2014年1月13日。
《タンザニア西部の街、キゴマ。ここには美しい湖、タンガニーカ湖がある。その畔で僕は1人考えていた・・・。》
「あ~綺麗だなぁ。マジでここいいなぁ。」
ここはタンザニア西部の湖、タンガニーカ湖。僕は今、このタンガニーカ湖に接する街、キゴマにいる。
とっても小さな街で、数時間もあるけば街のほとんどは見終わってしまう。何もない街だ。
そう、何もない街。
でも「何もない」って、一体どういうことなんだろう。
メインストリートを一歩外れれば、この通り、な~んもない。
湖畔のビーチに行けばこの通り。メッチャ綺麗だけど、な~んもない。
でも、とっても居心地がいい。人々は優しいししつこくもなく、気さくに話し掛けてくれる。
僕は「発展途上国」という言葉が大嫌いだ。発展途上というのはあくまで資本主義経済や市場経済の中での話であって、決してその地域や国の文化や伝統、人間性などが遅れているわけではない。
でも、この「発展途上国」という言葉は、何だか全てにおいて「遅れている」というイメージを与えかねない。明らかに上から目線の言葉だし、その逆の「先進国」という言葉も僕は大嫌いだ。だから僕は発展途上国とか先進国という言葉を使う時は、必ず「いわゆる」と付け加えてから言うようにしている。
これらの言葉は教科書でも出てくるし、もちろん僕も授業では必ず教えてきた。でも、何だか嫌だった。「日本は先進国で・・・」とか、「○○は発展途上国で・・・」とか、なんか偉そうでとっても嫌だった。だから必ず「これらの呼び方はあくまで現代の経済システム上の呼び方である」ことを付け加えて説明してきた。
さてさて、それはいいとして・・・。
人々はよく言う、田舎に行くと落ち着くと。
「ホント、な~んもなくていいのよね~。」なんて、夏休みに帰省したどっかの誰かがきっと言うセリフだろう。
でも、僕は思う。
「本当に何もないの?何もないのに居心地がいいって、どうしてなの?」
「何か」があるのだ。何もないわけがないのだ。何もない中に「何か」があるから、人はそこに居心地の良さを感じるのだ。
何もない。しかし「何か」ある。
その実態のない「何か」こそが、今の僕たちが失っているものなんじゃないだろうか。
スーダンで活躍する国際NGOロシナンテスの理事長・川原尚行さんを取材させていただいたとき、このような話をしていた。
「日本という国は何でもある国だ。しかし何かがない。スーダンという国は何にもない国だ。しかし何かがある。」
僕はこの言葉がものすごく心に響いた。この「何か」こそが、今の日本に欠落しているものなのだろう。
今僕が書いていることって、すごく簡単なことだ。この「何か」の存在とその欠落を、きっと多くの日本人が感じていることだろう。
そしてきっと、多くの日本人がその「何か」の正体を、分かっているのではないだろうか。
僕たちが一般的に「何か」が「ある」と規定するときは、物質を指す。だから、確かに日本は「何でもある」国だと言える。
しかし「何か」がない。
だから今、日本は病んでいる。
いわゆる発展途上国を旅すると、それとは全く逆の感情に襲われる。
「何にもねぇなぁ、でも何故かいいんだよな~すごく!」
何もない。しかし「何か」がある。
いわゆる先進国とは全く逆の現象が存在する。
一体僕たちの目指すべき方向はどこなのか。
そのことを示唆しているのではないだろうか。
物質的な豊かさを目指すことそれ自体は決して悪じゃない。
でも、物質的な豊かさをそれなりに達成した国々が、今病んでいる。それは日本だけじゃない。
だから僕は言いたい。「何が先進国じゃ!何が発展途上国じゃ!」と。
だから僕は言っている。「日本の若者よ、旅をしなさい。いわゆる発展途上国に行きなさい!」と。
何もないのは辛い。何もなくては人間は生きてはいけない。だから人は「何もない」状況を打破しようとしてきた。
一部の国は、それをある程度達成した。しかしその結果、今度は「何か」を失った。
そして今、行き詰まっている。
何だかまるで、お金持ちの家の子どもはダメなやつになってしまうような、そんなストーリーを見ているようにも僕には映る。
エチオピアでのこと。
