている新聞は珍しくない。

だからといって「広告収入がないとジャーナリストは生きていけない」とか「広告収
入があるからエンタテインメントはタダで手に入る」なんていうことを言おうとして
いるのではありません。

・ジャーナリストであっても広告収入で成り立っているメディアで仕事をすることで
 喰っていける。
・エンタテナーでも広告収入のみで成り立っているメディアで仕事することで喰って
 いける。

そもそも、メディアに関わる人達でなぜ広告主と読者だけが金を払っているのでしょ
うか。ジャーナリストを自称する人であれば、金を払って記事を載せてもらう、とい
う形体がなぜないのでしょうか?それは、メディアを維持することがものすごく金が
いることで、それは大金持ちの酔狂でないと成り立たなかったからかな。メディアを
もつ人は大金持ちであった。ジャーナリストは社主から禄をいただいていた(か?)

生きる糧を得るための「仕事」ですから自分の信念に忠実なジャーナリズムや、自分
の美意識に忠実なエンタテインメントは100%は出来ない。ということは当たり前のこ
とだと私は思います。でも、その中で「100%に近い仕事をする」というのが、プロ
フェッショナルと呼べるのでしょう。だから、広告収入がないとジャーナリズムやエ
ンタテインメントが成り立たないというわけではありません。

インターネットという横丁の黒塀に比べれば圧倒的な伝達力のあるメディアをこの手
にした今、自分にとっての真のジャーナリズムや、真のエンタテインメントを表現す
る場が出来たと考えられる思うのです。さらに、blog-googleシステムによって、伝達
力をさらに高める機能すら手にすることが出来る(でも、喰っていけないけど)今の
メディア環境を最大限に生かすことで、昔の人たちには出来ない人生を送ることが出
来るのが現在だと感じています(フェアネスが保障されている)。
広告は企業からのメッセージです。この車を、このチョコレートを、この株を、この
会社を買って欲しいという企業からのお願いです。うわべだけのマーケティング論は
支持しませんが「良い商品はほおって置いても売れる」という考え方はとうの昔に否
定されていることも事実です。この商品を買ってもらえるであろうあなたに伝える機
能は経済活動において欠かせられないものなのです。広告は流通の一部であるという
考え方に反論する方は多くないと思います。

「本当に自分が「良い」と思える商品を、人に伝えることでその商品を作っている会
社からお金をいただく」ということをおっしゃる方がいらっしゃいます。

はい、すばらしい志だと思います。自分の心に忠実にそれをメディアに流すことは自
由でありフェアなことです。心ある企業は「ありがとう」という気持ちでお金を渡す
(それは美しいことです)こともあるでしょう。でも、それで喰っていけるでしょう
か。(REAL SIMPLEは成功するだろうか)

嘘を言えとは言っていません。広告は本当です。広告に携わるものはいつもいつも
「嘘の無いこと」を最重要に考えて仕事をしています(そういう意味では広告はたや
すく嘘になりうる)。ただ、お金をいただく以上広告主に最大限有利なコンテンツ
(広告原稿)を作るのは、それは使命だと思います。「ココは組み入れないな」とい
うところは「表現しない」のがお金をいただくものの仕事だと思います。

メディアで禄を食む人間は「信念を持って妥協する」というスリリングな人生を送っ
ているともいえます。(人生はどんな生き方でもスリリングなんですけど)


【事実を積み上げれば真実は見えてくるだろうか】

今のメディア企業に求められていること(のように感じること)は事実を事実のまま
に伝える事のようだ。
どのような悪意に満ちた質問でも、どのように拡張されたアングルでも、そこに「事実」
がある以上それは受け手にとって「求められているもの」だと、メディアに関わる多く
の人たちは考えているように思える。
これは、メディアに流すコンテンツを作る技術の進歩によるものが大きいと思う。多分
人類が月面に立った時にメディアの役割は大きく変わったのではないか。

「今」を「そのまま」に「伝える」、それが今のメディアに課せられて最大の役割。

「嘘っぱちだ」と多くの人は感じている。でも、それは正しい表現ではない。

「嘘っぱちかもしれない」と多くの人は感じている。なぜか、、それは多くの人がメデ
ィアの技術を理解していないからではないだろうか。技術は嘘をつくためにも使える
が、多くの人が使えるわけではない。

ただ、ただ、メディアが目の前に伝えてくるものは「事実」である。

通勤電車がマンションの一階駐車場に突っ込んで跡形もなくなっている「事実」
その日にJR職員がボーリング大会に興じていた「事実」
その日に国会議員が笹山(って福知山線ぢゃん)で、宴会をしていたという「事実」
事故現場に山のように積み上げられた花束と泣き崩れる人がいるという「事実」
今日もJR列車がオーバーランしたという「事実」
JR西日本の社長や会長が謝っている「事実」

そういえば、今日もJAL機が異常を起こしたという「事実」が流れていた。

それは、楽天が巨人に4対1で勝利したという「事実」と、どれほどの違いがあるだ
ろう?Yahoo!トップページのトピックスの7つの一つであるだけだ。

事実を積み上げれば真実は見えてくるだろか・・・


事実には目線がありますね。光の当たり方で、目の前に見える目線は変わりますでし
ょう。映画監督は光の当て方でご自身の求める事実を探していらっしゃる。
という書き方をするとwarasi監督が乱入してきそうですが(歓迎しますが)

どういう目線を持つかによって、事実は変わっていくものだと思います。そして、仮
に事実の積み重ねの上に真実が見つかるとすれば、真実は目線の数だけ存在する。

この考え方を、私は気にいっています。そして、そう考えると事実と真実の違いがぼや
けてきます。

重要なのは目線である、と。でもその目線はどこからくるのでしょうか。それも、事
実の積み上げからくるのでしょうか。

・その事実は正しいか
・その真実は本当か
・その目線はどこを向いているのか

あぁ、答えの無い路地にはまり込んでしました。

GWの風景その3

2005年05月05日 | 人生は旅である。
大阪歴史博物館に行きました。

『昭和35年(1960)から40年にわたって大阪の歴史や文化を紹介し、研究を続けてきました大阪市立博物館の新館であるとともに、難波宮を中心とする考古学の資料センターとしての機能を合わせ持つ施設です。』

大阪城公園の一角のこのあたりは上町大地の北の端、石山本願寺があった。ま、浅からぬご縁ということで・・。悪名高き「お手盛り」大阪市営なので中学生まではタダ。大人600円のお値打ち価格です。

この角度からの大阪城もココでしか見れないと思います。

今回も、絵葉書のような写真がとれました。