丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

アングラフォークの世界

2010年05月26日 | 個人史
「帰ってきたヨッパライ」に始まったアングラフォークブームは京都の学生を中心に大きな波になる。
アングラ第2弾として出されたのが、高石友也による「受験生ブルース」。元々は当時高校生だった中川五郎がアメリカのフォークを素材に自身の暗い青春をアイロニーいっぱいに歌ったもの。原曲は暗く、それに歌詞を面白おかしくつける本家のブルース調だったのが、高石友也によって曲も陽気な歌になり大ヒットする。中川五郎自体はこの変えられた曲を気に入ってはいなかったようで、翌年原曲を使って続編の「予備校生ブルース」を作ったりする。

京都のフォークの集会に突然客席から上がってきた労務者風の男がいたという。「山谷ブルース」という自前の歌を歌って熱狂的に迎え入れられた。岡林信康の登場だった。プロテスタント教会の牧師を父に持ち、教会賛美歌で育った彼が家を飛び出し労務者に交じり、そしてフォークの世界に入り込んだ。キリストに似たその風貌から人々は彼を「フォークの神様」と呼んだ。

高石友也は気に入った若者に自分のギターをあげる癖があったようで、中川五郎や岡林信康も高石からギターをもらったと聞く。後にシャンソン歌手からフォークに転身した加藤登紀子もギターを貰い受ける。もっとも、当時「ギターを弾こう」という歌を歌ってはいたものの、ギターはまるで弾けなかったという。

こうしてアマチュアフォークの若者が高石友也の周辺に集まりだし、「高石事務所」を設立して彼らを受け入れだした。そして大手のレコード会社からレコードが出されないことから、自らのレーベルでアングラレコードを出版するに至る。URCレコードの出現である。

当時会員制で、会員による通信販売しか行っていなかった。友人のT君が会員になって次々とレコードを購入する。
第1弾は発売中止に追い込まれた「イムジン河」をミューテーション・ファクトリーというグループが歌った物。前述のフォークルにゆかりのある3人組。
その後、高石友也の「ホー・チ・ミンの歌」とか高田渡の「転身」「三億円強奪事件の歌」、中川五郎の一連のプロテストソングなど。
当時の彼らのスローガンは「性と文化の革命」。アメリカの大ロックコンサート「ウッド・ストック」を日本で実現させたい、として伝説の「中津川フォークジャンボリー」を行ったりもしていた。

機関誌で「フォーク・リポート」という一般紙も発行していた。これも当時は通信販売。後にアングラレコードに協賛するレコード店も多く現れてそこではこの「フォーク・リポート」もURCレコードも購入することができるようになる。僕の行きつけの池田市にあるレコード店も加盟したので、お金のある時はそこで買うこともできるようになった。

時は70年安保を迎えようとしていた。1960年に十年間の期限律法で締結された日米安保条約の更新が迫ってきていた。反体制を主張する学生運動がこの波に乗っかり、70年安保粉砕をスローガンにフォークソング界も乗っかっていた。70年を目指して、「全日本フォーク・キャラバン」なるものが組織された。70年安保のその日を目標に、北は北海道から、南は沖縄からフォークの集会を行いながら東京を目指そうという運動で、僕もそれに一口乗っかった。
賛同者には不定期に機関紙も送られてきた。

こうしてアングラ・フォークの世界にとっぷりはまることになるのだが、この流れは、1969年に起きた不幸な4つの事件によって挫折することとなる。この敗北感はいまだに心の傷として残ってしまうこととなる。その話はその時にまた。