散歩のついでに・・・

犬も歩けば棒にあたる。デジカメを常に持ち歩き、気ままに撮った写真を中心に思い思いに綴っています。

かなさわ・かまくら道

2008-06-14 17:41:49 | 古道
保土ヶ谷区内の古道を歩こうと思い今日は金沢横町の道標で記された『かなさわ・かまくら道』を散策。
正確にいうと今回は保土ヶ谷区から南区(鎌倉街道)までです。
どこからスタートしようかと地図を見たり、Webサイトを調べたりと多少、事前準備に時間が掛かりましたが、山越え(二つ)のコースなので自転車ではなく徒歩で行く事を考え、相模鉄道線天王町駅をスタート地点とする事にしました。
なるべく、昔からの道を歩こうと思い天王町付近の古い地図でルートを確認。
横浜市のサイトにはGoogle Earthの衛星・航空写真に重ね合わせてみる事のできる古い(昭和20年代)地図データがあるのでダウンロードして現在と比較確認する事ができます。
右の赤線は昭和39(1964)年の帷子川河川改修工事以前の天王町駅付近の川の流れです。
駅前のかって帷子橋が架かっていた場所は小さな公園となっていて、帷子橋のモニュメントがあります。
また、古町橋は右の画像の場所に架かっており、川の流れは左側のマンションから右へ流れていました。
川の跡は一部、公園になったり巾が狭くなっていますが、道路になっています。
現在は陸地ですが、江戸時代以前は天王町の帷子橋近くまで入り江となっていたり、この古町橋より内陸まで海が広がっていたようで、時代によって渡れる場所が変化して鎌倉道もそれに合わせて変化(移動)しているそうです。
神明社御由緒(旧伊勢神宮領榛谷御厨総鎮守)
今から一千年以上昔、保土ヶ谷の地が榛谷(はんがや)とよばれていた平安時代の中頃、天禄元年(970)当社の御祭神・伊勢の天照大神が武州御厨の庄の内、榛谷の峯に影向し、それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年(1225)神託があって、神明の下宮を建て、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御厨八郷の総鎮守として広大な社嶺を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜社人 供僧 巫女が仕え、年に75度の祭祀を営み隆盛を極めたという。
その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年(1590)徳川氏入国の時、社殿の造営が行なわれ御朱印地が安堵された。また、元和五年(1619)宮居を神戸山山頂から現在の処に遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた。


明治二年の修営時には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の御用材を下賜された。明治六年村社に列せられ神饌幣帛料供進の神社に指定された。
平成十年十月、鎮座1030年祭、当地遷座770年祭、伊勢神宮鎮座2000年祭を記念して『平成の大造営』が行なわれ、三百八十年ぶりに御本社、摂末社神楽殿等総ての境内建物十二棟が一新された。
平成十二年四月、神奈川県神社庁献貨使参向神社に指定された。
御祭神は天照大神。
社殿建築様式は、本殿・拝殿とも神明造り。
野村ビジネスパークから月見台へ上る坂道。通称ビール坂。
昔、神戸町(今の野村ビジネスパーク)にはこの辺りの湧き水を利用したビール会社、後に日本最大の製瓶工場があり、それが由来になった坂道。
道のつながりからするとこの坂道はかなさわ・かまくら道ではないと思いますが、この坂道を登り切った先の道がかなさわ・かまくら道と表記されているので、かなり急な坂道ですが、登って行きました。
月見台から坂を下り切り、旧東海道保土ヶ谷宿の東側、金沢・浦賀往還への出入り口にあたり、通称『金沢横町』と呼ばれていた場所にある道標四基。道標はそれぞれ、
円海山之道 天明三年(1783)建立
かなさわ、かまくら道 天和二年(1682)建立
杉田道 文化十一年(1814)建立
富岡山芋大明神社 弘化二年(1814)建立
本日はこの道標にある『かなざわ、かまくら道』を歩く事が目的。
金沢横町の道標を見てJR東日本の踏切を渡り、国道1号線へ。
交差する所に歩行者信号があるので渡ると案内表示がありますので、案内に従って路地を進みます。
石名坂(いわな坂)という名前の坂道です。
道の左側は民家がポツポツとある程度で緑が残されていますが、道の右側はマンション等が建ち並び、残念ながら古道の面影が非常に薄くなってしまっています。
御所台地蔵尊
石名坂の『政子の井戸』の手前、左手にあります。
人が一人登れる石段の先に庚申塔や馬頭観音、石灯籠があります。
長い年月で文字はかすれて見にくいですが元禄、貞亨と六合掌三猿や阿弥陀立像、三猿文字庚申に刻まれています。

