タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく55

2012-01-30 09:32:38 | 願い
英語で、「invoke」という言葉があります。

「invoke」は、発動(はつどう)する、行使(こうし)する、とか、
祈願する、祈る、という意味がある。

そのほか、「invoke」には、
「呼び出す」「召喚(しょうかん)する」などの意味もあり、
いわば、「invoke」は、
ロールプレイングゲームなどで、
魔法獣(まほうじゅう)を召喚するといったところだろうか・・。


「invoke」という言葉は、
キリスト教から来ていると思うけれど、
これは、なかなか、おもしろいと思った。

最初に言ったように、「invoke」には、
祈る、祈願(きがん)する、という意味がある。

ただし、このキリスト教から来ている
「invoke」という言葉の「祈る」「祈願する」は、
「invoke」の他の意味でもある、
「呼び出す」「召喚(しょうかん)する」
という意味からもわかるように、
自分の外にあるものを呼び出す。
自分の外にあるものを、もらい受(う)けるという
意味合いになってくると思う。


自分の中にはないものを、神様(かみさま)などから、
ほどこしてもらう!
というところだろうか・・・。


だから、キリスト教の「祈る」「祈願する」というのは、
自分には、幸せになる力(ちから)がないから、
自分とは、かけ離(はな)れた存在である神様に、
ひたすら、おすがりして、
ほどこしてもらう・・
といった意味合いが強くなってくる。


こういう自分には幸せになる力がないから、
自分の外から、
幸せになるための力(ちから)をもらう。

環境(かんきょう)や人や権力(けんりょく)など、
自分の外にあるものによって
幸せになろうという生き方のことを、

『外道(げどう)』

と言います。


だから、

環境がこうだから、幸せになれない。

あの人がこうだから、幸せになれない。

など、
幸せになれない理由を、
自分の外に並(なら)べ上げたりする生き方は、
『外道(げどう)』の生き方だと、
言えます。


さっきも言ったように、キリスト教は、
神(かみ)という自分とは、かけ離れた存在(そんざい)に、
幸せを祈ります。

自分には幸せになる力(ちから)がないから、
神におすがりすると、いうことです。

だから、キリスト教は、
『外道(げどう)』の宗教だと言えます。


ところが、
創価学会が実践(じっせん)している
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
仏法(ぶっぽう)は、違う!!

創価学会(そうかがっかい)の
南無妙法蓮華経の仏法では、

『自分自身が仏(ほとけ)なんだ!』

と説(と)く。


『あなたの中に、素晴らしくて最高の
仏(ほとけ)の生命が、あるんだよ!』


と説く。


『だから、自分の中から、
素晴らしくて偉大(いだい)な仏(ほとけ)の生命を引き出して、
幸せになっていくんだよ!』


と説く。


こういう生き方を、

『内道(ないどう)』

と言います。


だから、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、
『内道(ないどう)』の宗教だと言えます。


ここに、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法と、
その他の宗教との
決定的な違(ちが)いがあります。


神様や仏様など、
自分とは、かけ離れた存在に、
おすがりする、おすがり信仰(しんこう)・・。

ここには、はっきり言って、
希望はありません。

神や仏などを、
あがめれば、あがめるほど、
人間との距離(きょり)がどんどん、離(はな)れていく。

そして、人間は、
どんどん卑小(ひしょう)になり、
みじめな存在になっていく。

そして、精神的(せいしんてき)には、
神や仏など、
自分があがめるものの奴隷(どれい)のような
存在になってしまいます。


冷静(れいせい)に考えて、
このような状態で、
幸せになれるとは、思えません。


それが、日本にはびこる
葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、
神社信仰だと言うことも、できます。

また、はっきり言えば、
それらの葬式仏教や観光宗教、神社信仰は、
間違(まちが)った宗教であり、
間違っているがゆえに、
どんなに祈(いの)ったとしても、
逆(ぎゃく)に不幸になってしまいます。


それは、さまざまな形で、
不幸という結果が出てきてしまう・・
ということです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

「invoke」という言葉における、
「祈る」「祈願する」という意味は、
自分にないものを、外から呼び出す。

自分ではなく、
棚(たな)からぼた餅(もち)のように、
環境や人、外部の何かを呼び出して、
幸せになろうという
意味合いが強いと思います。


それに対して、創価学会における、
『祈る』という行為(こうい)は、違う!!!


