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これまで見落としていた聖徳太子碑、爪彫如来(つめぼり・にょらい)などを参拝した7月29日、午前5時30分までに内陣へ入ると、お朝事(あさじ)は参詣できると聴いたので、翌朝4時過ぎに長野駅前のホテルを発ちます。
人気のない参道に充満しているヒンヤリと爽やかな早朝の空気は、身体の中で抵抗を続ける眠気を体外に拡散してくれます。1.8kmの参道を徒歩で本堂へ向かうのは、御開帳から数えて5回目。
日の出前に打ち鳴らされる双盤(そうばん)を合図に始まる信州善光寺の一日は早い。
妻戸台(つまどだい)の太鼓、堂奉行の打ち鳴らす拍子木の音が本堂内に響き渡ると、内々陣(ないないじん)と内陣(ないじん)を仕切っている朱塗りの唐戸が開かれ、お朝事の用意が粛々と進められます(善光寺御開帳公式ガイドブック他)。
本堂へ入る向拝階段を上ると外陣(げじん)です。
大太鼓が置いてある妻戸台とその右横の定位置に座っている「びんずる尊者像」の右腰を撫でて通り抜けたのは、5時15分過ぎ。まだ薄暗い外陣で3~4人の参詣者が本尊に合掌しているほかは、瑠璃壇(るりだん)、燈明(とうみょう)、供物などを管理する数人の当番僧が、内々陣右横にある勤番の間で歓談しているだけで、だだっぴろい本堂内に人影はありません。
それでも、お朝事を参詣する今日は、内陣へ入らないとホテルへ戻れません。
自動発券機に500円硬貨を投入して参拝券を購入します。内陣の入口には、参拝券を確認する係りの女性が待機しており、脱いだ靴をビニール袋に入れるように促すと、参拝券にスタンプを押しながら言葉をかけてくれます。
「鳳凰(ほうおう)の戸張(とばり)前にお座り下さい」
ところで、瑠璃壇とも呼ばれるご本尊を安置している須彌壇(しゅみだん)の前には、鳳凰と龍の2枚の金襴(きんらん)の戸張がかけられています。戸張の内々陣側は現世、御宮殿(ごくうでん)側は来世とされ、この世とあの世との結界(けっかい)を表しているとのことです。なぜ、戸張の図柄が鳳凰と龍なのか? 元気印には、時が必要です。
この戸張は、お朝事、毎日の定例である定式(じょうしき)や他の法要のときに上げられます。
それに、正午の開帳は、毎日行われています。
ちなみに、ご本尊の善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)が安置されている御宮殿(ごくうでん)を拝することが御開帳である。このことは、今回、改めて信州善光寺を調べていて知りました。御開帳は数えで7年に1回だけではなく毎日行われ、厨子(ずし)が安置されている宮殿の扉が開けらているのでした。
しかし、善光寺如来は、桂昌院(けいしょういん:徳川綱吉の母)が寄進した御宮殿の中の厨子に納められており、善光寺如来自ら「秘仏」になると宣告されため拝謁できません。
また、大勧進の宝庫に安置される善光寺如来の分身である前立本尊(まえだちほんぞん)を拝謁する機会は、瑠璃壇へ遷座し厨子の戸が開かれる7年毎の御開帳しかないのです。
さて、元気印が独占した152畳の内陣座席正面の内々陣には、高座が設けられています。
大勧進僧正、大本願上人、法要時の導師僧正が坐る高座の右方には磬盤(けいばん)、柄香炉台(えこうろだい)が左方に置かれています。
高座を整える僧侶が入ってきます。僧侶は合掌して高座に坐るとお朝事の準備を整え始めます。高座の左右側面には、経衆座が並べられ、経箱が僧侶の人数分置かれています。やがて、高座の清掃を終えた僧侶が退場するとお朝事が始まります。
最初は、大勧進僧正によるお勤め(読経)でした。
天台宗一山住職がそれぞれの経箱前の経衆座に座して、大勧進僧正のお出ましを待ちます。
お朝事が始まる前に戸張があげられると、大勧進僧正は厨子が納められている宮殿の前に座して、厳かにお朝事の準備を行います。大勧進僧正の後ろ姿からは、無心状態でお努めをしている様子が窺えます。
大勧進僧正が御宮殿から内々陣へ入られ礼盤(らいばん)に着席するとお勤めが始まり、天台宗一山住職全僧の読経が本堂一杯に響き亘ります。お朝事が進行する途中で戸張が上げられると、扉の開いた宮殿が拝謁できます。ご本尊が安置されている須彌壇が神々しくなる瞬間でした。
お朝事が終りに近づくと大勧進僧正は、参拝者に対面して十念を授けます。参詣者は大僧正と共に「南無阿弥陀仏」を10回唱えて、善光寺如来の孝徳を授かります。
