父案じ娘帰郷の弾む声・聴き上手懐深く抱え込み・わが人生反戦の歌生き導・八十路花咲かせて生きている証

2021-06-17 | 日記

2021年6月17日(木)5702歩とプールで1時間

 

すこしはやいけれど、プールのリラックスルーム

に暑中見舞い状を展示しました。

 

語り継ぐ戦争・鹿児島は空襲で焼け野原になりました

生協コープかごしまでは、6月17日の鹿児島市大空襲をはじめ、
県内での空襲の記憶を語り継ぎ、記録する取り組みをすすめ
ています。1945年の鹿児島大空襲を体験された方の手記を
まとめた「忘れまい あれから50年~終戦50周年・
戦争体験文集」を発行しました。
忘れまい あれから50年~「終戦50周年記念」戦争体験文集から
(ネットで、1996年に出された記念文集の体験記が紹介されて
います。そ二人だけ紹介します)
 
は日豊線で帖佐駅から鹿児島駅まで汽車通学をしていました。この日は普段よりひときわ高くなり響く空襲警報のサイレンの音で、夕食もそこそこに庭の防空壕の中へ米機の襲来にそなえて身じろぎもせず遠ざかるのを待つていました。
この夜は一向に鳴りやまず、しびれを切らし外にでた。西の鹿児島方面の空が真っ赤です。B29の空爆で今までのようにちょっと偵察といったものでないことを強く感じました。
次の日、日当山駅より通学の友と二人で鹿児島駅に降り立った時の驚き市街地一面焼け野ヶ原で西鹿児島駅の方まで一望・・残っている建物は山形屋と今の三越(その頃丸屋)と銀行ぐらいでした。(女性・67歳)
 
開先から、久し振りに実家帰りして来た姉親子を迎え、母が心づくしの夕食(食糧難だから)を囲み楽しい一刻だった。あの厳格な父も、お気に入りの姉や可愛い盛りの孫を相手に御機嫌だった。
それが数時間たらずして、姉親子の無残な体を抱く家族になろうとは。戦争中とはいえ、夢にだに想像できない事だった。
(女性・66歳)
 
 
 
ここからは 2021年6月17日の記事です。
本日、6月17日(木)に「平和のつどい」を開催しました。 
生協コープかごしまでは、1945年6月17日に鹿児島市が受けた大空襲をはじめ、県内各地域での空襲や戦争体験を記録し語り継ぎ、戦争のことを体験された方の言葉で伝え、平和について考えようと、毎年6月17日に「平和のつどい」を開催しています。
 
今年は、オンラインでの開催とし、
鹿児島市の空襲体験談として、中 精一(なか せいいち)様
「SDGs平和と公正をすべての人に」をテーマに、ユニセフ協会より、立石 尚之(たていし なおゆき)様
よりご講演頂きました。

 
 
 私も数年前まで、この集会に参加していましたが、オンライン開催ということで
よく理解できないままでした。ブログにその1部だけを引用したため、大変失礼しました。
 
 
 
 
今日は夫の衣替えの(主に下着とテイシャツなど
今までは自分でやっていたのですが。
2階のタンスから、取り出してきて、すべて洗濯して
天日で干しました。
週2回のリハビリに行っている間に仕事が捗りました。
午後は疲れてプールにはいつもより遅く行きました。
 
 

今日の拙句

聴き上手懐深く包み込み

父案じ娘帰郷の声弾む

八十路花咲かせて生きている証

わが人生反戦の歌生き導

 

 

 

てんがら川柳は明日(18日)が締め切りです

送り先

FM銀河 m@fm786.jp<m@fm786.jp>;

てんがら川柳係

Fax 099 257 7862

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お題「歌」折句「マ・イ・ク」自由句1句

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