タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく90

2012-08-16 09:05:15 | 願い
先日、
創価学会の人が、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえると、

なぜ、涙を流したりするんだろう?

という話しを、したんですが、
もう少し、その話しを、
展開(てんかい)していきたいと思います。

それは、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
涙(なみだ)を流したりする人がいるとかいう、
現実の幸せとは、あまり、
関係ないことではなくて、


「創価学会(そうかがっかい)の人たちは、
なぜ?
南無妙法蓮華経を、となえると、
病気が治(なお)ったり、
経済苦を、解決できたり、
家庭不和(かていふわ)を、解決できたり、
すべての人が、
環境(かんきょう)も悩みも、
望みも、希望する幸せも、
ひとりひとり、
ことごとく、違(ちが)うにもかかわらず、
そのすべてに対応(たいおう)して、
その悩みや、問題を解決したり、
願いを、かなえたりできるんだろう?」


ということです。


南無妙法蓮華経が、
コンピューターのような、
ひとつの決まったプログラムであるならば、
それは、ぜったいに、
有り得(え)ないことです。

なぜならば、
プログラムであるならば、
ひとつの問題に対して、
ひとつの回答(かいとう)、
ひとつの結果(けっか)しか、
出しえないからです。

ところが、人間の悩み、希望は、
千差万別(せんさばんべつ)です。

千人いれば、
千個の悩(なや)み、希望がある。

ひとつのプログラムであるならば、
そのすべてに対応することは、
不可能(ふかのう)だからです。


だとしたら、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
なんなのか?

南無妙法蓮華経が、システムではない!としたら、
南無妙法蓮華経とは、なんなのか?


その答えが、
釈尊(しゃくそん/釈迦[しゃか]・ブッダ )の
法華経(ほけきょう)に、
隠(かく)されていると思う。


先日、話しましたが、
法華経の如来壽量品(にょらいじゅりょうほん)の、
第16の最後に

『毎自作是念(まいじさぜねん)
以何令衆生(いがりょうしゅじょう)
得入無上道(とくにゅうむじょうどう)
速成就佛身(そくじょうじゅうぶっしん)』

と、あります。

法華経(ほけきょう)は、
釈尊の仏法の真髄(しんずい)であり、
その中でも、もっとも大事なのが、
壽量品(じゅりょうほん)第十六です。

その最後の部分が、
先日も紹介した、
『毎自・・・・~・・・佛身』
で終わる、ご文です。


だいたい、どういう意味かというと、

『仏(ほとけ)は、いつも、思い願っている!
どうしたら、すべての衆生(民衆)を、
真実(しんじつ)の幸せへと、みちびき、
できるだけ速く、仏のような最高の幸せ、
人生における最高の勝利を、
つかませることが、できるだろうか!』

と、
先日、話した通りです。


仏(ほとけ)は、
すべての人間の真実の幸せを、
願っている。

ただ、ひたすら、
一秒も、かかさず、
民衆のことだけを、
民衆の幸せだけを、
永遠に思い、願っている!

その民衆を幸せに導(みちび)こうとする、
『思い』そのものが、
仏(ほとけ)の真髄(しんずい)であり、
法華経の真髄!


そうなると、テーマは、

いかにして、仏(ほとけ)は、
民衆を幸せに導こうとする、
『思い』を、実現(じつげん)するのか?

ということになります。

そして、その仏の『思い』を実現する、
釈尊の法華経に隠(かく)された秘宝(ひほう)が、
実は、
創価学会の人たちが、日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。


釈尊が伝(つた)えたかったのは、
この、『南無妙法蓮華経』なんです。


いわば、
仏(ほとけ)が民衆を幸せにしようとする
『思い』を実現する、
決定的方法であり、手段(しゅだん)が、
『南無妙法蓮華経』だと、
いうことです。

手段というと、
なにか申し訳(もうしわけ)ありませんが、
南無妙法蓮華経とは、
「仏(ほとけ)の生命(せいめい)」そのものを、
表現したものであり、
その、「仏の生命そのもの」の中に、
民衆の幸せを願う「思い」も、
民衆を幸せに導く「願い」も、
人々を幸せにするための方法も、
幸せにする無限(むげん)の力も、
法則(ほうそく)も、
すべて、含(ふく)まれているということです。