一方、大本願上人のお勤めは、浄土宗一山住職との読経に代わります。
お朝事は、大勧進僧正と同様に進行しますが、上人は高座に坐ったまま参拝者へ十念を授けます。
「南無阿弥陀仏」を唱えるリズムは、大勧進と大本願では語尾が少し違っていると感じながら、十念を授かってきました。
おおよそ70分間のお朝事参拝が終わり外陣へ出るころには、朝の散歩で境内を巡っている地元の人達が本尊に向かって合掌しています。それに、「びんずる様」の撫で方が違います。自分の頭を触れた手を「びんずる様」の頭に触れると合掌して去って行く。撫仏(なでぼとけ)にチョット触れる感じ。自然体で撫でて行くだけ。生活の中に溶け込んでいるんですね。
何時も繰り返されている外陣の光景に見とれていると、お勤めを終えた上人が大本願へ帰るところでした(写真)。信州善光寺の特徴を捉えた、お気に入りの風景です。
寛政6(1794)年に没した百井塘雨(ももい・とうう)の「笈埃随筆(きゅうあいずいひつ)」に、お朝事のことが延べられていますので、「善光寺の不思議と伝説」(笹本正治著)から引用して終りにします。
「ちなみにいいますと、私は六十六か国の中で行ったことない国はわずかに五、六か国に過ぎません。最も神社仏閣へはことごとく参詣しましたが、この善光寺ほど尊くありがたく覚えたことはありませんでした。故に、一夜念仏堂に通夜いたしましたが、昧爽(まいそう)より勤行(ごんぎょう)が始まり、日の出とともに戸張を開きました。また日没の時は称名念仏をして、御戸張を閉めます。その殊勝に尊いことはいうこともできません。仏壇の荘厳は美麗で、燈燭(とうしょく)のきらめき、堂内の老若など、ただ本尊出現のように思えるだけでした。もとより殿宇の結構さは類がありません」
元禄14(1701)年に始まった信州善光寺の本堂は、宝永3(1706)年8月15日に落成供養をしています。念仏堂は本堂であり、152畳の内陣で一夜を明かす習慣が当時ありましたので、一夜念仏堂に通夜した、と書き記したのでしょう。
百井塘雨ほどの人物が、お朝事を参詣して得られる気持ちは、殊勝に尊いことはいうこともできないのだから、凡人の元気印が尊さを表すことは、とても、とても無理な相談です。塘雨の随筆を引用して、元気印の気持ちを代弁してもらった次第です。
人気のない参道に充満しているヒンヤリと爽やかな早朝の空気は、身体の中で抵抗を続ける眠気を体外に拡散してくれます。1.8kmの参道を徒歩で本堂へ向かうのは、御開帳から数えて5回目。
日の出前に打ち鳴らされる双盤(そうばん)を合図に始まる信州善光寺の一日は早い。
妻戸台(つまどだい)の太鼓、堂奉行の打ち鳴らす拍子木の音が本堂内に響き渡ると、内々陣(ないないじん)と内陣(ないじん)を仕切っている朱塗りの唐戸が開かれ、お朝事の用意が粛々と進められます(善光寺御開帳公式ガイドブック他)。
本堂へ入る向拝階段を上ると外陣(げじん)です。
大太鼓が置いてある妻戸台とその右横の定位置に座っている「びんずる尊者像」の右腰を撫でて通り抜けたのは、5時15分過ぎ。まだ薄暗い外陣で3~4人の参詣者が本尊に合掌しているほかは、瑠璃壇(るりだん)、燈明(とうみょう)、供物などを管理する数人の当番僧が、内々陣右横にある勤番の間で歓談しているだけで、だだっぴろい本堂内に人影はありません。
それでも、お朝事を参詣する今日は、内陣へ入らないとホテルへ戻れません。
自動発券機に500円硬貨を投入して参拝券を購入します。内陣の入口には、参拝券を確認する係りの女性が待機しており、脱いだ靴をビニール袋に入れるように促すと、参拝券にスタンプを押しながら言葉をかけてくれます。
「鳳凰(ほうおう)の戸張(とばり)前にお座り下さい」
ところで、瑠璃壇とも呼ばれるご本尊を安置している須彌壇(しゅみだん)の前には、鳳凰と龍の2枚の金襴(きんらん)の戸張がかけられています。戸張の内々陣側は現世、御宮殿(ごくうでん)側は来世とされ、この世とあの世との結界(けっかい)を表しているとのことです。なぜ、戸張の図柄が鳳凰と龍なのか? 元気印には、時が必要です。
この戸張は、お朝事、毎日の定例である定式(じょうしき)や他の法要のときに上げられます。
それに、正午の開帳は、毎日行われています。
