先日、
創価学会の人が、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえると、
なぜ、涙を流したりするんだろう?
という話しを、したんですが、
もう少し、その話しを、
展開(てんかい)していきたいと思います。
それは、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
涙(なみだ)を流したりする人がいるとかいう、
現実の幸せとは、あまり、
関係ないことではなくて、
「創価学会(そうかがっかい)の人たちは、
なぜ?
南無妙法蓮華経を、となえると、
病気が治(なお)ったり、
経済苦を、解決できたり、
家庭不和(かていふわ)を、解決できたり、
すべての人が、
環境(かんきょう)も悩みも、
望みも、希望する幸せも、
ひとりひとり、
ことごとく、違(ちが)うにもかかわらず、
そのすべてに対応(たいおう)して、
その悩みや、問題を解決したり、
願いを、かなえたりできるんだろう?」
ということです。
南無妙法蓮華経が、
コンピューターのような、
ひとつの決まったプログラムであるならば、
それは、ぜったいに、
有り得(え)ないことです。
なぜならば、
プログラムであるならば、
ひとつの問題に対して、
ひとつの回答(かいとう)、
ひとつの結果(けっか)しか、
出しえないからです。
ところが、人間の悩み、希望は、
千差万別(せんさばんべつ)です。
千人いれば、
千個の悩(なや)み、希望がある。
ひとつのプログラムであるならば、
そのすべてに対応することは、
不可能(ふかのう)だからです。
だとしたら、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
なんなのか?
南無妙法蓮華経が、システムではない!としたら、
南無妙法蓮華経とは、なんなのか?
その答えが、
釈尊(しゃくそん/釈迦[しゃか]・ブッダ )の
法華経(ほけきょう)に、
隠(かく)されていると思う。
先日、話しましたが、
法華経の如来壽量品(にょらいじゅりょうほん)の、
第16の最後に
『毎自作是念(まいじさぜねん)
以何令衆生(いがりょうしゅじょう)
得入無上道(とくにゅうむじょうどう)
速成就佛身(そくじょうじゅうぶっしん)』
と、あります。
法華経(ほけきょう)は、
釈尊の仏法の真髄(しんずい)であり、
その中でも、もっとも大事なのが、
壽量品(じゅりょうほん)第十六です。
その最後の部分が、
先日も紹介した、
『毎自・・・・~・・・佛身』
で終わる、ご文です。
だいたい、どういう意味かというと、
『仏(ほとけ)は、いつも、思い願っている!
どうしたら、すべての衆生(民衆)を、
真実(しんじつ)の幸せへと、みちびき、
できるだけ速く、仏のような最高の幸せ、
人生における最高の勝利を、
つかませることが、できるだろうか!』
と、
先日、話した通りです。
仏(ほとけ)は、
すべての人間の真実の幸せを、
願っている。
ただ、ひたすら、
一秒も、かかさず、
民衆のことだけを、
民衆の幸せだけを、
永遠に思い、願っている!
その民衆を幸せに導(みちび)こうとする、
『思い』そのものが、
仏(ほとけ)の真髄(しんずい)であり、
法華経の真髄!
そうなると、テーマは、
いかにして、仏(ほとけ)は、
民衆を幸せに導こうとする、
『思い』を、実現(じつげん)するのか?
ということになります。
そして、その仏の『思い』を実現する、
釈尊の法華経に隠(かく)された秘宝(ひほう)が、
実は、
創価学会の人たちが、日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。
釈尊が伝(つた)えたかったのは、
この、『南無妙法蓮華経』なんです。
いわば、
仏(ほとけ)が民衆を幸せにしようとする
『思い』を実現する、
決定的方法であり、手段(しゅだん)が、
『南無妙法蓮華経』だと、
いうことです。
手段というと、
なにか申し訳(もうしわけ)ありませんが、
南無妙法蓮華経とは、
「仏(ほとけ)の生命(せいめい)」そのものを、
表現したものであり、
その、「仏の生命そのもの」の中に、
民衆の幸せを願う「思い」も、
民衆を幸せに導く「願い」も、
人々を幸せにするための方法も、
幸せにする無限(むげん)の力も、
法則(ほうそく)も、
すべて、含(ふく)まれているということです。
だから、
南無妙法蓮華経は、
仏(ほとけ)が、
民衆を幸せにするために残(のこ)した、
『伝家(でんか)の宝刀(ほうとう)』
だということです。
「どうして、願いが、かなうのか・・・?」
最初のテーマに戻(もど)ると、
『南無妙法蓮華経』は、
さきほど言ったように、
仏法(ぶっぽう)の真髄であり、
法華経の真髄です。
仏法の真髄(しんずい)であり、
法華経の真髄とは何か?
