散歩のついでに・・・

犬も歩けば棒にあたる。デジカメを常に持ち歩き、気ままに撮った写真を中心に思い思いに綴っています。

東海道五十三次 小田原宿-畑宿 其の一

2008-09-14 23:59:24 | 旧東海道
朝早起きをして10時に小田原駅到着。
前回は国府津から小田原宿まで歩き、小田原城趾公園でアジサイや花菖蒲を見て楽しんだのが6月。
約三ヶ月ぶりの東海道五十三次の旅です。
スタート地点とする箱根口の交差点まで行き箱根旧街道を歩いて畑宿までが今日の目標。
旧道はバスが運行しているので、歩けないと判断したらバスで帰路へ着く予定。
国道へ出て300メートルほど歩いた右奥にあるのが山角天神社。
祭神は菅原道真公で創建年代は古く不明であるが、小田原北条氏時代と伝えられる城下町図には天神社が記されているそうです。
小田原市重要文化財に指定されている『菅原道真画像』俗にいう『いかり天神』があるそうです。
再び国道に出て、新幹線のガード下をくぐり東海道線ガード下手前にに居神神社があります。
祭神は三浦荒次郎義意公、木花咲耶姫命、火之加具土神。
本殿左手には鎌倉時代末期の古碑群があり、そのうち板碑2基、線刻五輪塔2基、陽刻五輪塔1基は市街地に残る最も古いもので小田原市の重要文化財に指定されている。


JRの東海道線の高架手前を右に曲がった道が旧東海道らしいのでそちらへ。
国道1号線と平行した住宅街の道を進み左へ曲がった(国道1号へ合流)付近に板橋地蔵尊があります。
境内は広く公園として利用されていて遊具があり、子供達が遊んでいました。
境内にはお地蔵さんや明治戊辰の役の犠牲者となった官軍の軍監中井範五郎ら合わせて13名の氏名を刻んだ慰霊碑もあります。
地蔵尊の解説によればこの地方では新ホトケが出た時、その家族及び縁者が3年間続けてこの地蔵尊に参詣する習俗があり、毎年1月と8月の23日・24日の縁日に参詣すると個人に似た人に必ず合えるといわれているそうです。

国道1号に出てしばらくは右手上に箱根登山鉄道、左手下に早川とその先に石垣山と箱根ターンパイクを眺めながら緩やかな坂道を歩いて行き、小田原厚木道路の高架下で箱根鉄道の線路を渡り、旧道へ。
風祭駅を過ぎてしばらく歩くと右手奥へ行く道が見えて来ます。
通りから少し入った所の民家脇に風祭一里塚(道祖神)があります。
標柱によれば小田原市重要文化財、小田原の道祖神と書いてあり、後ろの解説板には江戸から21番目の一里塚と書かれています。
道祖神は丸彫単座合掌型1基と石祠型1基で横のワンコは地元の人が置いたもので単なる飾り?。
入生田駅を過ぎしばらく歩いて再び国道1号に出ます。
国道から1段上がった線路と平行した歩道をしばらく歩いて、湯本中学校近くの歩道橋を渡って道路反対側へ。
箱根湯本駅の手前にある三枚橋を渡ってここから箱根旧街道です。
目指す畑宿は春か彼方。
時計を見ると12時過ぎ、歩き出してから2時間が経過してお腹も空いて来た事ですので途中のコンビニでおにぎりと飲み物を購入。
地図を見ると早雲寺付近に公園があるのでそこで休憩と食事を取る事にしました。
湯本小学校を過ぎて公園はどこかと探していると目についたのが白山神社。
食事前の一仕事?ついでに参詣。
祭神:菊理媛命(きくり)、伊奘諾尊、伊奘冉尊
休憩前で疲れた体に参道の階段はキツかった。
早雲寺は大永元年(1521)北條早雲の遺命により、氏綱により建立された寺で北條氏五代の墓があります。
惣門とお寺の間にベンチがいくつか置かれていてここで休憩。
木陰でノンビリとおにぎりを食べつつ、汗で重くなったシャツを着替えてしばし休憩。

