森村泰昌展も終わりましたが、ラストの紹介です。
もう一度、観てみたい素晴らしい展覧会でした。
第8章 画家が見つめようとしたもの:ベラスケス
17 世紀スペイン絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケスの名画「ラス・メニーナス」(侍女たち)。
ベラスケス自身が登場するこの作品をテーマに、プラド美術館(マドリッド、スペイン)でも
撮影された作品。
絵画の中と外で画家、モチーフ、鑑賞者が往還し、複雑な構図が構成されている。
まず、プラド美術館のベラスケスの部屋の実景。 ※写真前面のガラスに映りこみがあり、見づらくてすみません。
私は展覧会では、この写真を見ても、揺らぎが何かわかりませんでした。
こちらが原画です。 中央のマルガリータ王女の左上の鏡に、両親のフェリペ国王と妃の鏡像が見えますが
森村作品では、国王夫妻に替わって、森村が写っています。 鏡は鑑賞者を映す設定なのです。
ベラスケス(森村の扮装)が絵の中から抜け、手前にきて絵を描いている・・・絵の中の奥の階段を森村が降りてきている
今度は、手前のキャンバスに<マルガリータ王女>…ベラスケスの絶筆となった作品
王女は当然、森村の扮装、わざと冴えない顔貌にしています。 そして登場人物の背中
この侍女達も森村の扮装、さすがに右端の小人は無理かなと思いますが、森村のことだから、これも
扮装かも。 そして、この配置で、奥に鏡があれば、ラス・メニーナスの人物配置どおりに写ることになる、…なるほど。
拡大したもの。
今度は、すべての人物に森村が扮装。 奥の鏡、その中の絵、本当に複雑だ
最後にフェリペ国王夫妻が鑑賞者の位置で、もちろん森村の扮装。
第9 章 「私」の消滅
エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク、ロシア)の第二次世界大戦下での
美術品疎開を題材とした「Hermitage1941-2014」シリーズは、「私」が次第に
不在化していく試みである。前章に続き美術館に焦点をあてることで、作品と展示
される場所との関係性を問い直してもいる。
第10章 さよなら「私」と、「わたし」はつぶやく
レンブラントの《された牛》をモチーフにした《白い闇》(1994)、
マリリン・モンローに扮した《セルフポートレート/駒場のマリリン》
(1995/2008) 、森村の幼少期を重ね合わせたかのような新作《少年カ
フカ》(2016)等を展示。美術史の中に存在する「私」を超越し、森村
泰昌としての「わたし」へと回帰を果たす姿を見せる。
タイトルもいいですね。
この設定、面白い。 森村のなりきりよう!
これは迫力が凄かった。 顔の白い油脂も、気味悪さをかきたてるのですが体当たりの迫力が伝わってきます。
この雰囲気、いかにもカフカ。
森村が小さい頃、大事にしていた熊の人形でしょうね。
[第2 部] 「私」と「わたし」が出合うとき-自画像のシンポシオン」
自画像によって描きだされる「私」とは何なのかを論じる新作の映像作品。
新進気鋭の映像作家・藤井光を起用し、全編60 分を超える、森村の試みとし
ては初めての長編映像。自画像を描く芸術家たち、レオナルド・ダ・ヴィンチ
ファン・エイク、デューラー、カラヴァッジョ、ベラスケス、レンブラント、
フェルメール、ルブラン、ゴッホ、フリーダ・カーロ、デュシャン、ウォーホル
に森村が扮し、そして森村自身を加え計13 人が登場。自画像における「最後の晩餐」
を展開する。
どうして撮ったのか、そのメークも知りたい映像、写真です。
制作スタッフです。 まるで映画のスタッフ紹介のように大人数です。
確かに、これだけの人の、スキルとセンスがないと出来上がらない作品たちでした。
第二部映像作品の入口。 私は、時間の関係で7割程度しか見れませんでした。
入口左に掛けられていた作品。 ダリと奥さん
その3D写真、カラーグラスをかけると、立体的に見えるのかな。
最後に、国立国際美術館の地下フロアでの1枚。
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