ちなみに、ご本尊の善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来)が安置されている御宮殿(ごくうでん)を拝することが御開帳である。このことは、今回、改めて信州善光寺を調べていて知りました。御開帳は数えで7年に1回だけではなく毎日行われ、厨子(ずし)が安置されている宮殿の扉が開けらているのでした。
しかし、善光寺如来は、桂昌院(けいしょういん:徳川綱吉の母)が寄進した御宮殿の中の厨子に納められており、善光寺如来自ら「秘仏」になると宣告されため拝謁できません。
また、大勧進の宝庫に安置される善光寺如来の分身である前立本尊(まえだちほんぞん)を拝謁する機会は、瑠璃壇へ遷座し厨子の戸が開かれる7年毎の御開帳しかないのです。
さて、元気印が独占した152畳の内陣座席正面の内々陣には、高座が設けられています。
大勧進僧正、大本願上人、法要時の導師僧正が坐る高座の右方には磬盤(けいばん)、柄香炉台(えこうろだい)が左方に置かれています。
高座を整える僧侶が入ってきます。僧侶は合掌して高座に坐るとお朝事の準備を整え始めます。高座の左右側面には、経衆座が並べられ、経箱が僧侶の人数分置かれています。やがて、高座の清掃を終えた僧侶が退場するとお朝事が始まります。
最初は、大勧進僧正によるお勤め(読経)でした。
天台宗一山住職がそれぞれの経箱前の経衆座に座して、大勧進僧正のお出ましを待ちます。
お朝事が始まる前に戸張があげられると、大勧進僧正は厨子が納められている宮殿の前に座して、厳かにお朝事の準備を行います。大勧進僧正の後ろ姿からは、無心状態でお努めをしている様子が窺えます。
大勧進僧正が御宮殿から内々陣へ入られ礼盤(らいばん)に着席するとお勤めが始まり、天台宗一山住職全僧の読経が本堂一杯に響き亘ります。お朝事が進行する途中で戸張が上げられると、扉の開いた宮殿が拝謁できます。ご本尊が安置されている須彌壇が神々しくなる瞬間でした。
お朝事が終りに近づくと大勧進僧正は、参拝者に対面して十念を授けます。参詣者は大僧正と共に「南無阿弥陀仏」を10回唱えて、善光寺如来の孝徳を授かります。
一方、大本願上人のお勤めは、浄土宗一山住職との読経に代わります。
お朝事は、大勧進僧正と同様に進行しますが、上人は高座に坐ったまま参拝者へ十念を授けます。
「南無阿弥陀仏」を唱えるリズムは、大勧進と大本願では語尾が少し違っていると感じながら、十念を授かってきました。
おおよそ70分間のお朝事参拝が終わり外陣へ出るころには、朝の散歩で境内を巡っている地元の人達が本尊に向かって合掌しています。それに、「びんずる様」の撫で方が違います。自分の頭を触れた手を「びんずる様」の頭に触れると合掌して去って行く。撫仏(なでぼとけ)にチョット触れる感じ。自然体で撫でて行くだけ。生活の中に溶け込んでいるんですね。
何時も繰り返されている外陣の光景に見とれていると、お勤めを終えた上人が大本願へ帰るところでした(写真)。信州善光寺の特徴を捉えた、お気に入りの風景です。
寛政6(1794)年に没した百井塘雨(ももい・とうう)の「笈埃随筆(きゅうあいずいひつ)」に、お朝事のことが延べられていますので、「善光寺の不思議と伝説」(笹本正治著)から引用して終りにします。
「ちなみにいいますと、私は六十六か国の中で行ったことない国はわずかに五、六か国に過ぎません。最も神社仏閣へはことごとく参詣しましたが、この善光寺ほど尊くありがたく覚えたことはありませんでした。故に、一夜念仏堂に通夜いたしましたが、昧爽(まいそう)より勤行(ごんぎょう)が始まり、日の出とともに戸張を開きました。また日没の時は称名念仏をして、御戸張を閉めます。その殊勝に尊いことはいうこともできません。仏壇の荘厳は美麗で、燈燭(とうしょく)のきらめき、堂内の老若など、ただ本尊出現のように思えるだけでした。もとより殿宇の結構さは類がありません」
元禄14(1701)年に始まった信州善光寺の本堂は、宝永3(1706)年8月15日に落成供養をしています。念仏堂は本堂であり、152畳の内陣で一夜を明かす習慣が当時ありましたので、一夜念仏堂に通夜した、と書き記したのでしょう。
百井塘雨ほどの人物が、お朝事を参詣して得られる気持ちは、殊勝に尊いことはいうこともできないのだから、凡人の元気印が尊さを表すことは、とても、とても無理な相談です。塘雨の随筆を引用して、元気印の気持ちを代弁してもらった次第です。
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