30分ほど、休憩もして禅宗のお寺らしい落ち着きのある早雲寺を眺めて気分もリフレッシュし出発。
箱根茶屋で見掛けた道祖神と箱根旧街道の一里塚。

湯本茶屋の宿街を通り過ぎてカーブの続く旧街道の道を歩きますが、歩道はなくなるべく車道にはみ出ないように歩こうと思いますが草が伸びており後ろから車が来るたびに立ち止まって車をやり過ごすちょっと歩行者には危険な坂道を登っていきました。
そんな道中、道路右手下に曹洞宗の福寿院というのを見つけ旧道から下の道を見てみると石畳。
今回の散歩?(散策・ハイキング・旅)で初めてみる箱根街道の石畳です。
この石畳は国指定史跡箱根旧街道で湯本方面の近道となっていて約255メートル続いているそうです。
ほんの数メートルですが、石畳を初体験。

ここまでで小田原駅を出発してから3時間40分経過。
このつづきは明日以降。
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散歩というより旅でした。

2008-09-13 22:50:13 | 旧東海道
三連休初日という事で気合いを入れて、東海道五十三次の旅。
前回は小田原まで行きましたので、今回は箱根。
一日で山越えはムリですので、取りあえず途中の宿場である畑宿まで行って来ました。
詳細は明日という事で取りあえずはコース紹介。

地図はこちら
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小田原城趾公園(旧東海道、国府津-小田原宿 其の三)

2008-06-09 22:56:56 | 旧東海道
昨日はアンパンを買って小田原城趾公園へ向ったところで終わったのでその続きです。
国道1号の箱根口の信号を曲がり小田原城趾公園へ行くと先ず最初にあるのが、この箱根口門跡です。
現在は石垣だけが残っております。
このうしろには三の丸小学校という凝った作りの小学校があり、雰囲気は城内?
城郭内に入って来たぞという気分にさせてくれます。

小田原駅方面から来た場合は学橋か馬出門土橋(登城ルート)からこの銅門(あかがねもん)を通って天守閣へ向うのですが、今回は門の左手、南入口から訪れました。

銅門を抜けると銅門広場があり、そこには小田原市指定天然記念物のビャクシンの木や銅門の建設を行なうに際し、事前に制作した銅門土塀模型が展示されていたり、ビャクシンと同様に小田原市指定天然記念物に指定されたイヌマキの木が生えています。

常盤木門を抜けるとそこには動物園があり、猿山の日本猿やインド象のウメ子がお出迎えしてくれます。
更に奥には高くそびえ立つ天守閣。
拝観料400円で天守閣の中に入る事ができますので小田原の景色を一望したい方にオススメです。
私は高い所が苦手ですので下から天守閣を眺め、灰皿近くのベンチで一服しながら日本猿やインド象のウメ子をぼんやりと見ながら休憩。

休憩し落ちついた所で先程買っておいたアンパンで遅めの昼食。
疲れた体に甘いものがぴったり!
ただ、残念な事にアンパンにベストマッチな飲み物、牛乳を買いそびれたのが非常に残念!
三つ子の魂百までといいましょうか、アンパンには牛乳がパブロフの犬のように私の中では条件付けられているようです。
食事もとり、休憩も十分とったので帰路に着こうと思いましたが、小田原城趾公園内の東堀花菖蒲園で花菖蒲まつりが開かれているようなのでついでに見て来ました。
花菖蒲も色々な種類が植えられていました。花菖蒲まつりは今月の29日までです。

花菖蒲まつりが開催されている東堀の斜面(脇?)にはあじさいも鮮やかに咲いていました。普通のアジサイ(青と赤)以外にもガクアジサイや色々な花の形や色のアジサイがさいていました。

小田原城趾公園はおまけで来たようなものですが、今日訪れたのは正解でした。
満足したところでお堀の蓮を見て、馬出門土橋(工事中)、学橋を見ながら小田原駅に行き国府津-小田原間の散策は終了。

