丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

小説「祭りの音が消えた夏」第11章

2010年10月01日 | 詩・小説
 第11章 母の思い

 久しぶりに早朝ランニングをした。
 ここしばらくトレーニングをしていないので、なまっていた体に、朝の空気は心地よかった。昔走っていたコースでは、途中に先輩の家の前を通ったのだが、今朝はあえてそこは避けた。先輩の母親に出くわしたなら、おそらく長話に付き合わされるのが目に見えていたから。今日はとにかく走り続けていたかった。
 家に戻ると、ちょうど元が家を出るところだった。
「もう出かけるの?ほんとに早いのね」
「ああ、みっちり勉強するから。今日、帰るんだろ。見送れないけど、元気でな」
「うん、元も体に気をつけて。百合ちゃんと仲良くね。いろいろ任せっきりになるけど、よろしくね」
「ああ、任せろよ。しっかり勉強して、必ず戻って来いよな。みんな待ってるから」
「うん、時間があったらまた戻ってくる。遅くても今度の正月は帰るつもり。早ければその前にも来るかもしれないけど、とにかく連絡するから」
「頑張れよ」
「お互いにね」
 元がこんなに頼もしい奴になってるとは思いもしなかった。卒業までの半年、心配なく任せられそうだった。

 食事が済むと、暢を迎えに和馬がやってきた。今日も朝から部活があるようだ。
「由布姉さん、お早うございます。今日帰られるんですね」
「うん。どうもありがとうね。君たちに会えてよかった」
「それを言うのは俺の方ですよ。いろいろありがとうございました」
「じゃあ、暢も元気でね。みんなと仲良くやっていくんだよ」
「わかってるって。由布姉も気をつけてね」
「それと、みどりちゃんにもよろしく言っておいてね」
「ああ、会えたらね」
「会えたらって、そんな言い方じゃなく、必ず言っておくのよ。あんたたちのお姉さんなんでしょ、あの子」
「えっ?それ、どういうこと?」
「みんな聞いたわよ」
「みんなって……、あのことや、あのこととかも?」
「ええ、あんたたちの何をしっかり見られたって事もね」
 そんな会話をしていると、母が聞いてきた。
「何なの、何か面白そうな話みたいだけど」
「あっ、母ちゃんには関係ない話。俺、もう行くからね」
「必ず伝えといてね」
「ああ、わかった、わかった。必ず言っておくから。だから、母ちゃんによけいなこと、喋らないでよ」
 そう言い残すと、暢は和馬と一緒に走って行ってしまった。
「何だったの、一体?」
「ううん、何でもない。内緒って暢と約束したから。聞かないでね」
「年頃になったら内緒事が多いんだよね。何だか嬉しいやら悲しいやら」
 そう言って溜息をつく母に、由布も内緒事がいっぱいあるのを思ってみた。中学になってから、大事な事を一つも母とは相談してこなかった。いつも元が話し相手であって、母には悲しい思いばかりをさせてきたのではなかっただろうか。

