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佐倉城址公園にある姥ヶ池の名前の由来を記した案内看板が池の辺に立てられています。
『古今佐倉真佐子(ここん・さくら・まさご)』(以下真佐子)から引用した内容と伝聞を併せた内容になっているようです。
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『この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。春先には近在のひき蛙が数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙合戦を行ったと「古今佐倉真佐子」(江戸時代中期の書物)に記されています。』
これが前半の案内で、真佐子の著者・渡辺善右衛門が佐倉に在住したのは、稲葉正往(まさみち)が佐倉藩主で、父・正往の死後、家督を継いだ正知(まさとも)が治めいていた時代になります。年代で表すと元禄14(1701)年から享保2(1717)年までの16年間です。
善右衛門は、越後高田藩主・稲葉正往が佐倉へ転封した元禄14年、稲葉家の江戸下屋敷で生まれて2歳から12歳まで佐倉で暮らし、父が江戸詰めになった4年間を小川町で過ごしています。16歳で稲葉家の家督を継ぎ、150石の知行をもつ勝手役(財政担当)となって佐倉へ戻りますが、22歳の享保2年、幕府は稲葉氏に佐倉から京都淀へ国替えする命令(転封)を発令します。これに併せて渡辺家も淀へ転居しています。
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真佐子は、善右衛門が佐倉で過ごした16年間を回想した佐倉生活の記録です。
この本を印刷して一般販売すると、佐倉ガイドブックとしてかなり売れただろうと推測される内容になっています。
佐倉領に住んでいた武家と居住地、領民の生活習慣や行事、領内の様子や他領との境界など、また、当時語り伝えられていた出来事なども記述しています。
姥ヶ池の記述もありました。独断と偏見の意訳で紹介します。
『この池は臼田理兵衛門の屋敷脇にある、流れのない溜池です。不味くて人が飲め
ない水でも、鮒が沢山棲みついています。毎年春になると、6,7里も離れた周辺 から数千匹の蛙が池へ集まり産卵をします。集まった蛙は池の周りを取り囲み、 つがい(番)を求める鳴き声に包まれます。その様子は、あたかも、蛙が両軍に 別れて嫁取り合戦を繰り広げているような風景です。蛙は池の左右に別れて、昼 夜7日にわたって入り乱れて噛み付きあい、子孫を残す相手を獲得するまで戦い 続けます。
戦で手負いになった蛙を手助けして池に入るように見える蛙もいます。
この時期になると、池の周辺の地域にひき蛙は見られなくなります。暫くする と、無事に産卵を終え元の棲家に戻った蛙の姿が、あちら、こちらで見かけるよ うになります』
池の周辺地域、24から28Km辺りからひき蛙がいなくなり、産卵が終わると戻ってくる、との話を百姓たちから聞いた善右衛門は、蛙合戦は珍しいことなので見物人が耐えなかったが、ひき蛙は池の周りに大勢の見物人がいようと、土を固めて投げつけられても一切構わず戦い続けた、これが名高い蛙合戦です、と書き続けています。
一昨年4月2日、佐倉城址公園散策をした際、ボランティアガイドが「池が卵で真っ白になるくらい蛙がいた」と説明してくれたので、蛙合戦もどき様相はあったのでしょう。
今も合戦に勝ち残った蛙の子孫が棲んでいます。睡蓮の時期になると葉の上で昼寝
をしている姿を見つけることもあります。どんな夢を見ているのでしょうか。
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案内板の後半に移ります。
『後に(天保年間)この池のまわりで家老の娘をお守りしていた姥が誤って娘を池に落としてしまい、娘はそのまま沈んでしまいました。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥ヶ池」と云われるようになりました。』
真佐子の補注(佐倉市史料第二集・古今佐倉真佐子)では、次のように説明しています。
『堀田家家老・植松求馬の娘がこの池に落ちて死んだため、その姥が責任を感じて自分も池に飛び 込んで自殺した。以来、うばが池という』
家老の娘ではなく若君、藩の侍の男の子とする伝聞も残っているようですが、ここでは補注を信じたいと思います。
いつごろの出来事で誰が残したのかなど不詳な話ですが、他の伝承も聞いたので紹介しましょう。
『その昔、池のドブさらいをした時、1両小判が13枚出てきた。埋蔵金の一部に違 いないと再度ドブさらいをしたが、1枚だけだった』
佐倉には、保存・公開されている武家屋敷が3軒あります。
旧河原家は300石扶持の武士が住んでいた屋敷で、残っている武家屋敷の中では最古のものと解説されています。隣の旧但馬(たじま)家住宅は、知行150石の武家屋敷です。
善右衛門が暮らしていた屋敷も同じ規模かと思い巡らしながら旧但馬(たじま)家を見学していると、感慨深いものかありました。
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写真は、姥ヶ池の辺で咲いていた桜です。(撮影:4月1日)
『古今佐倉真佐子(ここん・さくら・まさご)』(以下真佐子)から引用した内容と伝聞を併せた内容になっているようです。