では。
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旧東海道、国府津-小田原宿 其の二

2008-06-08 17:24:47 | 旧東海道
星月夜の社 山王神社 
祭神 大山祇命 少彦名命 大山咋命
明応四年(1495)二月北条早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模の国を平定した。その頃の山王神社は北条家の郭内で山王曲輪と呼ばれた海辺の袖の池の南袖ヶ薮にあったが、暴浪のため崩壊したので慶長18年(1923)9月18日に現在の場所に移ったそうです。以前の社地には星月夜の井戸というのがあり別名星月夜の杜とも呼ばれていたそうです。
寛永元年(1624)4月4日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内において星月夜の詩を詠んだそうで、詩は石碑に書かれています。

神社を過ぎてしばらくすると国道1号線の道路のこちら側と向こう側に『東海道 小田原宿』と書かれた塔が見えて来ます。
ここから先が小田原宿!
ちょっと一服したいと思いましたが、ライターがないのでここは我慢です。
この塔の先にある歩道橋の左右に江戸口見附並一里塚があり、左手の塚は塚らしく一段高くなっています。

右手の公民館脇にある江戸口見附並一里塚には小田原宿の解説板が設置されており、大正時代の江戸口見附付近の写真が掲載されていました。歩道橋の上から撮影した現在と比べると道は広く真っすぐになっていますし、沿道の街並も大きく変わっているのが判ります。
旧東海道の小田原宿内に入ると道の所々に旧町名を記した石柱があり、町名の由来が側面に刻まれています。
旧東海道は国道1号線の新宿交差点を左折して一つ目を右折した1号線と平行に走る道になります。
沿道には小田原名物の蒲鉾屋さんが軒を連ねてあり、再び国道1号と合流する付近では老舗の旅館が数件あります。

新宿町(解説の石柱)は江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町で、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿や茶店があり、小田原提灯づくりの家もあったそうです。
鍋町(解説の石柱)は町の規模ははっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師が多く住んでいたので、この名がついたといわれるそうです。
万町(解説の石柱)は古くから『よろっちょう』と呼ばれた。町名には七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には旅籠が五軒ほどあり、小田原提灯づくりの家もあったそうです。
高梨町(解説の石柱)は東海道から北へ向う甲州街道の起点に当たり、古くから商家、旅籠が並んでいた。町の中央南寄りには下の問屋場が置かれ中宿町の上問屋場と十日交代で勤めていたそうです。
宮前町はすみません。解説をチェックし忘れました。
旧本陣(古清水旅館)です。
旅籠だった当時は小清水と名乗っていたそうですが、昭和になって現在の『古清水』に変えたそうです。
敷地内に設置された昭和20年(1945)8月15日小田原空襲を伝える説明板。
被災炎上した地区は現在の浜町1・3丁目、本町2・3丁目にまたがり国道1号線をはさんで国際通りの両側。
焼失した家屋は約400軒、死者は12名。
右の写真は当時の館主、清水専吉郎氏が写真屋を呼んで撮影したものだそうです。
古清水旅館のすぐ隣に明治天皇聖蹟(小田原市指定史跡)があります。
この場所は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所で、小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、清水金左衛門家は江戸時代に町年寄も勤め、宿場全体の掌握を行なっていました。本陣の敷地面積は、およそ240坪で、大名・宮家などの宿泊にあてられたそうです。小田原宿なりわい交流館という無料休憩所でちょっと休憩して手前の道を海の方に入って行き一つ目の角を左に入ったところに籠静本店。道路向かいには駐車場があり、その奥には竜宮神社。由来は良く判りません。
西湘バイパスの道路下をくぐるトンネルがありその先は海。
海の潮風に当たりながらちょっと休憩。沖には漁船がチラホラ。