「昨日、暢の学校に行ったんだろ?暢の先生には会ったのかい?」
「うん、会ってきたけど、それが?」
「あの人、あんたの彼氏だったんだよね」
 一瞬ドキッとした。母が自分たちの事を知っているはずがないのに。
「いきなり何言うのよ」
 表情を変えないで言ったつもりだったが、少しだけ声に震えがあるのを感じていた。
「お母さんが何も知らないとでも思ってるの?……って本当は言いたかったんだけどね」
「誰か、そんなことを言ってたの?」
 聞くとすれば元しかいないのだが、口の堅い元が話すはずもなかった。
「偶然知ったのよ、つい最近なんだけどね。暢の先生がバスケットやってるって聞いてたから、あんたより2年上だってことで、ひょっとしてあんたのことも知ってるかなって思ってね。家庭訪問に来られた時に、娘もお世話になったんですよね、って言ったらね、先生、何て言ったと思う?由布さんが家を出られたのは僕のせいなんです。っていきなり謝られたの。詳しい話は聞こうとは思わなかったし、話したくないような雰囲気だったから、それだけにして話を切り替えたんだけどね。でも、あんたが出て行くのを決めたのは高校3年になってから急にだったから、その時に何かあったのだとしたら、先生とその時付き合ってたってことしか考えられないでしょ。高校も一緒だったみたいだから、バスケット続けてたんだな、って気づいたってわけ。家では何にも言ってくれなかったし」
「ごめんなさい。バスケット続けたいって言い出せなくって」
「もういいのよ。あの時に言われたら反対してたかもしれないし。一番しんどい思いしてたのはあんただったんだから。それでね、暢がいろいろ学校での話をするじゃない。あんたも暢や元から聞いたと思うけど、先生の付き合っていた彼女の話を聞いて、ぴったりあんたに当てはまるじゃないのって思って、ちらっと元の顔を見たら、どうにも気まずそうな表情をしてるのよね。あっ、こいつ、知ってるんだって思った。あんたは元には何でも相談してたから、だからあんたが出て行く時に熱心に肩を持っていた訳よね。あんたもあの子も何も言ってくれないから、だからお母さん、ずっと思ってた。あんたにばかり苦労かけて、この家にいるのが嫌になったんだって。元はそうじゃないって言ってくれてたんだけど、すごく反省して、ずっと悲しかった」
「ごめんなさい……」
「でも、暢の話を聞いてたら、先生って良い人なのよね。どうしてあんたと喧嘩する事になったのかわからないの。聞けば聞くほどあんたには勿体ない人に思えてきて。おまけにずっとあんたに会いたがっているみたいだったし」
「いろいろあったの。お母さんにも、元にも言えないようなことが」
「そりゃ、そうでしょう。でも、仲直りできたの?」
「うん、昨日先輩の家に行って、きちんと話してきた。いろいろあったこと、全部水に流すって約束してきた」
「そう、良かったわね。もしあんたがあの先生と付き合いたいって言うのなら、お母さん、賛成だから」
「早とちりしないでね。喧嘩した事もなかったことにするって言うだけで、これからどうするかなんてことは決めてないんだから」
「あんた、まさか大学でもう好きな人ができたとか?」
「ううん、ちょっと微妙なんだけど。でも卒業までにはきちんと決めるから、心配しないで見守っていてね」
「仲直りできたのなら、もうここに戻ってくるのに何の差し障りもないのよね」
「うん。時間があればまた帰ってくるから、待っててくれていいよ」
「一度あんたの部屋にも行ってみたいけど、それはダメかな?」
「だめだめ、それだけはやめてよね」
 由布は必死で止めた。それだけは困る。何しろ男の人と同居しているなんて、少なくとも親にだけは知られたくなかった。
「わかった。そうよね、家から離れて住んでいる大学生なんて、昔も今も同じよね。私だっていろいろ好き勝手にやってたし。あんたがお腹にできたのもそういうことだったし」
 こどもが出来ればいいなと、由布は思ってみた事も幾度もあった。そうなれば家に帰らなくてもすむことになったのに。でも、今は逆に子どもができなかったから、自分の将来を選ぶ選択権もあるのだが。でも母にはどんな選択権があったのだろう。そんなことを考えていたら、同じ事を母も考えていたようだった。
「あんたに一つだけ言っておくけどね。どうも誤解してるみたいなんだけど。わたしね、あんたが出来て大学を辞める事になったこと、後悔した事なんて一度もないのよ。お父さんと3人で暮らす事をわたしは選んだの。その方がわsたしにとっても良いって思ったから。もし大学に残りたかったなら、あんたを産んでなかったと思う。でも、それって、すごく後悔してたと思う。一生後悔したでしょうね。あんたが産まれて、元が産まれてお母さんの体調悪くなったけど、それでも子どもはたくさん欲しかった。だから暢を産んだの。どうしてももう一人欲しかったの。結果としてはあんたに一番迷惑掛ける事にはなったけど」
「迷惑なんて思ってないわよ。元も暢も大好きだから、産んでくれたお母さんのことも……」
「あんたたちの名前ね、本当はお母さんの覚悟が詰まってるの。あんたを産んで3人の生活をしていくことに正直不安はあったから、勇気が欲しいって。元が産まれた時は元もわたしも具合がよくなかったから、ただただ元気でいればいいって。いろいろ心配したり気に掛けたりそんな生活してきたから、暢が産まれた時には今度こそ暢気にやっていきたいなって。でも、あんたたちって誰に似たのかな。3人とも引っ込み思案で。大丈夫かなって心配したりもするけど。でもあんたにはあんなしっかりした先生がいたってことわかったし、元にもずっと百合ちゃんがついていてくれてるし。百合ちゃんって本当はきついのよね。言い出したら後には引かないような。元も大変だなって思ったりするけど、その方が元には良いのかもしれないね。嫌いじゃないわよ、ああいう性格の子。何かお母さんもやりがいがあるっていうか、負けられないってそんな気分にさせてくれて、嫁姑の戦いが始まるの、楽しみにしてるの」
「百合ちゃん、大変なところにお嫁に来る事になるのね、気の毒に」
「そうでもないわよ、あの子も楽しみにしてるって、はっきり言ってたし。たぶん一番おろおろするのはあんただと思ってるけどね。それから、わたしはよく知らないけど、暢にもしっかりした彼女がいるみたいだしね。あの子も気が小さいところがあるけど、しっかりした子がそばにいてくれたりしてるから、お母さん、何も心配することないみたい。ほんとはもっとあれこれ面倒見てやりたいけど。母親って寂しい物ね」
「大丈夫よ、みんなこれからもどんどんお母さんに心配ばかりかけることになると思うから」
「時々ふと思う事もあるのよ。大学きちんと出ていたらどうなっていたのかな、なんて。そんなことってあんたも思った事あるんじゃない?自分が男の子だったらとか、百合ちゃんの家に生まれていたらどうだったとか。お母さんが大学に未練があるように見えたのは、そういうことなの。ありえない世界に自分がいたらどうだろう、なんてたわいもないこと」
「何となくわかる。私だって、もし2年早く産まれていたらな、なんて思ったりした事あったから」
「あんたとこんな話するの、初めてかしら」
「そうみたい。もっと早く話できてたらよかったのに、ごめんなさいね。これから親孝行出来なかった分やっていくからね。またゆっくり話しましょう」
「あんたには十分親孝行してもらったわよ。そうね、これからはあんたが幸せに暮らすのを見るのが一番の親孝行だから。だから必ず戻ってきてね」
「うん、わかった。この村から追い出されたような気分で出て行ったんだけど、どうもこの町は、私に戻ってきて欲しがっているみたいだってわかったから」
「何にも持たせる物ないけど、体だけには気をつけてね」
「ありがとう、お母さん。じゃあ荷物の整理もあるから。お母さんも無理しないでね。元や百合ちゃんに甘えてもいいからね」
 立ち上がって部屋に戻ろうにも、いつまでもそのきっかけを見つけられない由布だった。