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『この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。春先には近在のひき蛙が数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙合戦を行ったと「古今佐倉真佐子」(江戸時代中期の書物)に記されています。』
これが前半の案内で、真佐子の著者・渡辺善右衛門が佐倉に在住したのは、稲葉正往(まさみち)が佐倉藩主で、父・正往の死後、家督を継いだ正知(まさとも)が治めいていた時代になります。年代で表すと元禄14(1701)年から享保2(1717)年までの16年間です。
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善右衛門は、越後高田藩主・稲葉正往が佐倉へ転封した元禄14年、稲葉家の江戸下屋敷で生まれて2歳から12歳まで佐倉で暮らし、父が江戸詰めになった4年間を小川町で過ごしています。16歳で稲葉家の家督を継ぎ、150石の知行をもつ勝手役(財政担当)となって佐倉へ戻りますが、22歳の享保2年、幕府は稲葉氏に佐倉から京都淀へ国替えする命令(転封)を発令します。これに併せて渡辺家も淀へ転居しています。
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真佐子は、善右衛門が佐倉で過ごした16年間を回想した佐倉生活の記録です。
この本を印刷して一般販売すると、佐倉ガイドブックとしてかなり売れただろうと推測される内容になっています。
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佐倉領に住んでいた武家と居住地、領民の生活習慣や行事、領内の様子や他領との境界など、また、当時語り伝えられていた出来事なども記述しています。
姥ヶ池の記述もありました。独断と偏見の意訳で紹介します。
『この池は臼田理兵衛門の屋敷脇にある、流れのない溜池です。不味くて人が飲め
ない水でも、鮒が沢山棲みついています。毎年春になると、6,7里も離れた周辺 から数千匹の蛙が池へ集まり産卵をします。集まった蛙は池の周りを取り囲み、 つがい(番)を求める鳴き声に包まれます。その様子は、あたかも、蛙が両軍に 別れて嫁取り合戦を繰り広げているような風景です。蛙は池の左右に別れて、昼 夜7日にわたって入り乱れて噛み付きあい、子孫を残す相手を獲得するまで戦い 続けます。
戦で手負いになった蛙を手助けして池に入るように見える蛙もいます。
この時期になると、池の周辺の地域にひき蛙は見られなくなります。暫くする と、無事に産卵を終え元の棲家に戻った蛙の姿が、あちら、こちらで見かけるよ うになります』
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池の周辺地域、24から28Km辺りからひき蛙がいなくなり、産卵が終わると戻ってくる、との話を百姓たちから聞いた善右衛門は、蛙合戦は珍しいことなので見物人が耐えなかったが、ひき蛙は池の周りに大勢の見物人がいようと、土を固めて投げつけられても一切構わず戦い続けた、これが名高い蛙合戦です、と書き続けています。
一昨年4月2日、佐倉城址公園散策をした際、ボランティアガイドが「池が卵で真っ白になるくらい蛙がいた」と説明してくれたので、蛙合戦もどき様相はあったのでしょう。
今も合戦に勝ち残った蛙の子孫が棲んでいます。睡蓮の時期になると葉の上で昼寝
をしている姿を見つけることもあります。どんな夢を見ているのでしょうか。
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案内板の後半に移ります。
『後に(天保年間)この池のまわりで家老の娘をお守りしていた姥が誤って娘を池に落としてしまい、娘はそのまま沈んでしまいました。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥ヶ池」と云われるようになりました。』
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真佐子の補注(佐倉市史料第二集・古今佐倉真佐子)では、次のように説明しています。
『堀田家家老・植松求馬の娘がこの池に落ちて死んだため、その姥が責任を感じて自分も池に飛び 込んで自殺した。以来、うばが池という』
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家老の娘ではなく若君、藩の侍の男の子とする伝聞も残っているようですが、ここでは補注を信じたいと思います。
いつごろの出来事で誰が残したのかなど不詳な話ですが、他の伝承も聞いたので紹介しましょう。
『その昔、池のドブさらいをした時、1両小判が13枚出てきた。埋蔵金の一部に違 いないと再度ドブさらいをしたが、1枚だけだった』
佐倉には、保存・公開されている武家屋敷が3軒あります。
旧河原家は300石扶持の武士が住んでいた屋敷で、残っている武家屋敷の中では最古のものと解説されています。隣の旧但馬(たじま)家住宅は、知行150石の武家屋敷です。
善右衛門が暮らしていた屋敷も同じ規模かと思い巡らしながら旧但馬(たじま)家を見学していると、感慨深いものかありました。
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写真は、姥ヶ池の辺で咲いていた桜です。(撮影:4月1日)
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