国道1号(東海道)に再び戻ります。
済生堂小西薬房(左画像)
創業寛永十年
小田原街かど博物館の幟が立っており、昔の調剤道具など歴史を学ぶ事ができます。ちょうど歩いていた前を小学生の集団(10名位)がノート片手に入っていきました。
一際目立つお城のような建物は外郎家の『ういろうと外郎博物館』です。
外郎といえば一時名古屋のういろうが有名になりましたが、こちらは本家本元、外郎(薬)を製造する外郎家(小田原)の来客用菓子として伝えられていたものが、明治以降に薬と共に販売されるようになったことで全国に広まったとそうです。
歩き始めて3時間午後1時もちょっと過ぎたので、小田原城城趾公園で観光しつつ昼食でも取ろうと思い、地元で有名なうす皮あんぱんの柳屋ベーカリーへ。
色々とアンパンの種類がある中からつぶあん、こしあん、ゆかり、もちもち胡麻あんを買って小田原城趾公園へ。
ここまでで投稿文字数制限が一杯!
投稿した画像は残り僅かなので本日は終了!
小田原城城趾公園の記事はまた、日を改めて
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旧東海道、国府津-小田原宿 其の一

2008-06-08 14:58:37 | 旧東海道
昨日分を一気にアップしようと画像を投稿していたら一日分の容量を超えてしまいました
取りあえず今日は投稿できた画像を使って『旧東海道、国府津-小田原宿』を紹介
午前10時過ぎにJR国府津駅を出発。
先ずはスタート地点の駅舎と改札を出てすぐ右手にあった明治20年7月11日開業から
100周年記念の石碑とプレートを撮影。
国府津周辺は前回歩いたので、脇道に入る事なく東海道へ。
歩き始めて20分程、小八幡3丁目信号の先、左手に一里塚跡の看板があります。
塚の面影はなくただの案内板。
誰が真っ平らに整地したのかは不明ですが、道の両端には民家が建ち並んでおり、他の派手な看板が目立ってしまって、ほとんどの人に気付かれる事なく通り過ぎられてしまっているのではないでしょうか?
10分程歩くと松並木があり、右手に小学校が見えた先に道祖神がありました。
道の左側を歩いていたんですが、道路を渡って取りあえず撮影してしばらくは右側を歩行。
寺が多く寄り道しようかと思いましたが、メインスポットは小田原市内なので酒匂川を目指して進みます。
酒匂川の手間にある法船寺ですが、日蓮上人旧跡(宿泊された)という事でちょっと寄り道。
五重塔がありました。
特に解説などの由緒などがわかるものはありませんでしたので境内を通り抜けそのまま街道へ戻りました。

歩き始めて約1時間。
川の手前、ガソリンスタンド先に立てかけられた『シカに注意』の看板
こんなところにもシカが生息しているのでしょうか?ちょっと気になります。
酒匂橋を渡りながらですが、江戸時代の渡し場は酒匂側は現在の橋のたもと辺りで小田原側は上流へちょっと行った所にあったそうです。
現在の酒匂川と江戸時代の酒匂川の巾や深さがどう違うか判りませんが、現在の川を見る限り歩いて渡れそうな気がしますがどうなんでしょうか?

橋を渡り左手の小田原城東高校を見ながら左に曲がる道があり、一旦東海道から外れて住宅街へ。
案内の看板が出ていますが、寄り道先は新田義貞公首塚
この小田原の地になぜ首塚があるかが不思議ですので是非、確かめたいと思って今回、ちょっと寄り道してみました。
駐車場と駐車場の間に解説板が立てられていて解説文によれば、建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。
義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。
しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。
なお、北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。そうです。
この解説板だけで碑はどこにあるのかと思ったらこの間の細い道の先に小さな遊具のある公園の片隅に碑がありました。

