いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

寅さんがつかった産湯

2006-10-14 15:06:05 | Weblog
帝釈天の二天門を潜ると、身の丈より長く延びて帝釈堂の前を横切っている、生気
にあふれた緑色をした松の枝が眼に入ってくる。大正4(1915)年に完成した帝釈
堂も脇役に見える。

二天門と帝釈堂に挟まれるようにして、浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)と御神水(ごしんすい)が左側に横並で配置されている。

帝釈天で産湯をつかい
姓は車 名は寅次郎

寅さんが、産湯につかったのは、湧水だった。
映画では帝釈天境内のシーンが少ないので、浄行菩薩も御神水も見られないが、どちらも参拝者の人気スポットになっている。

湧き水を、ひしゃくで飲む参拝者が多い。ペットボトルに汲んで持ち帰った参拝者がいたが、「お水取り」に訪れたのだろうか。「御神水」を飲んで『運』が向くように祈願する様子にも、参拝者の嗜みが感じられる。試しに飲んでみる。生暖かく、温泉っぽい味がした。

信奉する易者に方位みてもらい、大吉の方位にある場所で「お水取り」を続けてい
る友人がいる。毎回、その場所が違うところになるのに、遠出も厭わず、数十年間
欠かさずに励行している。
環境の変化が激しくて湧き水の出るところが激減してしまい、場所探しに苦労している様子だった。

江戸寛永の昔、日榮(にちえい)上人が、松の根方に湧き出る水を霊泉として、庵(いおり)を結んだのが、当山の縁起である、と故事来歴が記されている。
柴又帝釈天は経栄山題径寺(きょうえいざん・だいきょうじ)の愛称であること
を、縁起で知った。

ちなみに、日本史年表を調べると、寛永時代は1624年から1643年までの20年間で、将軍が徳川秀忠から家光に替わった2年目が、寛永元年に当っている。

初代中村勘三郎が江戸中橋南地(現日本橋)に猿若座の櫓を上げたのが寛永元年2
月。昨年3月に勘三郎を襲名した五代目勘九朗は十八代目だから、中村家は、江戸歌舞伎を起こしてから480年以上の歴史を背負っている。

春日局が寛永20(1643)年10月に、65歳で没している。時の流れは、4年間で慶安
に改められた正保(しょうほう)に移って行く。正保2年12月に吉原が全焼している。こんな余禄が得られるのも、寅さんの草鞋に「左足タッチ」をしたご利益だ。
(寅さんの左足で紹介)

寅さんがつかった産湯の水は、500年以上を経ても「御神水」として崇められ、今
も、こんこんと湧き出てきて、善男善女に汲めども尽きない御利益を授けている。

運の強い人はより強運を呼び込む、不運を嘆く人は強運を掴む為、吉とされる方位
に行ってその場所の水を飲み、その願望を叶える「お水取り」。
松の根方に湧き出る水を霊泉と崇めて庵を作った日榮上人。
何十年も「お水取り」に精勤している社長さんの姿に、日榮上人の心情を忖度し
た。

ボケ封じ観音さまは浄土真宗なので、日蓮宗のことについては気乗りしないのだ。
座禅を組んで黙想している。
同じ宗派の元気印も座禅を組むと話が先に進まないので、帝釈天で入手した縁起や
日本史年表などをめくりながらブログを書く羽目になった。

『慈悲の泉は湧き出て止まず、身を清めて心のえりを正して念じ、そして唱えよ』

ガバッ、と黙想から醒めたボケ封じ観音さまは、これだけを言い残して、何処かへ飛んで行った。

今日は土曜日。BSで「男はつらいよ・寅次郎真実一路」の放映がある。

私 生まれも育ちも
葛飾柴又です
帝釈天で産湯をつかい
姓は車 名は寅次郎
人呼んで
フーテンの寅と発します

マドンナは、大原麗子。
矢切の渡し船に乗った寅さんは、どんな気持ちで江戸川を渡るのだろうか。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 草鞋の紐の柴又慕情 | トップ | 長寿の源泉は、100本の清酒 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事