
仮名手本忠臣蔵の絵本があります(写真:橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻1)。
高師直(こうの・もろなお)の屋敷では芸者をあげての雪見の宴会で盛り上がっていました。
「たのもう、お頼みもうす!!」と大石由良之助を筆頭に、四十七人の武士たちが乗り込み、師直の命を絶ち、志士たちは塩治判官の恨みを晴らします。師直と由良之助がもみ合っているのが絵本の場面です。
塩冶判官(えんや・はんがん)は浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)、大石由良之助(おおいし・ゆらのすけ)は大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)、高師直(こうの・もろなお)は吉良上野介(きら・こうずけのすけ)であることは、皆さんご存知でしょう。
元禄赤穂事件(元禄15年12月14日)を下敷きにした仮名手本忠臣蔵のさわりどころです。
この事件は、時の将軍・綱吉(徳川五代目)の人物評価を落とし、その治世評価にも繋がっています。そのために、徳川300年の中興の祖は吉宗とする要因にもなっているようです。
徳川十五代において、享保(きょうほう)、寛政(かんせい)、天保(てんぽう)の改革がありましたが、綱吉の治世は「天和(てんな)・貞亨(じょうきょう)の治」として、明治時代には評価されており、江戸文化の花が咲いた元禄期は、まさに、綱吉が統治していたのです。
さて、綱吉の側用人(そばようにん)を務めていた柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)が、忠臣蔵物語では、浅野家の敵役として登場しています。
それは、綱吉が吉保邸に出向く、それもたび度赴(おもむ)いているからでしよう。
将軍が側用人の家に出向くなんてことは、提灯に釣り鐘です。幕府の要職を担う重役を選ぶ物差しが家柄の時代に生きていた吉保にとっては、青天の霹靂だったでしょう。
反面、官僚制の改革を推し進めている綱吉にとっては、信頼のおける家臣・吉保の邸へ行ってくるよ、そんな軽い気持ちだったのではないかと、独断と偏見に満ちた推測をしています。
初代側用人は牧野成貞(まきの・なりさだ)です。彼の外に10数人の側用人が綱吉に任命されていますが、将軍が臣下の邸宅へ出向いたのは、成貞邸の延べ32回、吉保邸へは延べ58回ですから、尚更です。
吉保邸へ綱吉が最初に出向いたのは、元禄4(1691)年3月22日です。
その年の春頃、綱吉が神田橋内の吉保邸を訪れたい意向を漏らしたので、吉保は2月上旬ころから、自邸の横に北の御殿、中の屋、西および東の御殿、納め所(納屋)、台盤所(調理場)などを二千五百坪ほどの敷地に立て続けて準備を始めています。こじんまりとした庭、能舞台や楽屋なども備えた豪壮なご座所にして、綱吉を迎えます。
このときの吉保の振る舞いは、当時、家臣が将軍を迎える際の慣例に従っただけで、それは、綱吉も充分承知しています。綱吉は自分の目にかなう家臣を絞り込んでから、その臣下の邸へ出向く決断を下したのはた正解だったと安堵し、彼への信頼をより強めたことでしょう。
その前の年、吉保は禄(ろく)の加増を賜り、三万二千三十石の大名になります。
この時、吉保は上総両袋村(千葉県東金市一之袋、二之袋)の年貢を1年分免除します。12月25日には、従四位下に昇進します。自宅の横にある土井甲斐守利治の屋敷地三千四百八十坪を2月3日に綱吉から拝領したと、松蔭日記にあります。そこの一部にも、北の御殿をはじめとする建物等を建設したものと思われます。
それでも、完成した建物の中は空っぽです。
御殿などの内装や大工工事、装飾品や調度品類などは、賓客が満足するようにしなければなりません。庭の植木などにはそれなりの心遣いを込め、当時流行の大名庭園と比べても見劣りしない業(わざ)が求められでしょうから、吉保は細部にわたって気配りをしており、資金的にも、それだけの経費を賄う財力があったのでしょう。
西の御殿に座した綱吉は『大学』を講義し、能舞台では「難波」「橋弁慶」を舞い、その後には、「羽衣」「是界(ぜかい)」「乱れ」などを舞っています(松蔭日記)。時の将軍綱吉は、吉保の心遣い敬意を表した証でしょう。
海音寺潮五郎の著書に「柳沢騒動」があります。その金液の章に、興味深い吉保が描かれておりますので、少し長くなりますが引用します。
「日の暮れるころ、出羽守(吉保)は下城したが、屋敷に帰ると、直ぐ居間に入って、着替えもしないで、本箱から一冊の帳簿を取り出した。
『水戸家』
と表紙に書いた厚い帳面である。
この帳面には、当主光圀(みつくに)の行動、世子・綱条(つなえだ)のこと、その子吉孚(よしたか)のことは勿論、奥向きのことから、重臣、寵臣の身分、性行、閲歴に至るまで詳細を極めて書き記してあるのである。(中略)水戸家の調査書であるが、他の家、紀州、尾州、甲府家、譜代勲旧の酒井、井伊、(中略)等の家についても同様な書類を備えつつあるのである。側用人になってからの彼の私邸に於いての全時間は、この調査書の完成に向かって注がれていると言っても誇張ではなかった。人の噂を聞いて書き込むのはもとよりのこと、腹心の家来をわざわざ派遣して調べさせることもあるのである」
しかし、何故か、綱吉から桁外れの贔屓を得て出世した吉保象が定着しています。
「当の元気印も、つい前まではそうでしたね」
ボケ封じ観音さまだ。
「つまり、吉保は情報の持つ重要性を認識しており、情報収集とそれの分析という地道な努力を積み重ねて綱吉に仕えたからこそ、側用心となり大老にまで昇進したと、元気印は強調したいのですね」
「誤解を恐れずに、今世に敢えて例えるなら、田中角栄と早坂茂三、小泉純一郎と飯島勲の関係に近いのが、綱吉と吉保のそれでしょう。総理大臣と秘書の結びつき、将軍と側用人から大老にまで引き上げられた吉保の結びつきは同根でしょう。政治家の秘書と将軍の家臣に共通しているのは、主君の辞職と共に役職を退いたことです。少し、飛躍した仮説かな・・・」
「それも、将軍と家臣との信頼度を計るよりどころですね。仮名手本忠臣蔵は創作です。作者は時の権力者の目をそらす工夫をして、事件の事実関係を創作・脚色した浄瑠璃に仕立て上げて、観客の観賞に耐える物語の筋立てにしています。だから、物語に描かれた史実を知っている観衆は、作者の創作意図により深く共鳴することができたのです。それが解る江戸っ子達は、忠臣蔵に魅せられ、拍手喝采を送り溜飲を下げていたのでしょう」
観音さまは、何時もとは違う。天邪鬼の面影が消えている。
高師直を討ち取った大石由良之助に共感を覚えたのだろうか?
今日の観音さまは調子っぱずれなので、このあたりが潮時です。
高師直(こうの・もろなお)の屋敷では芸者をあげての雪見の宴会で盛り上がっていました。