僕はある男性と話をしていた。彼はしきりに「日本の経済はすごい。」「日本はとてもリッチだ。エチオピアとは違う。何の問題もないだろう。」などと話していた。
だから僕は返した。
「確かに経済的にはエチオピアよりいいのかもしれないけど、問題がないなんてのは大間違いだ。たとえば、日本では今年間3万人以上の自殺者がいることを知っているかい?」
「自殺?3万人・・・?日本だけで?」
彼は理解できなかったようだ。当然だろう。僕たちがエチオピアの出生率の高さと乳幼児の死亡率の高さを理解できないのと同じだ。まさに世界はダブルスタンダードなのだ。
行き詰まっているのはいわゆる先進国だかじゃない。発展途上国だって同じだ。物質的に乏しすぎる社会ではそのことが単純に死を招くし、争いの火種にもなる。
つまり僕たちはみんな、共に行き詰まっているのだ。
何でもあるけど「何か」がない、いわゆる先進国。
何もないけど「何か」がある、いわゆる発展途上国。
皮肉なことに、いわゆる発展途上国の人々はいわゆる先進国を羨み、その逆にいわゆる先進国の人々はいわゆる発展途上国の人々から可能性を見出そうとしている。
なんと皮肉なことなのだ・・・。
このままじゃダメなのだ。僕たちは、未来に繋がる新しい世界の形を作っていかなければならない。
誰がやるの?俺らでしょ?
いつやるの?今でしょ?
どんなことできるの?できるでしょ!やるしかないでしょ!
だからこそ、日本の若者へ。
ぜひとも、いわゆる発展途上国に旅をしてほしい。そして「今在る自分の常識」の枠を超えた体験をしてきてほしい。それが必ず糧になる。大きなヒントになる。頭が柔らかく感性も豊かで体力があるうちに、一歩外に出てきてほしい。
すぐに解決策なんて分からなくていい。分かるわけがないのだから。まずは感じてほしい。それだけでいい。それが大きな一歩になると、僕は思っている。
美しいタンガニーカ湖の畔に1人腰を下ろす。そして僕は考えに耽っていたのでした・・・。
2014年1月13日。街を歩いていると「これでもか!」というくらい僕を見つめてくるキゴマにて。
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《タンザニア西部の街、キゴマ。ここには美しい湖、タンガニーカ湖がある。その畔で僕は1人考えていた・・・。》
「あ~綺麗だなぁ。マジでここいいなぁ。」
ここはタンザニア西部の湖、タンガニーカ湖。僕は今、このタンガニーカ湖に接する街、キゴマにいる。
とっても小さな街で、数時間もあるけば街のほとんどは見終わってしまう。何もない街だ。
そう、何もない街。
でも「何もない」って、一体どういうことなんだろう。
メインストリートを一歩外れれば、この通り、な~んもない。
湖畔のビーチに行けばこの通り。メッチャ綺麗だけど、な~んもない。
でも、とっても居心地がいい。人々は優しいししつこくもなく、気さくに話し掛けてくれる。
僕は「発展途上国」という言葉が大嫌いだ。発展途上というのはあくまで資本主義経済や市場経済の中での話であって、決してその地域や国の文化や伝統、人間性などが遅れているわけではない。
でも、この「発展途上国」という言葉は、何だか全てにおいて「遅れている」というイメージを与えかねない。明らかに上から目線の言葉だし、その逆の「先進国」という言葉も僕は大嫌いだ。だから僕は発展途上国とか先進国という言葉を使う時は、必ず「いわゆる」と付け加えてから言うようにしている。
これらの言葉は教科書でも出てくるし、もちろん僕も授業では必ず教えてきた。でも、何だか嫌だった。「日本は先進国で・・・」とか、「○○は発展途上国で・・・」とか、なんか偉そうでとっても嫌だった。だから必ず「これらの呼び方はあくまで現代の経済システム上の呼び方である」ことを付け加えて説明してきた。
さてさて、それはいいとして・・・。
人々はよく言う、田舎に行くと落ち着くと。
「ホント、な~んもなくていいのよね~。」なんて、夏休みに帰省したどっかの誰かがきっと言うセリフだろう。
でも、僕は思う。
「本当に何もないの?何もないのに居心地がいいって、どうしてなの?」
「何か」があるのだ。何もないわけがないのだ。何もない中に「何か」があるから、人はそこに居心地の良さを感じるのだ。
何もない。しかし「何か」ある。