御所台の井戸(政子の井戸)
政子の井戸と呼ばれるようになったのはこの井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えと、この一帯が政子の所領する土地だったのではないかという説のふたつがあるそうです。
きれいに整備されていますが、これだけ周りに民家が建ってしまうと井戸水としてはどうなっているんでしょうか?
坂を登り切り、横浜清風高校を通り過ぎた先の信号の角にあるのが、『北向地蔵』
解説によると横浜市地域有形民俗文化財
僧三譽伝入(さんよでんにゅう)が享保二年(1717)に、天下泰平・国土安全を祈念するとともに旅人の道中安全を祈願して建立したものです。この場所は東海道の保土ヶ谷宿の通称金沢横町から分岐した金沢・浦賀往還への途中に所在するため、角柱には『是より左の方かなさわ道』『是より右の方くめう寺道』と刻まれ、金沢方面と弘明寺方面への道案内も兼ねています。と書かれています。
北向かい地蔵の名前がついた理由として始め、北(江戸)を指し示すように建立しその後、修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになったと言い伝えがあるそうです。
ここまでが明確化されている『かなさわ・かまくら道』。
今回はここから直進して蒔田、鎌倉街道へ向いましたが、諸説あるようでここから先はどの道が昔のかなさわ・かまくら道かは特定されていないようです。
また、首都高狩場線建設のため旧道が分断され、道がなくなっている状況も特定を難しくしているようです。
相鉄天王町駅から保土ヶ谷、蒔田経由京急井土ケ谷駅まで二時間近く二山越えて歩きましたが、歴史的を伝えるものは『金沢横町の道標』、『御所台地蔵尊と御所台の井戸』『北向地蔵』と少なく、また、宅地化が進み古道を歩いても往時を思わせる風景がなくなっているのは非常に残念です。
次回、保土ヶ谷区内の古道は和田町(和田橋)を起点とした古鎌倉街道を調べて歩く予定。
では。
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金沢街道(朝夷奈切通)

2008-06-01 22:26:11 | 古道
木曜日位から降ったり止んだりの天気が続いていましたが、本日は朝から快晴。
今回は鎌倉時代に六浦港から物資を運ぶのに重要交通路であった朝夷奈切通を目指してJR鎌倉駅を午前11時に出発。
六浦と鎌倉を結ぶ街道は金沢街道と呼ばれ、当時の六浦は塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港で各地の物資は、朝夷奈切通を越えて鎌倉に入って来たそうです。
途中の名所・旧跡を尋ねながらの散策ですから何時間掛かるか判りませんが、事前にルートは調べてありますので携帯電話のGPS機能を頼りに出発です。
ルート案内の指示通りに駅前のロータリーを抜けて大通りに出て、信号を渡り鎌倉警察署の脇の道をを右に入って行って突き当たりを左。
しばらく歩くと地図上に『日蓮上人辻説法跡』というのがありましたので早速、寄り道。(道路に面していたので寄り道でもないんですが)
解説によりますと
日蓮上人は慶長5年(1252)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ケ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行なったと伝えられているそうです。
観光都市鎌倉ならばでしょうか、案内板には日本語はもちろん、英語・中国語・韓国語で解説文が書かれていました。
この日蓮上人辻説法跡ですが、誰が覚えていていつこのような石碑が建てられたのか不思議です。
地図を表示
ルート案内に沿って歩くと道路左手に妙隆寺というお寺がありましたがそのまま通過。
しばらく歩くと東勝寺跡と高時腹切りやぐらの案内表示がありましたのでルートを外れちょっと寄り道。
ルートを外れてしばらく歩くと『ルートから外れてます』とアナウンスが。
ちゃんと位置情報を取得して動作しているようです。
民家の間の道を進み坂道を登って行くと木々に覆われた未舗装路になり、左手のフェンスで囲まれたところに国指定史跡 東勝寺跡の解説板があり、すぐ先には高時腹切りやぐらの立て看板が立っていました。
そのまま進むと祇園山ハイキングコースになってしまいますので、数枚撮影してもと来た道に戻りました。
国道204号金沢街道に出て20分位歩いて杉本寺に到着。
奈良時代に行基が開いたと伝えられる鎌倉最古の寺。
本尊の十一面観音像三体は、国または市指定の重要文化財で、うち一体は行基の作とされています。坂東三十三観音霊場の第一番札所。
苔むした石段が有名。(もちろん通行不可)