「たのもう、お頼みもうす!!」と大石由良之助を筆頭に、四十七人の武士たちが乗り込み、師直の命を絶ち、志士たちは塩治判官の恨みを晴らします。師直と由良之助がもみ合っているのが絵本の場面です。
塩冶判官(えんや・はんがん)は浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)、大石由良之助(おおいし・ゆらのすけ)は大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)、高師直(こうの・もろなお)は吉良上野介(きら・こうずけのすけ)であることは、皆さんご存知でしょう。

元禄赤穂事件(元禄15年12月14日)を下敷きにした仮名手本忠臣蔵のさわりどころです。
この事件は、時の将軍・綱吉(徳川五代目)の人物評価を落とし、その治世評価にも繋がっています。そのために、徳川300年の中興の祖は吉宗とする要因にもなっているようです。

徳川十五代において、享保(きょうほう)、寛政(かんせい)、天保(てんぽう)の改革がありましたが、綱吉の治世は「天和(てんな)・貞亨(じょうきょう)の治」として、明治時代には評価されており、江戸文化の花が咲いた元禄期は、まさに、綱吉が統治していたのです。

さて、綱吉の側用人(そばようにん)を務めていた柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)が、忠臣蔵物語では、浅野家の敵役として登場しています。
それは、綱吉が吉保邸に出向く、それもたび度赴(おもむ)いているからでしよう。
将軍が側用人の家に出向くなんてことは、提灯に釣り鐘です。幕府の要職を担う重役を選ぶ物差しが家柄の時代に生きていた吉保にとっては、青天の霹靂だったでしょう。

反面、官僚制の改革を推し進めている綱吉にとっては、信頼のおける家臣・吉保の邸へ行ってくるよ、そんな軽い気持ちだったのではないかと、独断と偏見に満ちた推測をしています。
初代側用人は牧野成貞(まきの・なりさだ)です。彼の外に10数人の側用人が綱吉に任命されていますが、将軍が臣下の邸宅へ出向いたのは、成貞邸の延べ32回、吉保邸へは延べ58回ですから、尚更です。

