一気に寒さがぶり返し、外出するには寒いので今日は家に閉じこもり古地図をながめてます。
昭和4年の交通地図を見ていると中区の部分が堀で囲まれていて新田開発やその他の埋立である事が良く判り、ついでに線引きしてみた図です。
中学生用補助教材『横浜の歴史』によれば現在の中区の新田開発は以下の順で行なわれたそうです。
【吉田新田】
吉田勘兵衛という人が明暦2(1656)年7月に開発に着手し翌年の5月の大雨で堤が決壊し失敗したが万治2(1659)年に再度開発に取り組み寛文7(1667)年に8年の歳月と8,038両余りの工費で完成し野毛新田と名付け寛文9(1669)年、4代将軍家綱によって吉田新田と命名され名字帯刀を許されたそうです。
範囲は吉田橋から伊勢佐木町を中心にして、南は中川村、北は大岡川、西は吉田町
【横浜新田】
村請けによる新田開発で文化年間(1804-1818年)に行なわれた。
現在の山下町付近。
【太田屋新田】
嘉永年間(1848-1854年)三河国(愛知県)出身の商人太田屋により600両の費用で完成。
現在の横浜公園から大田町を経て大岡川に至るところ。
これらの埋立により横浜の地名の由来ともいわれる象牙形の白浜は陸続きになったそうです。
昔は今の元町辺りから桜木町の弁天橋に向かって象牙の形をした浜辺が横に突き出していてこの砂浜の形(
横に突き出した
浜辺)から横浜。
現在の西区の埋立はというと吉田新田が開発された頃は現在の相模鉄道天王町駅に帷子川の河口があり、袖ヶ浦が深く湾入していて、帷子川の流し出す土砂が積り河口付近には長い砂州ができていたそうです。
【尾張屋新田】
宝暦年間、橘郡大師河原村(川崎市)の池上太郎右衛門が村民の尾張屋太仲に開発させたもの。
【宝暦新田】
宝暦4年に着工したのでその名がある。
【安永新田】
安永年間(1772-1781年)に開発。
【藤江新田】
藤江茂右衛門が1786(天明6)年に着手し1.5Kmに及ぶ潮除堤を築いて完成。
【岡野新田】
岡野良親(よしちか)が幕府の許可を得て1833(天保4)年に着手し、子の良哉(よしや)の代で完成。
【平沼新田】
保土ヶ谷宿で代々酒造業をしていた5代目平沼九兵衛が1839(天保10)年に工事を始め7代目九兵衛のとき完成。
帷子川河口付近からの湾の景色(屏風のようにそそり立つ岩とその上に茂る老松。遠く横浜島洲干島の朱塗りの弁天社、本牧十二天の森の緑)は絶景と称された袖ヶ浦はこのようにして陸地となったそうです。
明治以降は鉄道の施設や港の整備、駅周辺の整備に寄って順次、埋立が進み現在の横浜の地形になりました。
山下公園の下は瓦礫
関東大震災の瓦礫を処分するため瓦礫で埋立た場所が現在の山下公園
現在の横浜駅は3代目
新橋-横浜間が開業(1872年)し、当初の横浜駅の場所は現在の桜木町駅で1914年に高島町に移転して初代横浜駅は桜木町と名称変更。1928年に現在の場所に3代目横浜駅新築落成。2代目横浜駅は高島駅に名称変更。