住宅街の中を抜けて東海道にもどろうと思いうろちょろと歩いてみましたが、個人宅への道であったりして抜けれそうにないのでもと来た道を戻り再び旧東海道へ。
歩き始めて5分程で山王小学校入口の標柱があり、民家の板塀に『上杉龍若丸墓』の案内表示。路地に入ると正面に小学校、手前の左に小さい祠、右には鳥居。
左手の祠が上杉龍若丸の墓のようです。解説が貼付けられており正面を見ると上杉神社と書かれています。
道路から見て駐車場なのでしょうか、車が2台停まっていてその奥のちょっと高くなったところに祠はありますが、民家と地続きのようで祠手前の木には洗濯物が吊るされています。まるで離れのトイレのように見えます。
多くの観光客が訪れる場所ではないと思いますが、もう少し丁寧に祀っても良いのではないかと思います。
-由来-
関東管領平井城主、山の内上杉憲政の嫡男、龍若丸(11才又は13才)は天文二十年(1551)平井城落城前、北条氏康の攻撃を止めさせ、所領を安堵するため、降伏の使いとして、従臣六名とともに、小田原城に出向いて来た。
北条氏康は龍若が幼稚であったが大敵の嫡男のため、家臣の神尾治郎右衛門に首を刎ねることを命じ、龍若と従臣が一色の松原で磔にかけられた。
龍若を斬殺した神尾治郎右衛門は癩病にかかり、まもなく死亡した。
これを知った小田原町民は龍若に深く同情し、五輪塔を立て祀り、供養をしました。
道の向かいにある小さな神社、戎神社は由来の解説が年月で劣化してしまい良く読めないので省略。

再び東海道へ戻って10分程歩いて山王橋。
この橋を渡った右手に見えて来るのが山王神社。
今度は投稿できる文字数がオーバーしそうなので『その二』へ
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旧東海道の旅、品川宿-川崎宿

2008-03-23 23:48:20 | 旧東海道
しっかりと歩いて来ました品川-川崎間。
電車であれば10分ぐらいの道のりですが、寄り道しつつ歩きました。
品川駅から出発したのが午前10時。
川崎駅に到着したのが午後の4時!
その間なんと6時間
過去に例のない長時間の徒歩行でした。
道々たくさんの神社・仏閣に寄りたくさんの撮影したんですが、全部投稿するのは無理なのでほんの少しをご紹介
品川駅を第一京浜側に出て線路に沿って川崎方面へ。八ツ山橋を渡り、右側へ進み京急の踏切を渡ると旧東海道。標柱やらが建っています。
旧道を進み左手のお寿司屋さんの手前角にあるのがこの『問答河岸跡の碑』
東海寺を三代将軍家光が訪れた時にこの河岸まで沢庵和尚が見送りに来ておりその際に家光が『海近くして東(遠)海寺とは如何に』と問い、『大軍を率いて将(小)軍というがごとし』と沢庵和尚が答えたといいう話があるそうです。
旅館土蔵相模跡や善福寺、法禅寺、品海公園(一里塚)、一心寺は省略しますが、商店街の外れ近くに左手に品川宿本陣跡の石碑があります。
品川宿本陣は明治天皇が行在所となったことから現在は聖蹟公園として利用されています。
公園を抜けて行くと環状6号線に出ますが、旧道に戻り新馬場北口通りを抜け国道15号を渡り反対側の品川神社へ寄り道。

東海七福神のひとつでここには大黒天があります。
また、品川神社の境内ではありませんが、本堂の裏手に廻るとそこには板垣退助の墓所があります。
元は東海寺の塔頭の一つの『高源院』という寺院があったそうで関東大震災後、高源院は世田谷の烏山に移転し跡地は城南中学校になったそうですが、お墓だけがそのままこの場所に残ったそうです。
再び、旧道に戻り橋の手前を右に曲がると荏原神社があります。この神社は東海七福神の恵比須さんです。
養願寺(布袋)と一心寺(寿老人)は参拝しなかったのが残念。
旧道を更に進み常行寺と長徳寺、天妙国寺、諏訪神社は山門と境内を撮影しましたが省略します。
旧道と京急青物横丁駅の中間に位置する品川寺(ほんせんじ)には江戸六大地蔵のひとつである地蔵菩薩像があります。
また、境内奥には七福神の石像があり、このお寺だけで七福神めぐりが可能です。