だから、
南無妙法蓮華経は、
仏(ほとけ)が、
民衆を幸せにするために残(のこ)した、
『伝家(でんか)の宝刀(ほうとう)』
だということです。




「どうして、願いが、かなうのか・・・?」


最初のテーマに戻(もど)ると、
『南無妙法蓮華経』は、
さきほど言ったように、
仏法(ぶっぽう)の真髄であり、
法華経の真髄です。

仏法の真髄(しんずい)であり、
法華経の真髄とは何か?
といったら、
それは、
「仏(ほとけ)の生命そのもの」のことなんです。

「仏の生命そのもの」の中に、
悩みを解決する力も、
夢をかなえる力も、
幸せになる無限の可能性(かのうせい)もある!!
ということです。


実(じつ)は、
『仏の生命そのもの』に、
幸せになる、最大の鍵(かぎ)がある!


そして、
仏の生命そのものが、何か?
といったら、
それが、

『南無妙法蓮華経』

なんです。

だから、
民衆を幸せに導こうとする、
『思い』そのものは、
「仏の生命」として凝縮(ぎょうしゅく)され、
その『仏の生命』を凝縮して、
パックしたものが、
『南無妙法蓮華経』だと、
表現できます。


「仏の生命」が、
仏(ほとけ)の思いを実現し、
人々を幸せにする力ならば、
「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」も、
仏の思いを実現し、
人々を幸せにする力だと、
いうことです。

だから、
『仏(ほとけ)の生命と仏の思い』は、
『南無妙法蓮華経』と別(べつ)のものではなく・・、
この2つは、まったく異(こと)ならない、
同一のもののはずです!!!


そう考えた時、

だとしたら・・・・


南無妙法蓮華経とは、
まぎれもなく、
『仏(ほとけ)の思いそのもの』では、
ないのだろうか?

それだったら、納得(なっとく)がいく!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

南無妙法蓮華経が、

『すべての人の、すべての一人の幸せを願う、
仏(ほとけ)の思いそのもの!』

で、あるのなら、
南無妙法蓮華経は、
どんな人のどんな悩みにも、
願いにも、
対応できる。

病魔(びょうま)に苦しむ人に対しては、
南無妙法蓮華経の仏(ほとけ)の思いは、
町を破壊(はかい)つくす大怪獣(だいかいじゅう)のように、
荒れ狂い、
病魔をやっつけていく。

また、
家庭不和で苦しむ人に対しては、
南無妙法蓮華経の仏の思いは、
まるで、
少女が、恋人を思うように、
純粋(じゅんすい)に、清(きよ)らかに、
家族の心を、変えていく。

さまざまな経済苦(けいざいく)で
苦しむ人に対しては、
南無妙法蓮華経の仏(ほとけ)の思いは、
最高の知恵とアイデアとなって、
現れて、
現実の苦境(くきょう)を変えていく!

また、南無妙法蓮華経が、
仏の『民衆の幸せを願う、思いそのもの』
であるならば、
先日(せんじつ)、話したように、
ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえた時に、
涙を、ぼろぼろ、流すのも、
納得がいく!!!


すべての一人を、
ずへての民衆を、
どんなことがあっても
何がなんでも、
ぜがひでも、
どうしてでも、
絶対に、幸せにしたい!
絶対(ぜったい)に、必ず、してみせる!!!


その『思いそのもの』が、
南無妙法蓮華経であるとしたら、
南無妙法蓮華経は、
どんな人間が、どんな時に、
となえたとしても、
そのあらゆる状況(じょうきょう)、
あらゆる悩み、
あらゆる願いに、対応して、
その、すべての民衆の幸せを願う、
『仏の思い』が、
その人だけのために、
爆発(ばくはつ)していく!!!


だから、南無妙法蓮華経は、
どんな人の、
どんな悩みや、願いにも対応して、
その人を、幸せにしてくれる!


ぼくたちが、南無妙法蓮華経をとなえるとき、
その、『仏(ほとけ)の思い』は、
ぼくたちの生命の中を、かけめぐる!

そして、その時、その人にとって、
もっとも良(よ)い、最高の結果として、
あらわれてくる!!


