午前中に蝋梅を撮りにそして 午後は仕事もする気にならず
以前から気にしていた 自宅から歩いて30分以内の
意賀美(オガミ)神社に向かう
この意賀美神社は元は現在地から約100m南の旧伊加賀村字宮山にあったらしい。
開化天皇の時代に、饒速日命の五世の子孫で物部氏の遠祖である伊香色男の邸宅が
この地にあって、その敷地内に鎮座していたという。
高龗神は、水神であり、淀川の鎮守としたとも。
延喜式神名帳では小社になっている。旧伊加賀村の氏神として、
明治5年(1872年)に村社に列格した。
万年寺山に 地元の氏神の須加神社があって、
須加神社は元は牛頭天王社(祇園社)と言って、
貞観14年(872年)、流行していた悪疫の終息祈願のため造られた。
元の万年寺は、廃寺になって、須加神社のみな残った。
別に淀川の洪水で流れついた日吉大社の御神体を祀ったのに
始まるとも言われる日吉神社があって、最澄(伝教大師)が
平安京の裏鬼門に当たるこの地に阿弥陀仏と日吉大神を祀ったのに
始まるらしい。
この日吉神社は、応仁の乱で焼失したが、慶長5年に枚方城主・本多政康が再興し、
氏神として崇敬した。旧岡村の氏神として、明治5年に村社に列格した。
明治42年10月14日、須加神社と日吉神社は意賀美神社に合祀された。
境内が狭いため、翌10月15日、万年寺山の元の須加神社境内に遷座した。
同年12月、神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和9年、大風害により社殿・社務所が大破し、翌昭和10年に再建された。
この神社の梅園が見ものと言われていて忘れていた。
梅園の北側は蕾だらけ 西側が風を受けやすいのに開花している。
梅園の北側は蕾だらけ 西側が風を受けやすいのに開花している。
西側の白梅は満開に 2本の木が真っ白に
残念ながらここも1つの森になっているが あまりにも川に近い
ワシ、カラスなどか弱きメジロを狙う鳥が多いこの場には
メジロは立ち寄っていなかった。
以前から気にしていた 自宅から歩いて30分以内の
意賀美(オガミ)神社に向かう
この意賀美神社は元は現在地から約100m南の旧伊加賀村字宮山にあったらしい。
開化天皇の時代に、饒速日命の五世の子孫で物部氏の遠祖である伊香色男の邸宅が
この地にあって、その敷地内に鎮座していたという。
高龗神は、水神であり、淀川の鎮守としたとも。
延喜式神名帳では小社になっている。旧伊加賀村の氏神として、
明治5年(1872年)に村社に列格した。
万年寺山に 地元の氏神の須加神社があって、
須加神社は元は牛頭天王社(祇園社)と言って、
貞観14年(872年)、流行していた悪疫の終息祈願のため造られた。
元の万年寺は、廃寺になって、須加神社のみな残った。
別に淀川の洪水で流れついた日吉大社の御神体を祀ったのに
始まるとも言われる日吉神社があって、最澄(伝教大師)が
平安京の裏鬼門に当たるこの地に阿弥陀仏と日吉大神を祀ったのに
始まるらしい。
この日吉神社は、応仁の乱で焼失したが、慶長5年に枚方城主・本多政康が再興し、
氏神として崇敬した。旧岡村の氏神として、明治5年に村社に列格した。
明治42年10月14日、須加神社と日吉神社は意賀美神社に合祀された。
境内が狭いため、翌10月15日、万年寺山の元の須加神社境内に遷座した。
同年12月、神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和9年、大風害により社殿・社務所が大破し、翌昭和10年に再建された。
この神社の梅園が見ものと言われていて忘れていた。
梅園の北側は蕾だらけ 西側が風を受けやすいのに開花している。
梅園の北側は蕾だらけ 西側が風を受けやすいのに開花している。
西側の白梅は満開に 2本の木が真っ白に
残念ながらここも1つの森になっているが あまりにも川に近い
ワシ、カラスなどか弱きメジロを狙う鳥が多いこの場には
メジロは立ち寄っていなかった。