幟が立並ぶ石段を登って行くと藁葺き屋根の仁王門があり左右に仁王様が鎮座しています。
通りに戻って数分で鎌倉五山第五位に列する稲荷山浄妙寺参道が左に見えて来ます。
今回は浄妙寺には参拝せずに山門脇を通って奥の山の中腹にある鎌足稲荷神社へ寄ってみました。
境内の解説板によると大織冠藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された鎌足公は、翌年大化2年(646)東国に向われ、相模国由井の里に宿泊されました。その夜、『あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願を成し遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい』との神告があり、お告げのままに鎌を埋納したことによるとされています。
藤原鎌足が遠く鎌倉まで来ていたとは知りませんでした。
かなり寄り道をしていたのでここからはひたすら朝夷奈切通を目指して歩いて行きました。
浄妙寺を過ぎると反対方向から歩いて来る人通りも途絶え狭い歩道をすれ違う事もなくなりました。
鎌倉から切り通しに行く時には左側を歩く事をオススメします。
道の両側に歩道はあるのですが、右の歩道は所々でガードレールがなくなるので交通量の多い道ですから安全のためガードレールが続く左側が絶対オススメです。
寄り道しないと決めながら十二所神社へ寄り道!
創建は弘安元年(1278)。かつては熊野十二所権現社と呼ばれ、光触寺の境内に鎮守社として祀られていたという。天保9年(1838)に里人の手により現在の地に移築された。
祭神:天神(あまつかみ)7柱、地神(くにつかみ)5柱の12神で神社の名前の由来になったそうです。
信号のところで国道204号から右脇の道へ。案内表示が出ていますので初めての方でも迷う事はないと思います。
左側に川(太刀洗川)を見ながら木々に覆われた未舗装路を進み涼しさを感じながら歩いて行きます。
朝夷奈切通という標柱があり道を左に入って行くと解説の石柱と朝比奈三郎にちなむ三郎滝があります。
ここから先が朝夷奈切通で山道となっています。
この朝夷奈切通は国指定史跡で解説によれば国史跡 昭和44年6月5日指定。
鎌倉幕府は仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年4月から工事にかかりました。執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたといいます。、当時の六浦は塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。また、鎌倉防衛上必要な防御施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものがのこされています。
鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。鎌倉七口の中、最も高く険阻な路です。
昨日まで雨が降っていたので山道は所々、水が流れ出してまるで沢渡りをしているような足下の状態です。
途中、小さなお子さんを連れたご夫婦とすれ違いましたが、小さなお子さんを連れてこの山道は大変だと思いました。
また、昔の人はこの山道を荷物を担いで通ったのかと思うと頭の下がる思いです。
切通の出口付近(六浦側)の崖に彫られているこの磨崖仏が今回の朝夷奈切通散策の目的です。
山の岩肌を削って道を作り、崖の面に彫られた磨崖仏!
誰がいつ岩を削って作ったかは判りませんが(旅の安全祈願か信仰心からか)現代のように機械のない時代にノミと金槌で彫ったのでしょう、線はしっかりと刻まれています。
ここまで来たかいがありました。
この先は山道が続きますが、下って行けば横浜横須賀道路の高架下を通り国道23号(環状4号線)朝比奈バス停近くに出ますので、バスで鎌倉駅や大船駅、金沢八景駅行けます。

鼻欠地蔵
崖に彫り込まれた像の高さが4メートル余りのお地蔵様の磨崖仏で、風化して鼻が欠け落ちているためこのように呼ばれました。江戸時代に出版された『江戸名所図会』にはこの地蔵の挿絵はあり、やさしそうな顔立ちや膝元で汲んだ手などが描かれていますが、今は輪郭を見る事ができます。また、江戸時代の地歴が書かれている『新編鎌倉誌』には、この地蔵について、武蔵国と相模国の境界にあることから『界地蔵』といわれた事、この場所から来たへ向う道は釜利谷や能見堂へ通じた事が書かれています。
では。
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名越切通し-巡礼古道

2008-05-17 23:08:24 | 古道
連休中はちょっとチャリで走りましたが、その後天候にめぐまれず散歩できなかったんでひさしぶりにお散歩!
出発はJR横須賀線逗子駅。
今回のルートは逗子駅から久木の法性寺の墓地を抜けた『お猿畠大切岸』を見て『名越切通し』歩いて『巡礼古道』を抜けて鎌倉浄明寺からJR横須賀線鎌倉駅までの3時間くらいのコース。
途中の道は山の中の道なので事前に地図ソフトで確認しようとしましたが、記載されていない道が多く、実際に歩いて道を確認するしかない行き当たりばったりの散歩コース
JR横須賀線逗子駅から国道205号を鎌倉方面に向って20分程歩くと踏切の手前右手に入ると法性寺の山門が見えます。
文応元年(1260年8月)日蓮が鎌倉の松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちされた時に白猿に導かれ、ここ法性寺まで逃げてきたと言う伝説があり、「猿畠山」と書かれた山門の扁額には、日蓮を導いたとされる白猿があしらわれている。
山門をくぐり坂道を登って行くと奥の院があります。
山門からここまでは舗装された道路なんですが、急な坂ですので足の裏側の筋肉に張りを覚え、今回は予定通り最後まで歩いて行けないのではないかと思いました。
また、季節なんでしょうか、毛虫がいたるところを這いずり回っており、これから山道に入るのにちょっと気持ち的に引けてしまいました。
墓地の奥にあるこの崖がお猿畠大切岸です。
鎌倉防衛のための岸壁ともいわれているそうですが、石切り場との説もあるようです。
今は手前は畑として使われているようです。
この季節、草木が茂っており、見つけにくかったんですが、墓地から大切岸の上に登る細い道があるので草木を掻き分け上に進んでいきました。
細い道を登って行き住居脇に出て来ます。道は左右に別れますが切通しは左の方ですので狭く湿った泥の道を滑らないように気を付けながら歩いて行きます。
道の途中、左崖下には発掘調査中の曼荼羅堂跡が見えます。
当時の資料は残っておらず詳しいことは不明であり、学術調査の結果待ちらしいです。
ですので現在は立ち入り禁止となっていて、このように上から眺めるしかない状態です。
名越切通しから入る道がありましたが、立ち入り禁止となっていて門が閉ざされていました。
途中、開けた場所(動物慰霊塔などがあった)があり、そこを抜けて下ると名越切通しの途中に出ます。
取りあえず、せっかく来たので逗子側と鎌倉側両方歩いてみました。

切通しは鎌倉からの通行のために作られた道ではありましたが、外部から攻められた時に迎え撃つ道でもあったわけで、攻めて来る敵が一度に大勢来ないように道を細めたり、蛇行させたり、ワザと道の真ん中に大きな石を置いたりしているそうです。
深くえぐられた場所では下を通る敵に対して上から矢を射かけたりするのに都合が良く出来ています。
逗子と鎌倉側の出口を確かめるために歩いてみましたが、蛇行はしているし、濡れてぬかっているところが多く、確かに一度に多くの人が進んで行く事はできない道です。
再び、切通しから来た道を戻り猿畠大切岸の上の山道を歩いて行きました。
(戻ろうとしたところ、老人会の集団が一列に並んで歩いて来て通過待ち)
先程、法性寺の墓地脇から登って来た道を過ぎてすぐの左手には『市指定 石造建造物石廟』がありました。
詳しくは判りませんが、石の感じからすると歴史あるものだと思います。
道なりに10分程歩くと舗装され整備された散策路のような場所に出ます。
左手立てられた標柱にパノラマ台と書かれているので左手奥に入り展望台へ。
360度のパノラマです!
左の画像は逗子海岸。右の画像は材木座海岸で彼方に江の島が見えます。
晴れていればここから富士山も見えたのにと思うとちょっと残念。
パノラマ台で休憩した後は再びもとの道に戻り先へ進みます。
元の道に戻りすぐに見掛けたお地蔵さんですが、小首を傾げていてちょっと変わっています。
何かに耳をすませているのでしょうか、それとも悩んでいるのでしょうか?
このお地蔵さんの先で道は突き当たり、右は上り坂で電波塔のようなものがある行き止まりの場所。
左のゆるやかな下りの道を進む事にしました。
左の道を進んで行くと右手は住宅街で木々で隔離された遊歩道となっています。
左手は谷間となっており、山の切れ目の場所は国土交通省関東地方整備局認定(?)関東の富士見百景(鎌倉市からの富士)のプレートと写真が柵に掛けられた場所がありましたが、薄曇りの天気ですので富士山は霞んでおり確認する事は出来ませんでした。
久木ハイランドに住んでいる人達はいつでも好きな時に見に来れて羨ましい!
公園内・遊歩道が終わり一般道に出てすぐの左に今回の最終目的である巡礼古道入口があります。
再び、山道です!
木々に覆われた細い山道です。ただし、こちら側から歩いて行った場合は下りになるので楽です。
道に這っている木の根が程よい滑り止めになってくれています。
ところどころ道の右手(山側)には庚申塔があり、巡礼道らしい雰囲気がありました。
また、巡礼古道に終わりの方には右のような岩窟にお地蔵さんが安置されていました。
古道を下り切ると民家と民家の間の道にでます。
通りに出て左に行くと旧華頂宮邸。
旧華頂宮邸は、昭和4年(1929)に華頂博信公爵邸として建てられたもので、県内にある戦前の洋風住宅建築としては鎌倉文学館とともに最大規模の建築物です。
外観はハーフティンバーと呼ばれる西洋の民家調で、極めて整然かつ古典的な意匠となっています。建築物の内部は、玄関ホールの小ヴォールドと呼ばれる珍しい天井や洋室にあるマントルピースなどが魅力的な空間を演出しています。フランス式庭園では、バラやアジサイなど四季折々の花や緑を楽しむ事ができます。
鎌倉市景観重要建築物等 平成18年4月1日 指定第29号
国登録有形文化財 平成18年10月18日 登録番号第14-0124号
本日の予定は終了。鎌倉駅に向けて帰ります。
報国寺は孟宗竹の庭園が有名ですが、しばらく竹は見たくない気分なのでパスして国道204号金沢街道をひたすら鎌倉へ。
鎌倉五山の第五位の浄妙寺、鎌倉最古のお寺杉本寺、鶴岡八幡宮も寄らず(正直歩き疲れていた)段葛を久しぶりに通り鎌倉駅。
お土産の鳩サブレを買って帰宅しました。
今回の散歩は道がメインで昔の雰囲気を味わうのが目的だったので大満足!
反省点は汗を拭くためのタオルを持ってなかった事(ハンカチはすぐに汗でずぶぬれ)と着替えのシャツを用意しておかなかった事!
後は・・・。
万歩計とGPSが欲しい
では。
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古道 八王子往還(保土ヶ谷区内) その二

2008-02-25 00:31:06 | 古道
杉山神社を後にして古道八王子往還を辿る旅の問題地点。
環状2号線高架下です。
昔あった道を分断していますし、道路の拡張工事のため両サイドの山の斜面を削り取っています。
残された道から途中は道がなくなっている事を考え歩いて行きました。

環状2号線への合流路を過ぎ、高架が見えたところで右側に、高架橋の下をくぐり環状2号の脇道に沿って歩き、正観寺入口の看板を目印に左折。
正観寺
地神塔 寛政3年(1791)建立。
徳本念仏塔 文政1年(1818)建立。
六十六部供養塔 宝暦12年(1762)奉納
石盥手水盤 文政11年(1828)奉納と石仏石塔などがある事は事前に調べて知って履いたのですがあまり勝手にうろつくのも憚れまして入口付近の退散しました。

正観寺を過ぎてすぐ道路から一段高いところにある駐車場の脇にこの道祖神と道標があります。
手前、道祖神は建立時期不明です。見た感じでは割と新しそうですので、壊れて誰かが立て直したのかも知れません。
道標は寛政3(1791)年建立で神奈川道、八王子道。
国道16号より少し高台を通るこの場所では遥か彼方に大山丹沢山系を望む事ができます。ただ、砂が俟っているせいか霞んでおり画像では確認することができません。元禄10(1697)年建立の庚申塔です。
再び国道16号に合流してすぐ右手に妙福寺の山門と題目塔があります。
題目塔は享保10(1725)年建立です。
山門から中へ入って行き右手に地蔵堂と石塔、地神塔、馬頭観音などがあります。
お寺の前の横断歩道を渡り正面の道幅の狭い相鉄のガード下をくぐる道を進みます。
相鉄のガード下の高さ制限は1.8メートルで頭がつっかえそうな感じがしまし、電車が頭上を通過するときの迫力は凄いものがあります。走っている電車を真下から見るなんてめったにありませんのでちょっとビビります。
小川を渡る橋を越えて進むと商店街の通りに突き当たるので右折して左折して商店街、直進して梅の木の交差点になる分れ道を左折して、すぐに左へ分かれる脇道があるので脇道へ進むと右手の民家の切れ目に西谷の石仏があります。
地神塔は寛政13(1801)年建立
庚申塔は不明
石灯籠は寛政8(1796)年奉納
ここからしばらくの道は昔ながらの道幅というのでしょうか、車一台がギリギリ通るかどうかの道幅で車の通りもなくのんびりと歩けました。

商店街の通りに出て道なりに進み、新幹線の高架橋の下を通り過ぎ相鉄の踏切を渡り再び国道16号へ。
以前、帷子川に沿って歩き河川改修工事前の川の流れを調べた事がありますが、この旧道(八王子往還)は川の流れを眼下に見ながらこの場所を通過したようです。(画像は判りやすいように画像左下の踏切を渡って国道16号と合流する手前から撮影。)
国道16号に合流してから先は旭区になるので今回の散策は終了。
時間に余裕があったので。
梅の木の交差点近くの小高い山の上にある富士山神社
梅の木の交差点を左折してすぐの左手に階段坂がありそこには富士山神社参道口の石柱。
ちょっと足に来ましたが、登り切り眺望を堪能。
毎日この坂を登る住民の方や配達の方、尊敬致します。



道の成り立ちに興味が出た今回の散策でした。
現在、利用している道は帷子川の氾濫で湿地や沼地で山際の道しか昔は歩けなかったんでしょうか?
蛇行している理由は何かあるはずです。
ちょっと気になります。
では。
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古道 八王子往還(保土ヶ谷区内) その一

2008-02-24 21:43:40 | 古道
保土ヶ谷区内でも古道の八王子往還を歩けば歴史的なものがあるのではないかと本日は散策に出発。
スタート地点は相鉄天王町駅から真っすぐに天王町商店街と松原商店街を通り抜けた先にあるこの追分です。
ここは旧東海道と古東海道(八王子往還)との分かれ道になっている地点です。
本日はここから現在の国道16号線(八王子街道)を渡ったり戻ったりしながら、昔の八王子往還を辿る事にします。
道なりに歩き、国道16号に出る手前の右側のビルと民家の間に延命地蔵尊があります。
お参りはしないで通過。
心のうちで道中の無事を祈願?
国道16号を渡り反対側に進み始めの交差点を右折して国道16号と平行して進みます。
しばらく進むと右側に公園が見えて来て突き当たりますので、右折して再び国道16号を渡ります。
信号を渡った正面は交番で星川方面に進みすぐの右側に斜めに入る脇道へ。民家の間の道を進みますが、右の画像の分れ道がありますので右の道へ進みます。ほぼ、国道16号と平行した道となっています。
変形の五叉路を左の道に進み、しばらく歩くと再び国道16号。
昔の道をそのまま拡張するのでなく河川の改修工事と同じように国道もなるべく真っすぐにしたようですが、いつ頃の時代におこなったんでしょうか?
国道16号に出て道路向かい側のホームセンターコーナン脇の道が古道なのですが、信号のある横断歩道は先にあるので一旦進み横断歩道を渡り戻り、歩いて行きます。道なりに歩くと再び国道16号。ほとんど蛇行している道です。
何故こんなに蛇行した道になっていたのでしょうか?横断歩道を渡り反対側に出てすぐに右脇道へ入ります。
脇道に入ると右側は崖地です。帷子川はすぐ近くですし、昔は山裾に沿って道が出来ていたのでしょうか?それであれば、やたらと蛇行した道筋に納得できます。のんびりと道なりに進みながら、上り坂になる手前の三叉路の真ん中の道へ進みます。
再び、何度目かは数えていませんが国道16号へ。次も道路の反対側奥へ進みます。
ちょうど横浜新道の高架橋下で横断歩道がありますので信号が青になるのを待ち渡って奥へ。
渡って高架下は駐車場と公園になっており右手には杉山神社があります。
境内の社殿横には庚申塔と道標があり、庚申塔は天明3(1783)年建立。道標も同年建立で大山道、八王子道の道標です。
神社右となりの道に入り、商店街に突き当たるまで進み右折して再び国道16号を渡ります。
渡ってすぐに国道16号と平行した路地がありますのでそちらへ進みます。
しばらく進むと左手にガソリンスタンドが見えて国道16号と合流する地点に着きますので歩道橋を渡り反対側の歩道を歩きます。
右側からマンション-歩道-国道16号-帷子川という並びになります。
右手にマンション、崖を見ながら進むと歩道橋の階段下、中学校へ上る坂道の下に和田村道橋改修碑があります。
普通に歩いていると見落としてしまうと思います。和田町方面から歩いて来ると後ろに振り向く形になりますし、上星川方面から歩いて来てもフェンスで囲まれていますので覗き込まなくては良く判りません。地元の中学生の悪戯から守るためでしょうか?
江戸中期、八王子往還和田村地先の難路改修の由来を記したもので元文二年十一月(1737)の建立。
しばらくは国道16号沿いを歩きJR貨物列車の高架橋の下を過ぎたところの歩道脇(駐車スペース)の隅に上星川の石仏があります。右から
地神塔は寛政3(1791)年建立
庚申塔は正徳4(1714)年建立
道祖神は明和2(1765)年建立
歯科医院の脇の道に入りしばらくは道なり、途中民家の庭の木なんでしょうか、大木がありました。道なりに曲がったりしながら、四つ角を左折。ここを右に曲がると東光寺というお寺があるようですが、今回はパス。
国道16号に出たところで一旦左へ戻り杉山神社へ。
境内には天保13(1842)年奉納された石盥手水盤があり、銀杏の大木は横浜市の名木古木に指定されています。

文字数の関係で『その二』へ続きます。
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