南品川と鮫洲の境目の手間の十字路を右に入ったところに『太政大臣岩倉公御墓参拝道』の石柱が建っています。国道15号に向かって正面の海晏寺内に御墓があるようなので旧道からそれてちょっと寄り道してみましたが、区画が判らず墓地でウロウロするのも不審者と思われるのもやなので早々に退散。
旧道に戻り鮫洲八幡神社の池で鯉や亀、藻エビを見たり、勝島運河沿いに出て花の道(菜の花が満開)を歩いたり寄り道だらけ。
京急立会川駅近くの浜川橋。別名泪橋。
鈴ヶ森刑場で処刑される罪人は江戸府中から護送されて来てここで親族らが涙を流して別れたことから泪橋と呼ばれるようになったそうです。
旧道と第一京浜が合流する手前にこの鈴ヶ森刑場跡はあります。
髭題目の碑や火あぶりの刑用の鉄柱を立てた穴石、はりつけの刑用の柱を立てた穴石があります。
ココから先は大森海岸駅の先の磐井神社に寄り見張ら通りを歩き再び、第一京浜をただひたすらに川崎に向って歩くだけ。
貴舩神社、梅屋敷公園、京急蒲田の踏切(空港線)を越え六郷神社までの30分くらいはひたすらまっすぐに春の日差しを正面にうけながら歩くのみ。
電車かバスで移動しようかと思いました。
なんとか六郷橋まで来て川崎は目の前。
川崎は通りの色々なところに当時の宿場街の解説や跡地の標柱がありますが、宝暦の大火や文久の大火、安政大地震、大空襲などでほとんど昔の面影を残すものは焼失してしまっているようです。
今回の徒歩行は過去最長時間(距離)となり疲れました!
では。
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東海道五十三次 大磯宿-国府津宿 その二

2008-03-02 18:44:33 | 旧東海道
昼食をとり一息ついた後は行程の残り半分です。
川匂神社の交差点手前で道は国道1号と旧道に分かれますので左手旧道へ。
分かれてすぐの三角地帯に二宮の一里塚があります。
国道を1号線を整備した時に大きく山を切り崩したのでしょう、面影はありません。
住宅街の中のゆるやかな坂道をのぼっていくと民家の庭先に立て看板と標柱があります。
文字を読んで見ると松屋本陣の跡
大磯宿と小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂・酒匂川を手前に控えていることから、間の宿として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶店や商店が軒を並べ、『梅沢の立場』と呼ばれて大変賑わっていたそうです。その中心的存在が松屋本陣で松屋であった和田家には本陣を利用した人々の記録であるご休憩帳が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっているそうです。
中村川に架かる押切橋を渡り、緩やかに長い押切坂をのぼりきり下り始めた所で海が見えます。
ここで一旦旧道を外れて山の上にある近戸神社へ寄り道。
高台にあり、相模湾に向けて建っていますので右の画像のように木々に囲まれた間から相模湾を望む事が出来ます。
ただ、足が疲れて来ているので途中の坂道や石段がちょっと辛かったです。
国道1号の国府津駅前を通過してすぐに親鸞縁の石碑とお寺があります。
ひとつは親鸞聖人がこの地において7年間教下した際に住んでいた庵室の御勧堂跡の碑と元は天台宗のお寺であったが親鸞聖人の教法に導かれて当時の住僧性順が帰依して寺の名前を親鸞聖人に名付けてもらった真楽寺

再び国道1号に戻り、岡入口の交差点を右折。
最終目的地菅原神社へ。
なぜ菅原神社かというと下の画像にあるようにここがわらべうた『通りゃんせ』の発祥之地という情報を得ていたからです。
確かめる意味でも実際に見てみるしかありません。
確かに石碑があります。ただ、由来は書いていません。天神様=菅原道真ですので菅原神社であれば問題ないのですが、なぜ、『いきはよいよい帰りはこわい』なのかは不明。

帰りのついでに隣の安楽院にも寄りましたが、ほとんど素通り状態。
線路高架下の通路を抜け線路に沿って国府津駅へ。
ゴールです。
後は電車に乗って帰るだけ。
本を読みながら帰ろうと思っていましたがいつの間にやら熟睡。
駅に着いては慌てて駅名を確認してました。
やっぱ5時間歩くと体がつらいですねぇ。
では。
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東海道五十三次 大磯宿-国府津宿 その一