創価学会における
『祈(いの)る』という行為は、
自分の中から、幸せになる力(ちから)を
呼(よ)び起こすんです!!


本来(ほんらい)、自分の中に、
必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
存在している!

その幸せになっていける仏(ほとけ)の生命を、
自分の中から呼び起(お)こし、
自分の中から、
強い強い生命力(せいめいりょく)を
湧(わ)き上がらせて、
幸せになっていくんです。

神様や仏さまに、おすがりするのではなく、
本来、自分の中にある無限(むげん)の力(ちから)を、
呼び起こしていく!


これが、創価学会での、
『祈る』という行為なんです・・・!


その内(うち)から溢(あふ)れる『祈り』の結果として、
自分の生命が輝(かがや)き、
蘇生(そせい)していく。

やがて、その蘇生した自分の生命の力によって、
さまざまな悩みを解決(かいけつ)し、
夢や希望をかなえて、
幸せになっていけるんです。

そして、蘇生(そせい)し輝いた自分の生命が、
まわりの環境や世界を照(て)らし、
環境や人、世界をも、
幸せに変えていくんです。


それが、創価学会の人たちの『祈り』です。


その自分の中から、
仏(ほとけ)の生命という
無限の可能性(かのうせい)と力(ちから)を、
湧(わ)き上がらせ、
自分の中から、悩みや問題を解決し、
自分の中から幸せを勝ち取っていけるのが、
創価学会の、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく54

2012-01-25 09:25:33 | 悩み
まえに、自動車免許(めんきょ)を取りに、
教習所に行っていたとき、
適性検査(てきせいけんさ)みたいな、
心理(しんり)テストのような問題が出されて、
やったことがある。

その中で、


「いままでに、死にたいと思ったことがあるか?」


という問いに対して、
ぼくは、そんなこと言えるか!と思って、

『いいえ』

に、チェックを入れました。

そしたら、あとから、
先生に、

「人生に、一度や二度は、死にたいと思ったことは、
だれだって、ある!

だから、『いいえ』と答えた人は、
本心(ほんしん)を言わないで、
ウソを、ついている!」

と言われてしまった。


けれど、

「ごもっともだ!」

とも、
思った(笑・・・)


以前(いぜん)、テレビで、
若い小学校教諭(きょうゆ)が
自殺したという、
ニュースをやっていたのを
見たことがありました。

その若い教諭は、

「声が大きく、はつらつとした好青年で、
子供たちとも明るく接(せっ)していた。」

という。


そんな好青年(こうせいねん)が、
なぜ?
自殺したかは、
わからない。


専門家によれば、
突発性(とっぱつせい)うつ病の可能性が、
あるそうだ。

急(きゅう)に、モヤモヤとした、

「死にたい!」

という衝動(しょうどう)が、おそってくる。

そして、その衝動に、
あまりにも簡単(かんたん)に、
のってしまった!

ということだろうか。


さきほどの話しに戻(もど)りますが、
人間、生きていれば、
死にたいと思うようなことは、
一度や、二度は、あると思う。
(ぼくも、認めます・・・笑)

というか、人間は、
自分に苦難(くなん)が、おそってくると、
気軽(きがる)に、

「あ~~、死にたい」

と、愚痴(ぐち)を
もらすような生き物かもしれない。


そういう、マイナスの衝動(しょうどう)は、
生きている以上、何度となく、
おそってくるだろう。


ぼくなんか、ほんとうは・・・・
軽(かる)い、愚痴っぽい、
「あ~~、死にたい」という感情だったら、
100回以上は、
あったかも、しれない・・・・。


けれど、今は、
創価学会(そうかがっかい)に入っているので、
その時、まず、
考えることは、

『生きる!』

ということです。


どっちみち、生きなければならない!


マイナスの感情に、ひたっていて、
それで、問題が解決(かいけつ)し、幸せになれるのなら、
思う存分(ぞんぶん)、
マイナスの感情に、ひたっていればいい!


