いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

信州善光寺 鉄舟揮毫の続番外編:心よく、楽しみと作(な)す

2009-09-23 17:53:07 | 散策
長野市での宿泊先をネット検索した長野裾花峡温泉「元湯・うるおい館」に宿泊したお陰で、山岡鉄舟が揮毫した扁額のあった渋温泉・大湯に巡り合った経緯は、前回書きました。

渋温泉は、長野駅から長野電鉄の特急で約50分の所にあり、奈良時代に発見されたと伝聞されている温泉です。武田信玄が複数もっていた隠し湯のひとつとも言われ、嘉元3(1305)年、京都の諸国巡行僧が建てた草庵が始まりとされる温泉寺があります。天文22(1553)年4月から5回の合戦が12年に亘って繰り広げられ、永禄7(1564)年10月に終わった川中島の戦いで負傷した兵士を療養させた場所とも言われています。また、信玄の指示により伽藍が整えられたのも永禄7年のことです。

残念ながら、渋温泉まで足を延ばしていません。
「うるおい館」の隣で信州牛を使ったすき焼き・しゃぶしゃぶ店を営んでいる「すし亭」の前庭に移築・復元した「洗心亭」に出会わなければ、渋温泉の存在は永久に蚊帳の外であったでしょう。ここにも、善光寺との眼に見えない縁があるのでしょうか。

そんなわけで、渋温泉について情報を集める羽目に・・・。
渋温泉には、旅館が35軒、外湯が9ヵ所あって、外湯は地元の人の専用湯ですが、渋温泉の宿泊客は無料で鍵を借りて、9ヵ所の協同浴場に入浴できる「外湯巡り」があります。
これは、温泉通には常識の範囲でしょう。でも、元気印は初めて知りました。

一番湯は初湯、順次、笹の湯、絹の湯、竹の湯、松の湯、目洗い湯、七躁(ななくり)の湯、神明滝(しんめいたき)の湯、大湯と呼ばれています。それぞれ、泉質・効能が違い、浴槽も2~3人、5~6人と、各湯により大きさも同じではないようです。ネットで見つけた写真の大湯の浴槽は、銭湯並みの大きさがあります。それで、日帰り客用に有料開放していますが、15名以上の団体は利用できません。

さて、山岡鉄舟の揮毫「楽作快」(写真)は、九番結願湯・大湯扁額の原本です。
ところで、明治維新後は、明治天皇に仕え、侍従、宮内小輔(しょうゆう)を歴任したほどの鉄舟は大湯の特別浴場へ入ります。そうでなければ、湯元は鉄舟に対して礼節を欠くことになります。そこから、八方破れな想像力を掻きたてます。鉄舟は地元の人たちと裸の付き合いをした。そこで、楽作快を思いついたのでは・・・。

ここまで考えがおよんだ時、想像だにしなかった情報がもたらせられたのです。

『臨済宗が廃れているころ、鉄舟が信州善光寺を訪れた。
鉄舟は、長野市の周辺に臨済宗の寺はないかと善光寺の僧侶に尋ねると、飯山市に正受庵(しょうじゅあん)があると言われ、泥舟と共に、そこを訪れた。

正受庵の住職は、寺を復興させるための資金集めを行っていたので、鉄舟と泥舟(でいしゅう)は復興資金集めにとの思いから揮毫した。それを基にして復興資金が集まった。その後の様子を見るために鉄舟は正受庵を訪れたが、前のままであった。

鉄舟は、住職に揮毫で集めた復興資金の使途を「飲んだのか」と糾したが、住職は黙って微笑むだけであった。そこで、帰途、鉄舟は住民にことの次第を質した。
集めた復興資金は、地震災害を受けたところへ寄付してしまい、未だに正受庵が復興されていないと知った鉄舟は、再度、復興資金集めをするために揮毫をした。この時は、中野市や山の内町まで広げて資金集めを行った。

渋温泉の大湯に掲げた扁額は、北信タイムスの記者・故直江氏が何処かにあったものを、渋温泉に持ち込み保存の手筈を整えた。その祭、鉄舟の扁額はきちんと表装したが、最初の揮毫か、2度目のそれかは不明である。「心我洗」は、鉄舟の義兄・高橋泥舟が揮毫している。