2008-03-02 17:38:50 | 旧東海道
天気の良い日が続き、少しづつですが暖かくなってきましたので大磯宿から国府津までの東海道を歩いてみる事にしました。
地図上では2-3時間で歩ける距離ですが、気の向くまま足の向くままのぶらぶら歩きですのでどうなるか判りません。
大磯駅前を10時半頃に出発。
先ず最初に訪れたのは延台寺
このお寺は虎御前が曽我兄弟を偲ん結んだ庵を後に日蓮宗の日道上人が建てたお寺。
境内には虎御前祈願の龍神や大磯宿遊女のお墓、虎御前供養塔などがあります。

街道(国道1号)に戻り信号を渡り道路右側の歩道を歩いて行くとNTTの建物の左脇に大磯宿小島本陣跡の石柱があります。
電柱の影というか壁に混ざって見落としやすいです。
宿場町を通って本陣を見ないのは淋しいですので必ずチェックして下さい。
中南信金の手前の路地を曲がり、正面に見えるお寺が地福寺です。
境内の梅が見頃を迎えていますが、このお寺には明治の文豪島崎藤村のお墓があることで有名です。ただ、すごく立派なお墓があるのではないかと想像していましたが、かなりシンプルなお墓でした。

再び街道に戻り、大磯プール入口のカーブの辺りに新島譲終焉の地というのがあります。
説明文を読むと同志社大学の設立者である新島譲が資金集めのため東奔西走している時に病のためここ大磯の百足屋旅館で療養中、1890年(明治23年)1月23日に47才の生涯を閉じたそうです。
ココを過ぎて数分鴫立沢の信号の手前左手の降りたところに鴫立庵があります。
寛文4年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。
崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたがその標石に”著盡湘南清絶地”と刻まれている事から湘南発祥之地として注目を浴びています。
中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになりました。
ここか300メートルほど進んだ大磯中学校辺りから大磯の松並木が始まります。
この下りが昔からの道なのでしょうか歩道側と中央分離帯に松並木が連続しており、かなり成長した松の大木が連なっています。
平成6年11月に松の天敵であるマツクイムシの被害にあった老松(樹齢217年)の切り株を歴史年表として保存してあります。
この松並木が切れるところにあるのが伊藤博文公の旧邸の滄浪閣です。
今は改装中のようです。
ここから1キロくらいは史跡等は特になく海沿いのこゆるぎの浜を歩くのも良いかも知れません。
ひたすら黙々と歩いてY字路で右が城山公園で旧道、左は国道1号。国道1号を200メートルほど進むと西長院の信号手前に左(海岸)に入って行く道があるので入って行き、海(西湘バイパス)に突き当たった左手の小高い丘の上に吉田茂の銅像があります。
一応管理された公園らしく開園(鍵の開いている時間)は10時から3時です。
国道1号に戻り西長院の境内を通り抜けて城山公園前を通る旧道を歩き始めます。
車の通りが少ない小高い住宅街の中を通り過ぎ1キロちょっと。旧道と国道1号線を別けるように短い距離ですが松並木が姿をみせます。
右の画像は国府本郷一里塚

国府新宿の交差点で見掛けた石のオブジェ?
道路を挟んで数個の石が置かれてありプレートが着いています。
解説によりますと県指定無形民俗文化財『国府祭(座問答)』の標石で、『大化の改新』の時、相武の国と磯長の国が統合され、相模の国が生まれました。
両国の一之宮である寒川と川匂とが新しい国の国司巡拝の順位を巡って一之宮の座を争う、お互いに相譲らず、見かねた比々多と前鳥・平塚八幡宮が『いずれ明年まで』と言って仲裁し円満解決した故事に基づいており問答の様子を示しているそうです。道路左に 総社六所神社。右側手前奥から二之宮 川匂神社、一之宮 寒川神社。後ろ奥から四之宮 前鳥神社、三之宮 比々多神社、平塚 八幡宮とならんでいます。
国府新宿の交差点から2-300メートル、先程の問答に登場した相模の総社六所神社です。
国道1号に面したところにこの山門はありますが、神社はここからJR東海道線の線路をくぐった反対側にあります。

12時も過ぎそろそろ昼食でも食べようかと思いながらJR二宮駅前の国道を通過しましたが、食べ物屋さんらしい店も見つからず通過。
1時過ぎに蕎麦屋さんがあったのでここで昼食。
これからまだ、歩く事を考えるとあまり胃に負担の掛からないものと思うとやはり蕎麦です。
滑らかな喉越し!軽く蕎麦をたぐってしばし休憩です。
その二に続く。
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旧東海道 大磯宿-国府津宿 (予告?)

2008-03-01 23:10:30 | 旧東海道

地図でルート検索をして貼付けたんですが、歩行者ナビでなく自動車ナビになってしまいました。
東海道五十三次の旅、復活!
昨年から取りあえずの目標は神奈川県内でスタートしましたが、大磯宿まで行ったところで駅間の距離が長く夏場や冬場歩くのはつらそうだったのでしばし中断。
このところ暖かくなって来たので朝10時過ぎにJR大磯駅から出発。
途中、昼食休憩を挿みながら5時間かけて国府津まで到着。
帰宅後、撮影画像を整理して投稿用に画像サイズ変更作業。
ここまでで挫けました。
道々の紹介は明日改めてアップします。
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3時間何して過ごそう?

2008-01-10 22:44:03 | 旧東海道
午前中の仕事が秋葉原で11時前に終了。
次の待合せは午後2時20分五反田駅。
3時間ちょっと空いている!
一旦事務所(横浜の関内)に戻っても食事をしてすぐに五反田に向かうようになるだけで時間と交通費の無駄!
取りあえず、時間をつぶさなければならないと思い、歩き出す事にしました。
パソコン関連のもので欲しいものは取りあえずないので東京駅まで歩いてみようと思い『万世橋』方面へ向けて歩き始めました。
橋の欄干の上には餌付けされているようでカモメがあまり人を恐れずにいます。
鳩よりは遠慮がちですけど・・・。

道路の案内表示板を見たら『日本橋』の文字!
日本橋は東海道の出発地点!
是非、見なくてはと力が入り始めました
日本橋と言えば老舗デパートの三越です。
ライオンも入口近くでお出迎えです。
先の方に首都高速が見えてきました。
景観上良くないと問題になっている日本橋の上を覆うようにして通る首都高速です。
橋手前の左側には『日本橋魚市場発祥の地碑』があります。


日本橋といえば、東海道五十三次
時間もある事ですので次の宿場町『品川』まで歩いてみようかという気になって来ました。
京橋です。
川はなくなっていますが、親柱があります。
手前の右には『歌舞伎発祥之地碑』や『京橋大根河岸青物市場跡』の石碑もあります。


京橋周辺を撮影していて、後ろの方のビルの上を見たら見つけた『アサヒペン』の広告塔。
ペンキ缶がクルクルと回り、面白いので撮影。

『銀座発祥の地』の石碑と『三愛ドリームセンター』。
持っているデジカメがリコーなので取りあえず撮影してみました。

昼頃になり、ラーメンを食べようとメインの通りから脇に入り、ついでに芝口御門跡の碑を撮影。

食後は更に歩きます。
ゆりかもめの線路下をくぐり、通りに沿ってひたすら進みます。
正直、新橋駅から電車に乗り品川駅で時間調整しようかと思いましたが、黙々と歩きました。
途中、『東京タワー』の案内を見掛け方向転換!
ビルの隙間から東京タワーがちらちらと見えるので方向を間違える事はないんですが、ちょっと距離がありそうです。
御成門の文字が見えたので東京タワーの下に行くのは止めにしました。
並びには『芝増上寺』徳川家菩提寺。
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所があります。


芝5丁目交差点近くにあります。
港区立港勤労福祉会館の道路を挟んでJR線側のビルとビルの間の通路右手前。
『西郷南州と勝海舟会見の地碑』
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源。
享保9年(1724)に現在地に移された。
江戸の南の入口として道幅役10メートルの旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
旅人の総下もここで行なわれ付近に茶屋などもあり、当時は品川宿にいたる海岸の景色も良く月見の名所でもあった。

途中、食事休憩もありましたが、2時前に品川駅に到着。
ビジネスシューズでこの距離を歩くのは辛かった
今度は休日に品川から六郷まで歩こうと思います。
では。
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