けれど、そんなことは、ありえない!


だとしたら、
マイナスの感情に、ひたっていることは、
単(たん)なる時間の無駄(むだ)になってしまう!


そこで、頭を切り替(か)える!

「落ち着くんだ!。くさってはいけない!
負けてはいけない!
自分を、取り戻(もど)すんだ!」

そして、心の中で、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえ始める。

そうすると、自分を見失(みうしな)った自分が、
我(われ)に返っていく。

そして、困難(こんなん)な状況を、
なんとか、乗り越(こ)えていくことが、
できてきました!

もちろん、その状況(じょうきょう)が、
困難であれば、あるほど、
南無妙法蓮華経を、となえる時間と、数は、
増(ふ)えていきます。

当然(とうぜん)の道理(どうり)です。

いっぺん、南無妙法蓮華経をとなえて、
すべてが、ぱっと開けるようなことは、
めったにない!

ただ、南無妙法蓮華経の力は、
はかり知れないので、
たった、いっぺん、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえただけで、
ぱっと開けたという例(れい)も、
あるようだ。


よく、創価学会の人に、

「何かあったら、南無妙法蓮華経を、
となえるんだよ!」

と言われ、
その時は、バカにして、
軽(かる)く流していても、
いざ、突発的事故や、病気、事件に
見舞(みま)われた時、
創価学会の人に言われたことを、思い出し、
思わず

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)!』

と、となえ、
それによって、
九死(きゅうし)に一生を得(え)たという体験を
持っている人は、
創価学会の人でなくても、
以外(いがい)と、いるようだ!



さきほどの、自殺した若い教諭が、
なぜ、急に死を選(えら)んでしまったのか?

死を招(まね)くようなマイナスの感情に、
急に、おそわれたとしたら、
自分の生命(せいめい)の中に、
マイナスの要素(ようそ)が、
何かの拍子(ひょうし)に、
インプットされてしまったのだろうか?

マイナスの要素が、インプットされたとすれば、
そのマイナスである不幸の要素を、
インプットした、
根本原因(こんぽんげんいん)が、
どこかに必ず、
あるはずた!

その不幸の根本原因を、
仏法(ぶっぽう)では、


『間違(まちが)った宗教』にある!


と、解明(かいめい)している。


生まれてきた以上、その人には、
必ず、先祖(せんぞ)がいる!

その先祖は、必ず、なんらかの、
宗教に、たずさわっている。

その宗教が、
間違った宗教である場合、
そのマイナスの要素は、
自分の生命にも、まあ、
ヘンな言い方をすれば、
引(ひ)き継(つ)がれ、きざまれていく!

世間一般に、
本当は、矛盾(むじゅん)だらけなのに、
広められている、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、
神社信仰などは、
マイナスの要因(よういん)を作り、
不幸の原因を作る、
マイナスの宗教と思って間違いない。

そして、なにかの拍子(ひょうし)に、
フッと、そのマイナスの要素が出てきて、
その人を、
不幸へと、
落とし入れる。


生命とは、不思議(ふしぎ)といえば、不思議ですが、
間違った宗教が、
人間におよぽす、
マイナスの影響力(えいきょうりょく)は、
大きい。

宗教なんか、関係ない!と、
笑っているような人でも、

「自分自身に、マイナス的要因、
マイナス的要素が、ある!」

と、思っている人は、
自分が、
間違った宗教の悪影響(あくえいきょう)を
受けていると思って、
間違いない!!
と思う。


実は、その人間の生命における、
マイナスの要因、マイナスの衝動、
決定的マイナスと言える病気や事故、事件など、
そのマイナスを、打ち破(やぶ)るために、
「真実の仏法(ぶっぽう)」である、
『南無妙法蓮華経』が、ある。


マイナスを、打ち破るために、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』


ぼくも、正直、
何かあったら、南無妙法蓮華経を、
となえる!ということを、
知っていなかったら、
おそらく、今、
生きていないだろう!と、
思うことが、本当(ほんとう)はある。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、

