2013年6月8日。
彼は最後まで抵抗を続けた。
彼以外の牛たちは牧場に放たれ、彼だけが柵の中に残された。その中に、一箇所だけ出口がある。それは運搬用の滑車付きの小さな荷車への入口だ。
その荷車に乗るということは、間もなくその命が奪われるということを意味する。
彼は、そのことを知っていたのだろうか。彼は抵抗を続け、最後まで荷車には乗らなかった。飼育員が何度も棒で顔を叩き、出口へ誘導しようとする。しかし、彼はなかなかそこへは向かわない。
数十分格闘したであろうか。彼は徐に、荷車へと足を運んだ。その時の彼の気持ちを知る術などないが、彼は何を思い、そこへ向かったのだろうか。
荷車に乗った彼は体重を計られ、別の場所に向かった。そこは、彼の最後の場である。荷車の中でも、彼は暴れていた。それは生への執着なのか、単なる恐怖心なのか。
そしてその場に着いた。荷車から、さらに別の柵の中へ移される。しかし、彼は抵抗を続ける。身をよじり、柵の下に顔を突っ込み、何とかして逃れようとする。しかし、それは叶わない。彼が柵の外へ出ることは、不可能である。
セバスチャンが柵に近づく。
ナイフを取り出す。
狙いを定めながら、暴れる彼の隙を伺う。
そして、首の後ろを一突き。
脊髄をやられた彼は、その場に倒れ込む。
間髪入れずにセバスチャンは、首の動脈にナイフを刺す。
血が吹き出す。
まるでホースから水が出ているかのように、赤い液体が吹き出し続ける。
彼の目は、徐々に生気を失っていく。
その目は悲しみに満ちているように見えた。彼は最後に、何を見ていたのだろう。何を思っていたのだろう。
僕は腹の上に乗り、体の中に残っている血をさらに絞り出す。
血を抜かれた彼は足に杭を刺され、逆さまに吊るされる。
そして先ず最初に、彼はその皮を剥がれた。僕も一緒にやらせてもらったのだが、その皮と肉は温かく、小刻みに痙攣をしていた。僕はその皮を掴み、ナイフで少しずつ皮を剥いでいった。
まさに職人の技だった。彼は、瞬く間に解体されていった。
首を切られ足を切られ、裂かれた腹からは次々と内蔵が取り出されていく。
まるで麻袋のような胃袋。それを裂くと、大量の消化中の草が出てきた。そしてそれは温かく、湯気が立っていた。
あっという間に彼は「命」から「肉塊」になった。「肉塊」になった彼には、いつもの「牛肉」そのものだった。
僕たちは、その肉の一部をもらい受けた。そして、お昼ご飯に、夕飯に、彼のその「命」をいただいた。
僕は今でも、この手に皮を剥いだときの感覚が残っている。温かく、痙攣するその体。僕はそれを次々と剥ぎ取り、彼をバラバラにしていった。
誰もが何万回と言ってきたであろう言葉「いただきます」。昔、誰かに言われたことがある。「いただきますというのはね、命をいただいているということなのよ」と。
言葉は簡単である。言葉では、すぐに理解できる。しかし、感覚として落とし込まなければ、その言葉には意味はない。
僕は今日、本当の意味での「いただきます」の意味を感じた。確かに今日、僕は命をいただいた。そして明日も明後日も、命をいただいて僕は生きていく。命をいただかなければ、僕は生きてはいけない。
だから僕は、これからも「いただきます」を続けていく。
「命」へ。僕はその「命」のおかげで、今日まで生きてこれました。僕は罪人なのかもしれません。しかし俗人の僕は、「命」をいただき続けます。今までの、そしてこれからの「命」へ。本当に、心からの感謝を申し上げます。
2013年6月8日。雨の降るパラグアイの田舎町で。
彼は最後まで抵抗を続けた。
彼以外の牛たちは牧場に放たれ、彼だけが柵の中に残された。その中に、一箇所だけ出口がある。それは運搬用の滑車付きの小さな荷車への入口だ。
その荷車に乗るということは、間もなくその命が奪われるということを意味する。
彼は、そのことを知っていたのだろうか。彼は抵抗を続け、最後まで荷車には乗らなかった。飼育員が何度も棒で顔を叩き、出口へ誘導しようとする。しかし、彼はなかなかそこへは向かわない。
数十分格闘したであろうか。彼は徐に、荷車へと足を運んだ。その時の彼の気持ちを知る術などないが、彼は何を思い、そこへ向かったのだろうか。
荷車に乗った彼は体重を計られ、別の場所に向かった。そこは、彼の最後の場である。荷車の中でも、彼は暴れていた。それは生への執着なのか、単なる恐怖心なのか。
そしてその場に着いた。荷車から、さらに別の柵の中へ移される。しかし、彼は抵抗を続ける。身をよじり、柵の下に顔を突っ込み、何とかして逃れようとする。しかし、それは叶わない。彼が柵の外へ出ることは、不可能である。
セバスチャンが柵に近づく。
ナイフを取り出す。
狙いを定めながら、暴れる彼の隙を伺う。
そして、首の後ろを一突き。
脊髄をやられた彼は、その場に倒れ込む。
間髪入れずにセバスチャンは、首の動脈にナイフを刺す。
血が吹き出す。
まるでホースから水が出ているかのように、赤い液体が吹き出し続ける。
彼の目は、徐々に生気を失っていく。
その目は悲しみに満ちているように見えた。彼は最後に、何を見ていたのだろう。何を思っていたのだろう。
僕は腹の上に乗り、体の中に残っている血をさらに絞り出す。
血を抜かれた彼は足に杭を刺され、逆さまに吊るされる。
そして先ず最初に、彼はその皮を剥がれた。僕も一緒にやらせてもらったのだが、その皮と肉は温かく、小刻みに痙攣をしていた。僕はその皮を掴み、ナイフで少しずつ皮を剥いでいった。
まさに職人の技だった。彼は、瞬く間に解体されていった。
首を切られ足を切られ、裂かれた腹からは次々と内蔵が取り出されていく。
まるで麻袋のような胃袋。それを裂くと、大量の消化中の草が出てきた。そしてそれは温かく、湯気が立っていた。
あっという間に彼は「命」から「肉塊」になった。「肉塊」になった彼には、いつもの「牛肉」そのものだった。
僕たちは、その肉の一部をもらい受けた。そして、お昼ご飯に、夕飯に、彼のその「命」をいただいた。
僕は今でも、この手に皮を剥いだときの感覚が残っている。温かく、痙攣するその体。僕はそれを次々と剥ぎ取り、彼をバラバラにしていった。
誰もが何万回と言ってきたであろう言葉「いただきます」。昔、誰かに言われたことがある。「いただきますというのはね、命をいただいているということなのよ」と。
言葉は簡単である。言葉では、すぐに理解できる。しかし、感覚として落とし込まなければ、その言葉には意味はない。
僕は今日、本当の意味での「いただきます」の意味を感じた。確かに今日、僕は命をいただいた。そして明日も明後日も、命をいただいて僕は生きていく。命をいただかなければ、僕は生きてはいけない。
だから僕は、これからも「いただきます」を続けていく。
「命」へ。僕はその「命」のおかげで、今日まで生きてこれました。僕は罪人なのかもしれません。しかし俗人の僕は、「命」をいただき続けます。今までの、そしてこれからの「命」へ。本当に、心からの感謝を申し上げます。
2013年6月8日。雨の降るパラグアイの田舎町で。