鉄舟の揮毫「楽作快」は、快く楽しみをつくる。
すし亭の店主が大湯を移築・復元した時に書いた扁額が、「楽作便」となった。
善光寺大本願の上人が篇額に書くときに間違ったようだ』

渋温泉で旅館を営んでいる老舗旅館の古老が解説してくれた鉄舟の揮毫と「すし亭」の扁額にまつわる経緯です。

このような伝聞をお伺いしてから数日後、「みゆき野寺めぐり」「幕末三舟遺墨展」から複写した資料が古老から送られてきたのです。また、資料内容を確認する適任者として、北信ローカルの某氏を紹介して下さったので、早速コンタクトします。その方が提供してくれたものが後者です。その中に「楽作快」と「心我洗」の原本写真が掲載されており、それを撮影して掲載しました。

「楽作快」の注書を紹介して、渋温泉の古老と北信ローカルの心ある方へ感謝の意を表します。

『渋温泉大湯女湯にある山岡鉄舟の「快作楽」原本は、和合会で所蔵』

ここまでは、古老に伺った話しを基にして書きましたが、補足します。

幕末に活躍した勤王家で書家としても著名な長三州(ちょう・さんしゅう)がいます。
桂小五郎(木戸考充)、高杉晋作らと親交が深く、江藤新平とは明治新政府の太政官大史として共に働いた三州は、木戸考充をして、「廃藩置県」の成功をもたらしたのは三州の「新封建論」の草稿による、と言わしめている人物です。

一方、鉄舟が消耗する墨を調達していた弟子・梅仙は、師匠の墨を供給することで身代を起こしています。一日に500枚でも千枚でも忽ちに書いて仕舞う、と伝えられている鉄舟の逸話は、嘘ではなかった。鉄舟の揮毫枚数を梅仙から聴いた三州は「そんなに書けるものではない」と信じなかった。

 「これほどの達者とは思わなかった。草書では300年来の書き手である」

自分の書に感嘆する三州のことを聞いた鉄舟は、

 「そりゃ、長さんは字を書くのだから骨が折れるが、おれのは墨を塗るのだからわけのない話だ」

写真の「楽作快」は、墨を塗っただけのものなのでしょうか・・・。

明治天皇は六大巡幸をなされました。
明治11(1878)年8月から行われた第三回目の北陸・東海道巡幸の際、明治天皇は信州善光寺に
立ち寄られています。巡幸に随従していた鉄舟は、そこで門人の内田三郎兵衛から正受庵の廃寺
を聴き、再興の決意を固めたようです。

明治天皇の侍従の身では自由行動が許されない鉄舟は、義兄・泥舟に正受庵の調査を依頼します。
泥舟は、正受老人の辞世や賛が入った肖像などを発見し驚きますが、表装して正受庵へ納め、鉄
舟へ報告します。それから泥舟は、鉄舟と共に再興に取り掛かります。鉄舟が信州善光寺で正受
庵の廃寺を知ってから5年後、明治16(1883)年のことです。

翌年、鉄舟は「正受庵再興募縁の序(奉加帳)」を作成します。
正受庵は臨済宗にとって、釈迦が説法した霊鷲山にも比すべき霊域であることを強く訴え、再興
の官許を得ています。
庶民にとって1円は精一杯のご時世に、鉄舟100円、泥舟50円を奉加したのですが、復興資金
不足を賄えませんでした。鉄舟と泥舟は、看板、半折、額などの潤筆料で復興資金を稼ぐため渋
温泉に逗留して、高井地方を回ったのでした。

一般公開されている鉄舟と古老が語ってくれた伝聞とを噛み合わせると、生身の鉄舟像が浮かび
あがってきませんか。
信州善光寺を参詣したご縁から、鉄舟の生き方の一端を垣間見ることになりました。

現在の正受庵は、映画「阿弥陀堂だより」に登場していたのです。
上田孝夫(寺尾聡)の恩師・幸田重長(田村高廣)の居宅が正受庵であることを、今回の情報収
集で知りました。

鉄舟の主張と尽力によって白隠慧鶴(はくいん・えかく)は、国師号を贈られ、臨済宗の中興の
祖として認められます、その師である正受老人の辞世の句「座死(ざし)」の掛け軸も映画の中に
登場しているようなので、映画好きには、楽しみがひとつ増えました。
これも、御開帳参詣で信州善光寺の大回向柱に触れたご縁なのでしょう。


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