それが、創価学会の人たちが、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
環境も悩みも、
望みも、希望する幸せも、
ひとりひとり、
ことごとく、違うにもかかわらず、
そのすべてに対応して、
その悩みや、問題を、解決し、
願いを、かなえ、
幸せになっていける理由の、
ヒントに、つながるかもしれない・・・。


南無妙法蓮華経は、
南無妙法蓮華経を、となえる、
その人の生命の中で、
仏(ほとけ)の思いとなって爆発(ばくはつ)してゆく。

だから、
どんな人の悩みも、解決でき、
どんな人の、夢や希望も、
かなえていける・・!

南無妙法蓮華経という、
『仏(ほとけ)の思い』は、
世界中のどんな人でも、
幸せと、勝利を、つかませてくれる!!!


それが、南無妙法蓮華経なのかもしれないと、
深(ふか)く、深く、
そして、強く、思った・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく74

2012-05-07 09:27:00 | 願い
ぼくの会社に、
やさしい、よく気のつく女性がいました。

自分が、旅行とかに行くと、
よく、みんなに、お土産(みやげ)とか、
買ってきてくれました。


いつだったか、
ある年の夏休みに、
八丈島に行ってきたということで、
また、お土産を、もらったんですが、
そのとき、もらったのは、
Tシャツで、
でかい字で、
「八丈流人」と、
プリントしてありました。

ちょっと、着るのに勇気がいるので、
いまだに、着たことがありません。

もう少し、普通に着れる
Tシャツを買ってきてくれれば、いいものを、
まあ、センスが良くないというか・・・
シャレがキツイというか・・・。
ともかく、いろいろと、
お土産を買ってきてくれたのは、
想い出にもなるし、
感謝しています・・。


あるとき、その彼女が、
また、どこかに行ったらしくて、
また、Tシャツのお土産を、いただきました。

こんどは、Tシャツに、


『ほっといて、ください!』


と、文字が印刷されていた。


せっかく、買ってきてくれたので、
一度、着てみましたが、
ぼくは、とても、
不機嫌(ふきげん)になりました・・・。

買ってきた本人は、
大変、喜んでおりましたが・・・・。


それ以来、着たことはないし、
今後も、着るとこはないでしょう・・・。


その時の体験から、
文字の書かれた服など、
着るものでない!
と実感(じっかん)しました。


なにか、自分に
『レッテル』が
貼(は)られてしまう気がするからです。


でも、考えてみれば、
ただ、布(ぬの)に、文字が、
書かれているだけのものです。

けれど、布に文字が、
書かれているだけなんだけれど、
そこには、思念(しねん)が生まれてしまう。

「私は、バカです」と書いた紙を、
服に貼(は)り付けて、歩いているだけで、
その人は、本当に、
バカのように、思われてくる。

かりに、その人が、
なんて書いてあるか、読めないにしても、
まわりの人たちは、
そのなことは、おかまいなしに、
バカだと、思ったりする。


ということは、
たかだか、
紙に、文字を書いただけでも、
その紙には、力(ちから)が発生する!
ということです。


紙に、文字を、書いただけで、
その紙には、
エネルギーが、発生(はっせい)する!
ということです。


小さな紙に、ちょっと精巧(せいこう)に、
一万円と、印刷しただけで、
その紙には、価値(かち)が生まれ、
貴重(きちょう)な存在になっていく。

本も、そうだ。
ただ、紙に、こまごまと、
文字が、印刷させているだけなのに、
ある人にとっては、
決して、捨(す)てることのできない、
貴重な宝物となり、
人生の指針(ししん)にもなる!

紙や布などに、何かが、
書かれた時から、
その紙には、エネルギーが生じ、
それは、人間の生命(せいめい)にも、
人間の人生にも、
大きな影響力(えいきょうりょく)を持ってくる!


不思議(ふしぎ)といえば、不思議だ。


これが、ある意味で、
宗教の原理(げんり)だと思う。


宗教というものは、
だいたい、ある対象(たいしょう)に対して、
手を合わせる。

「手を合わせる」というのは、
宗教的には、
その、手を合わせている対象に対して、

『私は、あなたに(祈る対象に)、
命を、ささげます!』

という、意味があり、
手を合わせると、
その意味通りの影響(えいきょう)を、
自分の生命に、
受けていくことになる。

あるものに、手をあわせると、
紙に書いた文字が、
人間の生命に、影響を与(あた)え、
人間の人生に、影響を、あたえるように、
宗教は、自分の生命と人生に、
影響を、与えていく。


これが、宗教の不思議なところであり、
また、こわい!ところでもある。


よく、正月とかに、初詣(はつもうで)で、
いろいろなところに行って、
手を合わせ、お祈りしたり、
また、観光で、いろいろな、お寺や神社に行き、
手を合わせ、お祈りをしたりするけれど、
その祈っている対象が、
どんなものか、真剣に考えたことが、
あるだろうか?

たとえば、自分が、文字の読み方を、
しらないとしても、
「わたしは、バカです」
という文字が書かれた服を着ていれば、
その人は、バカと、思われてしまい、
自分の人生に、
影響を及(およ)ぼしてくる。

それと、同じように、
たとえ、なんにも知らなくても、
初詣とか、観光で、
お祈りした対象が、
とんでもない化け物(ばけもの)や、
ゲテモノだったら、
自分の人生に、悪影響をもたらす。

仏法(ぶっぽう)的に言ったら、
お祈りした対象が、
間違(まちが)った教え、間違った宗教であった場合、
それは、自分の人生に悪影響を及(およ)ぼし、
不幸という結果として、
帰ってくる。


これが、宗教というものです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

仏法(ぶっぽう)、宗教を、
徹底的に解明(かいめい)した結果、
初詣や、観光でいく、お寺や寺院、神社の宗教、
あるいは、葬式仏教(そうしきぶっきょう)は、
すべて、間違った、
人を、不幸にする宗教であることが、
すでに、判明(はんめい)している。

だとしたら、そういうものに、
手を合わせ、お祈りしたら、
当然(とうぜん)、さまざまな形で、
自分の生命に、悪影響を及(およ)ぼし、
自分の人生に、いろいろな形で、
不幸という結果が、
出てきてしまう!


それが、宗教です。


それとは、正反対に、
祈る対象として、本当に正しいもの、
人を幸福にできる、
本当に正しい『ご本尊(ほんぞん)』に、
祈りを、ささげれば、
文字に書いた紙が、
人に、影響を与えるように、
自分の生命と、人生に、
幸福な影響を与えていく。

だから、祈る対象として、
ほんとうに正しいのなら、
人を、幸福にできる真実の『ご本尊』であるならば、
その、『ご本尊(ほんぞん)』には、
人を、幸せにする価値と、
エネルギーが、生じ、
良い意味で、
人間と、人生に、影響を及ぼすだけの、
価値とパワーが、生まれてくる。

たとえ、その『ご本尊』に、
なんと書いてあるか、わからなくても、
また、その意味が、わからなくても、
文字を知らない人が着ているTシャツと、
同じように、
影響力とパワーを持つ。

だから、そのご本尊に、祈ることによって、
その『幸福の影響力』は、
自分の生命に及(およ)び、
自分の人生に及び、
自分の生命と、自分の人生を、
現実に、
幸せに変えていってくれる。


これが、宗教の原理だと思う。


そして、その原理どうりに、
本当に、正しい真実の『ご本尊』を、
祈る対象として、祈り、
信仰の根本として、実践(じっせん)しているのが、
創価学会(そうかがっかい)です。

また、その原理が正しいからこそ、
あらゆる、
さまざまな悩みを解決でき、
夢や希望をかなえる大きな力となって、
人々を、
幸せにしてきているんだと思う。


だから、創価学会は、
世界192ヶ国に、広がっているんだと思う。


創価学会の二代会長である、
戸田城聖(とだじょうせい)先生が、

「ご本尊は、幸せ製造機(せいぞうき)だ!」

と、言っていた。


さきほどの原理から考えても、
それは、本当なんだと思う。

ただし、戸田先生は、
ご本尊は、幸せ製造機だけれど、
どれだけ、幸せになるかは、
こちらの信心(しんじん)しだいだとも、
言っている。

どんなに大きな鐘(かね)であっても、
爪楊枝(つまようじ)のような、
細く小さな棒(ぼう)で、たたいたら、
ちっちゃな音しか、出ない。

太く大きな棒で、たたけば、
大きな音がでる。

それは、
人間の道理(どうり)に、かなっている!

棚(たな)から、ボタモチなんてことは、
ないということだと思う。

ただし、逆に言えば、
創価学会が、信じ、実践している、
ご本尊に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる信仰には、
絶対に、無駄(むだ)がない!

やったら、やっただけ、
真剣になったら、なっただけ、
必ず、幸せという結果が、
帰ってくる!
ということです。


仏法(ぶっぽう)で説く、生命の原理は、
とても、細かく、
厳密(げんみつ)であるとともに、
決して、無駄がなく、
必ず、だれにとっても、
やったら、やっただけ、
同じ結果が、返ってくる。


それが、仏法の法則(ほうそく)であり、
生命の法則なんだと思う・・・・・。


だから、『ご本尊』は、
幸せ製造機だと、言えるんだと思う・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく55

2012-01-30 09:32:38 | 願い
英語で、「invoke」という言葉があります。

「invoke」は、発動(はつどう)する、行使(こうし)する、とか、
祈願する、祈る、という意味がある。

そのほか、「invoke」には、
「呼び出す」「召喚(しょうかん)する」などの意味もあり、
いわば、「invoke」は、
ロールプレイングゲームなどで、
魔法獣(まほうじゅう)を召喚するといったところだろうか・・。


「invoke」という言葉は、
キリスト教から来ていると思うけれど、
これは、なかなか、おもしろいと思った。

最初に言ったように、「invoke」には、
祈る、祈願(きがん)する、という意味がある。

ただし、このキリスト教から来ている
「invoke」という言葉の「祈る」「祈願する」は、
「invoke」の他の意味でもある、
「呼び出す」「召喚(しょうかん)する」
という意味からもわかるように、
自分の外にあるものを呼び出す。
自分の外にあるものを、もらい受(う)けるという
意味合いになってくると思う。


自分の中にはないものを、神様(かみさま)などから、
ほどこしてもらう!
というところだろうか・・・。


だから、キリスト教の「祈る」「祈願する」というのは、
自分には、幸せになる力(ちから)がないから、
自分とは、かけ離(はな)れた存在である神様に、
ひたすら、おすがりして、
ほどこしてもらう・・
といった意味合いが強くなってくる。


こういう自分には幸せになる力がないから、
自分の外から、
幸せになるための力(ちから)をもらう。

環境(かんきょう)や人や権力(けんりょく)など、
自分の外にあるものによって
幸せになろうという生き方のことを、

『外道(げどう)』

と言います。


だから、

環境がこうだから、幸せになれない。

あの人がこうだから、幸せになれない。

など、
幸せになれない理由を、
自分の外に並(なら)べ上げたりする生き方は、
『外道(げどう)』の生き方だと、
言えます。


さっきも言ったように、キリスト教は、
神(かみ)という自分とは、かけ離れた存在(そんざい)に、
幸せを祈ります。

自分には幸せになる力(ちから)がないから、
神におすがりすると、いうことです。

だから、キリスト教は、
『外道(げどう)』の宗教だと言えます。


ところが、
創価学会が実践(じっせん)している
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
仏法(ぶっぽう)は、違う!!

創価学会(そうかがっかい)の
南無妙法蓮華経の仏法では、

『自分自身が仏(ほとけ)なんだ!』

と説(と)く。


『あなたの中に、素晴らしくて最高の
仏(ほとけ)の生命が、あるんだよ!』


と説く。


『だから、自分の中から、
素晴らしくて偉大(いだい)な仏(ほとけ)の生命を引き出して、
幸せになっていくんだよ!』


と説く。


こういう生き方を、

『内道(ないどう)』

と言います。


だから、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、
『内道(ないどう)』の宗教だと言えます。


ここに、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法と、
その他の宗教との
決定的な違(ちが)いがあります。


神様や仏様など、
自分とは、かけ離れた存在に、
おすがりする、おすがり信仰(しんこう)・・。

ここには、はっきり言って、
希望はありません。

神や仏などを、
あがめれば、あがめるほど、
人間との距離(きょり)がどんどん、離(はな)れていく。

そして、人間は、
どんどん卑小(ひしょう)になり、
みじめな存在になっていく。

そして、精神的(せいしんてき)には、
神や仏など、
自分があがめるものの奴隷(どれい)のような
存在になってしまいます。


冷静(れいせい)に考えて、
このような状態で、
幸せになれるとは、思えません。


それが、日本にはびこる
葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、
神社信仰だと言うことも、できます。

また、はっきり言えば、
それらの葬式仏教や観光宗教、神社信仰は、
間違(まちが)った宗教であり、
間違っているがゆえに、
どんなに祈(いの)ったとしても、
逆(ぎゃく)に不幸になってしまいます。


それは、さまざまな形で、
不幸という結果が出てきてしまう・・
ということです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

「invoke」という言葉における、
「祈る」「祈願する」という意味は、
自分にないものを、外から呼び出す。

自分ではなく、
棚(たな)からぼた餅(もち)のように、
環境や人、外部の何かを呼び出して、
幸せになろうという
意味合いが強いと思います。


それに対して、創価学会における、
『祈る』という行為(こうい)は、違う!!!


創価学会における
『祈(いの)る』という行為は、
自分の中から、幸せになる力(ちから)を
呼(よ)び起こすんです!!


本来(ほんらい)、自分の中に、
必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
存在している!

その幸せになっていける仏(ほとけ)の生命を、
自分の中から呼び起(お)こし、
自分の中から、
強い強い生命力(せいめいりょく)を
湧(わ)き上がらせて、
幸せになっていくんです。

神様や仏さまに、おすがりするのではなく、
本来、自分の中にある無限(むげん)の力(ちから)を、
呼び起こしていく!


これが、創価学会での、
『祈る』という行為なんです・・・!


その内(うち)から溢(あふ)れる『祈り』の結果として、
自分の生命が輝(かがや)き、
蘇生(そせい)していく。

やがて、その蘇生した自分の生命の力によって、
さまざまな悩みを解決(かいけつ)し、
夢や希望をかなえて、
幸せになっていけるんです。

そして、蘇生(そせい)し輝いた自分の生命が、
まわりの環境や世界を照(て)らし、
環境や人、世界をも、
幸せに変えていくんです。


それが、創価学会の人たちの『祈り』です。


その自分の中から、
仏(ほとけ)の生命という
無限の可能性(かのうせい)と力(ちから)を、
湧(わ)き上がらせ、
自分の中から、悩みや問題を解決し、
自分の中から幸せを勝ち取っていけるのが、
創価学会の、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく5

2011-06-23 19:02:18 | 願い
前に、
創価学会(そうかがっかい)の会合で、 
幹部の人が、 
『祈(いの)れば、かなう!』
ということについて、 
話してくれたことが、あります。 

『祈れば、かなう!』
というと、 
そんなバカなこと、あるか!!って、思うけど、 
これは、
「あたりまえのこと」なんだそうです。

祈るということは、 
自分が、願いを、かなえたいと思っていることに、 
一念(いちねん/こころ)が、
定(さだ)まるということです。 

ようするに、祈ると、 
一念(いちねん/こころ)が、変わっていく。
一念が、願いを、かなえたいことに集中するので、
こころが、願いを、かなえるほうへ、 
かなえるほうへ、向いていく! 
自分の全生命が、願いをかなえる方向へ、 
方向へと、活動を、開始する。 
だから、結果として、 
祈りが、かなってくる!


これは、生命としての、 
あたりまえの道理(どうり)だという話しでした。

確かに、そうだ! 
世の中には、 
祈りを、バカにするような人間もいるけれど、 
それは、本当は、浅(あさ)はかなんだと、思う。 


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、 
言っていた。
 
「祈りは、人間にしか、できない。 
そして、祈りは、人間として、 
もっとも、尊(とうと)い、尊極(そんごく)の行動だ!」

・・と。 

科学だけでは、人間は、傲慢(ごうまん)になる。 
逆に、単なる、神や悪魔を恐れるような、 
なにかを、崇拝(すうはい)する祈りは、 
人を、愚(おろ)かにしてしまう。

また、神頼(かみだの)みのような、おすがり信仰も、
棚(たな)ぼた的な希望、
宝くじのような希望を持たせるだけで、
その人を幸せにすることは、できない。

逆に、おすがり信仰は、その人の中から、
弱き命(いのち)、
悪(あ)しき生命を引き出す結果となり、
その人を不幸にしてしまう。

そうではなく、
人間を、より、人間らしくするための祈り! 
人間を、もっともっと、 
強く、偉大(いだい)にしていくための祈り! 
そういう祈りが、必要なんだと思う。


おそらく、人間を、強く、偉大に、 
人間らしくしていくための『祈り』が、 
仏法(ぶっぽう)には、あるのだろう。 

だから、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえると、 
より、人間らしく、より、おおらかに、 
その人が持つ、個性と、人間性が、開花していく。 

だから、創価学会は、 
人材が、全世界で活躍(かつやく)し、 
世界192ヶ国に、 
広がっているんだと思う・・・。 


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく3

2011-06-12 20:23:19 | 願い
前に、電車の中で、 
友人と立ち話しをしていた時、 
聞いた話しなんだけれど、 
その友人は、頭が良くて、優秀な人なんだけど、 
その人の知り合いに、科学者の人がいて、 
その科学者が、 
『どうしたら、願いが、かなうか?』
について、 
研究しているそうです。

その科学者の研究によると、 
なんか、アタマの前に、
スクリーンみたいなものを浮(う)かべて、
自分の願いを映像化すると、 
願いが、かなうことが、
わかったそうです! 

でも、それで、その科学者が、
悩んでしまったそうです。 

それは、
それで、願いが、かなうとしたら、 
ひとりで、願いがかなうことは、ありえないので、 
人にしろ、世界にしろ、すべてが、 
どこかで、つながっていることになってしまう! 
もし、それを、認(みと)めてしまったら、 
それは、もう、科学ではなく、 
宗教になってしまう・・!

それで、深刻(しんこく)に悩んでいるそうです・・。 

別に、それで、願いがかなうんだったら、 
悩むことは、ないと思うんだけど、 
ぼくが思うに、アタマの前に、
スクリーンを、浮かべるなんて、
そうとう、訓練(くんれん)しないと、 
できそうもない。 

願いを、かなえる前に、
スクリーンを浮かべる段階で、
挫折(ざせつ)してしまいそうです・・・。

それだったら、ぼくは、創価学会員らしく、 
『祈りとして、かなわざるなし!』
と言われている、 
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法連華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえるほうが、ぜんぜん、いい!! 

(※ご本尊とは、創価学会が、 
南無妙法蓮華経をとなえ、祈る対象としている、 
文字で表現された曼荼羅(まんだら)の本尊で、 
仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、
自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、
その自分自身の生命に、
必ず、幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
そなわっていることを、あらわしたものが、
ご本尊(ほんぞん)です。)

それのほうが、てっとり早いし、 
ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえるということは、 
どんな人にでも、だれにでも、できる。 
しかも、そこには、生命の真髄(しんずい)と、 
核心的(かくしんてき)な法則があるので、 
本当に、その人の願いや祈りが、
かなっていく!! 

ここに、創価学会が実践(じっせん)する、 
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の
スゴサがあるんですが、 
行為(こうい)が、あまりにも単純で簡単なことなので、 
なかなか、人は信じることが、できない! 

偉大な法則(ほうそく)、偉大な宗教ほど、 
人や、能力を、選ばす、 
すべての人を、幸せにしていける!
ということです。 


だだし、南無妙法蓮華経が、
単純だということでは、ないです。 
南無妙法蓮華経が、
あまりにも、複雑でスゴイから、 
人は、理解できないし、
納得(なっとく)することが、できない! 

でも、信じて、南無妙法蓮華経をとなえれば、 
納得し、解決もする。 
それが、南無妙法蓮華経という
不思議な法則だと思う。 


ちなみに、祈りとして、かなわざるなし!
といっても、 
努力を、ともなわない無謀(むぼう)な願いは、
あんまり、 かなわないようです。 
にもかかわらず、 
真剣に、南無妙法蓮華経をとなえていくと、 
意思に反して、(自分の祈りとは違うのに・・)
幸せになっていくから、
不思議です・・・。


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戸田二代創価学会会長が、 
「科学が、仏法(ぶっぽう)に追いつくには、 
あと、200年かかる。」
と、言っていましたが、 
仏法の正しさが、だんだん、 
証明されてゆく時代が来たんだと思う! 


けれど、科学で、
仏法が証明されるのを待(ま)っていたら、
命が、いくつ、あっても足りないので、 
ぼくは、仏法を信じて、 
ご本尊に、南無妙法連華経を、 
となえることにしようと思う!! 


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・