といったら、
それは、
「仏(ほとけ)の生命そのもの」のことなんです。
「仏の生命そのもの」の中に、
悩みを解決する力も、
夢をかなえる力も、
幸せになる無限の可能性(かのうせい)もある!!
ということです。
実(じつ)は、
『仏の生命そのもの』に、
幸せになる、最大の鍵(かぎ)がある!
そして、
仏の生命そのものが、何か?
といったら、
それが、
『南無妙法蓮華経』
なんです。
だから、
民衆を幸せに導こうとする、
『思い』そのものは、
「仏の生命」として凝縮(ぎょうしゅく)され、
その『仏の生命』を凝縮して、
パックしたものが、
『南無妙法蓮華経』だと、
表現できます。
「仏の生命」が、
仏(ほとけ)の思いを実現し、
人々を幸せにする力ならば、
「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」も、
仏の思いを実現し、
人々を幸せにする力だと、
いうことです。
だから、
『仏(ほとけ)の生命と仏の思い』は、
『南無妙法蓮華経』と別(べつ)のものではなく・・、
この2つは、まったく異(こと)ならない、
同一のもののはずです!!!
そう考えた時、
だとしたら・・・・
南無妙法蓮華経とは、
まぎれもなく、
『仏(ほとけ)の思いそのもの』では、
ないのだろうか?
それだったら、納得(なっとく)がいく!
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
南無妙法蓮華経が、
『すべての人の、すべての一人の幸せを願う、
仏(ほとけ)の思いそのもの!』
で、あるのなら、
南無妙法蓮華経は、
どんな人のどんな悩みにも、
願いにも、
対応できる。
病魔(びょうま)に苦しむ人に対しては、
南無妙法蓮華経の仏(ほとけ)の思いは、
町を破壊(はかい)つくす大怪獣(だいかいじゅう)のように、
荒れ狂い、
病魔をやっつけていく。
また、
家庭不和で苦しむ人に対しては、
南無妙法蓮華経の仏の思いは、
まるで、
少女が、恋人を思うように、
純粋(じゅんすい)に、清(きよ)らかに、
家族の心を、変えていく。
さまざまな経済苦(けいざいく)で
苦しむ人に対しては、
南無妙法蓮華経の仏(ほとけ)の思いは、
最高の知恵とアイデアとなって、
現れて、
現実の苦境(くきょう)を変えていく!
また、南無妙法蓮華経が、
仏の『民衆の幸せを願う、思いそのもの』
であるならば、
先日(せんじつ)、話したように、
ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえた時に、
涙を、ぼろぼろ、流すのも、
納得がいく!!!
すべての一人を、
ずへての民衆を、
どんなことがあっても
何がなんでも、
ぜがひでも、
どうしてでも、
絶対に、幸せにしたい!
絶対(ぜったい)に、必ず、してみせる!!!
その『思いそのもの』が、
南無妙法蓮華経であるとしたら、
南無妙法蓮華経は、
どんな人間が、どんな時に、
となえたとしても、
そのあらゆる状況(じょうきょう)、
あらゆる悩み、
あらゆる願いに、対応して、
その、すべての民衆の幸せを願う、
『仏の思い』が、
その人だけのために、
爆発(ばくはつ)していく!!!
だから、南無妙法蓮華経は、
どんな人の、
どんな悩みや、願いにも対応して、
その人を、幸せにしてくれる!
ぼくたちが、南無妙法蓮華経をとなえるとき、
その、『仏(ほとけ)の思い』は、
ぼくたちの生命の中を、かけめぐる!
そして、その時、その人にとって、
もっとも良(よ)い、最高の結果として、
あらわれてくる!!
それが、創価学会の人たちが、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
環境も悩みも、
望みも、希望する幸せも、
ひとりひとり、
ことごとく、違うにもかかわらず、
そのすべてに対応して、
その悩みや、問題を、解決し、
願いを、かなえ、
幸せになっていける理由の、
ヒントに、つながるかもしれない・・・。
南無妙法蓮華経は、
南無妙法蓮華経を、となえる、
その人の生命の中で、
仏(ほとけ)の思いとなって爆発(ばくはつ)してゆく。
だから、
どんな人の悩みも、解決でき、
どんな人の、夢や希望も、
かなえていける・・!
南無妙法蓮華経という、
『仏(ほとけ)の思い』は、
世界中のどんな人でも、
幸せと、勝利を、つかませてくれる!!!
それが、南無妙法蓮華経なのかもしれないと、
深(ふか)く、深く、
そして、強く、思った・・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・