その実態のない「何か」こそが、今の僕たちが失っているものなんじゃないだろうか。
スーダンで活躍する国際NGOロシナンテスの理事長・川原尚行さんを取材させていただいたとき、このような話をしていた。
「日本という国は何でもある国だ。しかし何かがない。スーダンという国は何にもない国だ。しかし何かがある。」
僕はこの言葉がものすごく心に響いた。この「何か」こそが、今の日本に欠落しているものなのだろう。
今僕が書いていることって、すごく簡単なことだ。この「何か」の存在とその欠落を、きっと多くの日本人が感じていることだろう。
そしてきっと、多くの日本人がその「何か」の正体を、分かっているのではないだろうか。
僕たちが一般的に「何か」が「ある」と規定するときは、物質を指す。だから、確かに日本は「何でもある」国だと言える。
しかし「何か」がない。
だから今、日本は病んでいる。
いわゆる発展途上国を旅すると、それとは全く逆の感情に襲われる。
「何にもねぇなぁ、でも何故かいいんだよな~すごく!」
何もない。しかし「何か」がある。
いわゆる先進国とは全く逆の現象が存在する。
一体僕たちの目指すべき方向はどこなのか。
そのことを示唆しているのではないだろうか。
物質的な豊かさを目指すことそれ自体は決して悪じゃない。
でも、物質的な豊かさをそれなりに達成した国々が、今病んでいる。それは日本だけじゃない。
だから僕は言いたい。「何が先進国じゃ!何が発展途上国じゃ!」と。
だから僕は言っている。「日本の若者よ、旅をしなさい。いわゆる発展途上国に行きなさい!」と。
何もないのは辛い。何もなくては人間は生きてはいけない。だから人は「何もない」状況を打破しようとしてきた。
一部の国は、それをある程度達成した。しかしその結果、今度は「何か」を失った。
そして今、行き詰まっている。
何だかまるで、お金持ちの家の子どもはダメなやつになってしまうような、そんなストーリーを見ているようにも僕には映る。
エチオピアでのこと。
僕はある男性と話をしていた。彼はしきりに「日本の経済はすごい。」「日本はとてもリッチだ。エチオピアとは違う。何の問題もないだろう。」などと話していた。
だから僕は返した。
「確かに経済的にはエチオピアよりいいのかもしれないけど、問題がないなんてのは大間違いだ。たとえば、日本では今年間3万人以上の自殺者がいることを知っているかい?」
「自殺?3万人・・・?日本だけで?」
彼は理解できなかったようだ。当然だろう。僕たちがエチオピアの出生率の高さと乳幼児の死亡率の高さを理解できないのと同じだ。まさに世界はダブルスタンダードなのだ。
行き詰まっているのはいわゆる先進国だかじゃない。発展途上国だって同じだ。物質的に乏しすぎる社会ではそのことが単純に死を招くし、争いの火種にもなる。
つまり僕たちはみんな、共に行き詰まっているのだ。
何でもあるけど「何か」がない、いわゆる先進国。
何もないけど「何か」がある、いわゆる発展途上国。
皮肉なことに、いわゆる発展途上国の人々はいわゆる先進国を羨み、その逆にいわゆる先進国の人々はいわゆる発展途上国の人々から可能性を見出そうとしている。
なんと皮肉なことなのだ・・・。
このままじゃダメなのだ。僕たちは、未来に繋がる新しい世界の形を作っていかなければならない。
誰がやるの?俺らでしょ?
いつやるの?今でしょ?
どんなことできるの?できるでしょ!やるしかないでしょ!
だからこそ、日本の若者へ。
ぜひとも、いわゆる発展途上国に旅をしてほしい。そして「今在る自分の常識」の枠を超えた体験をしてきてほしい。それが必ず糧になる。大きなヒントになる。頭が柔らかく感性も豊かで体力があるうちに、一歩外に出てきてほしい。
すぐに解決策なんて分からなくていい。分かるわけがないのだから。まずは感じてほしい。それだけでいい。それが大きな一歩になると、僕は思っている。
美しいタンガニーカ湖の畔に1人腰を下ろす。そして僕は考えに耽っていたのでした・・・。
2014年1月13日。街を歩いていると「これでもか!」というくらい僕を見つめてくるキゴマにて。
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