吉保邸へ綱吉が最初に出向いたのは、元禄4(1691)年3月22日です。
その年の春頃、綱吉が神田橋内の吉保邸を訪れたい意向を漏らしたので、吉保は2月上旬ころから、自邸の横に北の御殿、中の屋、西および東の御殿、納め所(納屋)、台盤所(調理場)などを二千五百坪ほどの敷地に立て続けて準備を始めています。こじんまりとした庭、能舞台や楽屋なども備えた豪壮なご座所にして、綱吉を迎えます。
このときの吉保の振る舞いは、当時、家臣が将軍を迎える際の慣例に従っただけで、それは、綱吉も充分承知しています。綱吉は自分の目にかなう家臣を絞り込んでから、その臣下の邸へ出向く決断を下したのはた正解だったと安堵し、彼への信頼をより強めたことでしょう。

その前の年、吉保は禄(ろく)の加増を賜り、三万二千三十石の大名になります。
この時、吉保は上総両袋村(千葉県東金市一之袋、二之袋)の年貢を1年分免除します。12月25日には、従四位下に昇進します。自宅の横にある土井甲斐守利治の屋敷地三千四百八十坪を2月3日に綱吉から拝領したと、松蔭日記にあります。そこの一部にも、北の御殿をはじめとする建物等を建設したものと思われます。
それでも、完成した建物の中は空っぽです。

御殿などの内装や大工工事、装飾品や調度品類などは、賓客が満足するようにしなければなりません。庭の植木などにはそれなりの心遣いを込め、当時流行の大名庭園と比べても見劣りしない業(わざ)が求められでしょうから、吉保は細部にわたって気配りをしており、資金的にも、それだけの経費を賄う財力があったのでしょう。

西の御殿に座した綱吉は『大学』を講義し、能舞台では「難波」「橋弁慶」を舞い、その後には、「羽衣」「是界(ぜかい)」「乱れ」などを舞っています(松蔭日記)。時の将軍綱吉は、吉保の心遣い敬意を表した証でしょう。

海音寺潮五郎の著書に「柳沢騒動」があります。その金液の章に、興味深い吉保が描かれておりますので、少し長くなりますが引用します。
「日の暮れるころ、出羽守(吉保)は下城したが、屋敷に帰ると、直ぐ居間に入って、着替えもしないで、本箱から一冊の帳簿を取り出した。
『水戸家』
と表紙に書いた厚い帳面である。
この帳面には、当主光圀(みつくに)の行動、世子・綱条(つなえだ)のこと、その子吉孚(よしたか)のことは勿論、奥向きのことから、重臣、寵臣の身分、性行、閲歴に至るまで詳細を極めて書き記してあるのである。(中略)水戸家の調査書であるが、他の家、紀州、尾州、甲府家、譜代勲旧の酒井、井伊、(中略)等の家についても同様な書類を備えつつあるのである。側用人になってからの彼の私邸に於いての全時間は、この調査書の完成に向かって注がれていると言っても誇張ではなかった。人の噂を聞いて書き込むのはもとよりのこと、腹心の家来をわざわざ派遣して調べさせることもあるのである」

しかし、何故か、綱吉から桁外れの贔屓を得て出世した吉保象が定着しています。
「当の元気印も、つい前まではそうでしたね」
ボケ封じ観音さまだ。
「つまり、吉保は情報の持つ重要性を認識しており、情報収集とそれの分析という地道な努力を積み重ねて綱吉に仕えたからこそ、側用心となり大老にまで昇進したと、元気印は強調したいのですね」

「誤解を恐れずに、今世に敢えて例えるなら、田中角栄と早坂茂三、小泉純一郎と飯島勲の関係に近いのが、綱吉と吉保のそれでしょう。総理大臣と秘書の結びつき、将軍と側用人から大老にまで引き上げられた吉保の結びつきは同根でしょう。政治家の秘書と将軍の家臣に共通しているのは、主君の辞職と共に役職を退いたことです。少し、飛躍した仮説かな・・・」

「それも、将軍と家臣との信頼度を計るよりどころですね。仮名手本忠臣蔵は創作です。作者は時の権力者の目をそらす工夫をして、事件の事実関係を創作・脚色した浄瑠璃に仕立て上げて、観客の観賞に耐える物語の筋立てにしています。だから、物語に描かれた史実を知っている観衆は、作者の創作意図により深く共鳴することができたのです。それが解る江戸っ子達は、忠臣蔵に魅せられ、拍手喝采を送り溜飲を下げていたのでしょう」

観音さまは、何時もとは違う。天邪鬼の面影が消えている。
高師直を討ち取った大石由良之助に共感を覚えたのだろうか?
今日の観音さまは調子っぱずれなので、このあたりが潮時です。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます