昨日までの天気予報では曇り雨。
散策に出掛ける予定なしで昼前まで寝ていたんですが、暑さで目覚めて外を見ると晴れ。
天気予報を確認すると晴れ。
食事をしながら天気が良いならば、御朱印をもらいに神社巡りをしようと考え、まずは地元保土ヶ谷区内で御朱印を頂けそうな神社巡ることに。
星川の杉山神社に天王町の神明社と橘樹神社。
先に山の上に行くか、後からにするかを考え、体力のあるうちに山の上の杉山神社へ行くことにしました。
星川からのコースは江戸名所図絵にある通り、法性寺の脇から登って行くことに。
法性寺には絵にある通り、本堂と七面堂がありました。
神社ではお詣りをし、社務所で御朱印をお願いし頂いて来ましたが、御朱印デビューはちょっと緊張。
帳面を開いて渡すことは事前学習済みですが、何のことはない「こちらでよろしいですか」という質問にも一瞬躊躇。
無事に御朱印をいただき、デビュー終了。
由緒か記載された小冊子も頂き、境内のベンチに座り御朱印を確認し由緒を一読。
御式内社であるので保土ヶ谷区内でも格式の高いお社であると思われます。
鳥居をくぐって左へ折れたところで、天王町方面へ下って行く石段があったので下って次の神明社へ。
こちらも江戸名所図会に描かれた神明社。
「神戸の地にあり。
街道の右側に鳥居建つる。大門三丁あまり入りて社あり。神主岡田氏奉祀す。
相伝ふ、往古、当社の御神、武州御厨庄榛谷峯に影向なしたまひしを、後世、川井・二股川・程ヶ谷・宮林・同所八坂等の地へ遷しまゐらせたりしが、神託あるをもつてつひに嘉禄二年(1226)九月十六日、この山上に遷し奉り、また、元和二年(1616)三月三日、いまのごとく、平地へ宮居を造立すという」
ー江戸名所図絵よりー
この絵図を見ると今の水道みちと呼ばれているみちはなかったようです。
水道みちと並行した参道を進み、本社にお詣りして摂社を周りますが、かなり多くありました。
二回目ということもあり、落ち着いて手水舍で手と口を清めてお詣りをして社務所へ行き、御朱印をお願い。
榛谷御厨の榛谷が現在の保土ヶ谷の地名の由来になったという説もあるそうです。
鳥居をくぐって神明社の交差点で左折。
この通りは慶長6年(1601年)に保土ヶ谷宿が設立した当時の道筋で、現在旧東海道と呼ばれている道は慶安元年(1648年)に竣工されたそうです。
上の名所図絵で、中段の右から左に描かれて道筋です。
場所としては「鳥居跡」と描かれてあたりから絵の右の方へ。
絵の古町の先、今は河川改修で川筋が変更され橋はなくなっていますが、橋があったあたりの先を右に曲がり天王町駅、旧東海道方面へ。
天王町駅の改札を出てすぐにある帷子公園は河川改修以前に架かっていた帷子橋のモニュメントがあります。
多少の道の変更はあると思いますが、天王町駅の改札前の高架下が旧東海道らしく、高架下を進んで今の帷子橋を渡って橘樹神社へ。
頂いた由緒概要によると
「当神社は、文治二年(1186年)源頼朝公天下の平和を賀し国中の神祇に奉幣し祭祀の典を行った時の創建と伝えられる、即ち京都の祇園社(現在の八坂神社)の御分霊を勧請奉祀した。故に当社も祇園社 牛頭天王社 天王宮 橘樹社と社名が変わり大正十年正式に現在の社名となった。」
江戸名所図絵が作られた当時には神社が街道沿いにあったのに何故、描かれていないんでしょうかね?
境内には庚申塔三基があり、うち一基は市内最古のものと言われているそうです。
散策に出掛ける予定なしで昼前まで寝ていたんですが、暑さで目覚めて外を見ると晴れ。
天気予報を確認すると晴れ。
食事をしながら天気が良いならば、御朱印をもらいに神社巡りをしようと考え、まずは地元保土ヶ谷区内で御朱印を頂けそうな神社巡ることに。
星川の杉山神社に天王町の神明社と橘樹神社。
先に山の上に行くか、後からにするかを考え、体力のあるうちに山の上の杉山神社へ行くことにしました。
星川からのコースは江戸名所図絵にある通り、法性寺の脇から登って行くことに。
法性寺には絵にある通り、本堂と七面堂がありました。
神社ではお詣りをし、社務所で御朱印をお願いし頂いて来ましたが、御朱印デビューはちょっと緊張。
帳面を開いて渡すことは事前学習済みですが、何のことはない「こちらでよろしいですか」という質問にも一瞬躊躇。
無事に御朱印をいただき、デビュー終了。
由緒か記載された小冊子も頂き、境内のベンチに座り御朱印を確認し由緒を一読。
御式内社であるので保土ヶ谷区内でも格式の高いお社であると思われます。
鳥居をくぐって左へ折れたところで、天王町方面へ下って行く石段があったので下って次の神明社へ。
こちらも江戸名所図会に描かれた神明社。
「神戸の地にあり。
街道の右側に鳥居建つる。大門三丁あまり入りて社あり。神主岡田氏奉祀す。
相伝ふ、往古、当社の御神、武州御厨庄榛谷峯に影向なしたまひしを、後世、川井・二股川・程ヶ谷・宮林・同所八坂等の地へ遷しまゐらせたりしが、神託あるをもつてつひに嘉禄二年(1226)九月十六日、この山上に遷し奉り、また、元和二年(1616)三月三日、いまのごとく、平地へ宮居を造立すという」
ー江戸名所図絵よりー
この絵図を見ると今の水道みちと呼ばれているみちはなかったようです。
水道みちと並行した参道を進み、本社にお詣りして摂社を周りますが、かなり多くありました。
二回目ということもあり、落ち着いて手水舍で手と口を清めてお詣りをして社務所へ行き、御朱印をお願い。
榛谷御厨の榛谷が現在の保土ヶ谷の地名の由来になったという説もあるそうです。
鳥居をくぐって神明社の交差点で左折。
この通りは慶長6年(1601年)に保土ヶ谷宿が設立した当時の道筋で、現在旧東海道と呼ばれている道は慶安元年(1648年)に竣工されたそうです。
上の名所図絵で、中段の右から左に描かれて道筋です。
場所としては「鳥居跡」と描かれてあたりから絵の右の方へ。
絵の古町の先、今は河川改修で川筋が変更され橋はなくなっていますが、橋があったあたりの先を右に曲がり天王町駅、旧東海道方面へ。
天王町駅の改札を出てすぐにある帷子公園は河川改修以前に架かっていた帷子橋のモニュメントがあります。
多少の道の変更はあると思いますが、天王町駅の改札前の高架下が旧東海道らしく、高架下を進んで今の帷子橋を渡って橘樹神社へ。
頂いた由緒概要によると
「当神社は、文治二年(1186年)源頼朝公天下の平和を賀し国中の神祇に奉幣し祭祀の典を行った時の創建と伝えられる、即ち京都の祇園社(現在の八坂神社)の御分霊を勧請奉祀した。故に当社も祇園社 牛頭天王社 天王宮 橘樹社と社名が変わり大正十年正式に現在の社名となった。」
江戸名所図絵が作られた当時には神社が街道沿いにあったのに何故、描かれていないんでしょうかね?
境内には庚申塔三基があり、うち一基は市内最古のものと言われているそうです。