『南無妙法蓮華経は、獅子吼(ししく)のごとし。
いかなる病(やまい)、
さわりをなすべきや』

と、言っている。


南無妙法蓮華経は、
ライオンが、ほえるようなものだから、
南無妙法蓮華経を、となえたならば、
どんな病気であっても、
その人を、苦しめたり、
危害(きがい)を加(くわ)えることは、
できない!
というような意味です。


これは、病気に、かぎったことではない。


さきほども言ったマイナスの衝動、
マイナスの事件や事故!
そのマイナスを、木っ端微塵(こっぱみじん)に、
打ち破っていく力(ちから)が、
南無妙法蓮華経には、ある!
ということだと思う。


そう考えると、
創価学会員であるということ。
南無妙法蓮華経を、となえられる!ということ。
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ということを、
知ってる!ということが、
どれだけ、幸せか・・!!

長い人生を、思うと、
計(はか)り知れないものがある!と、
こころから、思える・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく53

2012-01-19 09:09:30 | 幸せ

『突破口(とっぱこう)を開け!
 
大誠実の力で!
 
わが一生に燦(さん)たる

「何か」を残せ!』


これは、まえに聖教(せいきょう)新聞の、
「わが友に贈(おく)る」にあった文章です。

わが友に贈るは、
創価学会(そうかがっかい)インターナショナル会長の
池田先生が、
毎日、聖教新聞に、のせてくれている、
4、5行の短いメッセージです。


自分が、ピンときたのは、
最後の

「何かを、残せ!」

と、いうところです。


具体的内容のことを残(のこ)せではなく、
『何か』!

「何か」だったら、
すべての人が、自分に当(あ)てはめることが、
できる!


ものすごく、
柔軟性(じゅうなんせい)のある言葉だと思った。


すべての人が勝利するためにあるのが、
仏法(ぶっぽう)。

すべての人の現実の生活に、
完全にマッチして、
その人らしい、その人だけの幸せを、
つかませてくれるのが、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法!


ここに仏法(ぶっぽう)のスゴサがあるように、
思えた。


それで、思い出したけれど、
創価学会の人が、毎日、祈(いの)っている、
祈る対象(たいしょう)である

『ご本尊(ほんぞん)』

も、そうだと思った。


ご本尊は、仏(ほとけ)の生命そのものを、
表現しきったものなんだけれど、
この、ご本尊は、
文字で表現されている。

真ん中に「南無妙法蓮華経」と、
仏の生命の根本(こんぽん)の言葉が書かれていて、
そのまわりに、
一切衆生(いっさいしゅじょう)のなかにある、
単純に分けると、
十種類の生命状態(せいめいじょうたい)が、
書き表(あらわ)されている。

その十種類の生命状態を、
ちょっと、説明すると、

●地獄界(じごくかい)
地獄のような生命状態

●餓鬼界(がきかい)
欲望に、とらわれた、
本能的(ほんのうてき)な生命状態

●畜生界(ちくしょうかい)
強い時は、いばり、
弱い時は、卑屈(ひくつ)になるような
畜生(ちくしょう/ けもの)の生命状態

●修羅界(しゅらかい)
争(あらそ)い怒る、
たえず、他より、
まさっていたいと思う生命状態

●人界(にんかい)
人間の平静な生命状態

●天界(てんかい)
何か、とっても、うれしいことがあり、
天にも昇(のぼ)るような、
うれしく、幸せな生命状態

●声聞界(しょうもんかい)
何かを勉強して自分を向上(こうじょう)させ、
何かを、きわめようとする生命状態

●縁覚界(えんがくかい)
自分自身で学ぶというより、
何かのヒントや、インスピレーションによって、
何かの真理(しんり)やアイデアを生み出し、
悟(さと)ろうとする、
ヒラメキのような生命状態

●菩薩界(ぼさつかい)
子供を見れば、かわいく、いとおしく思い、
おぼれている猫などを見ると、
助けてあげたいと思う、
やさしくて、他のために行動するような、
あたたかく、慈悲(じひ)深い生命状態

●仏界(ぶっかい)
強くて、あったかくて、やさしくて、
歓喜(かんき)していて、幸せで、
どんなことにも負けない、
すべてに打ち勝つことのできるような、
無限の可能性を秘(ひ)めた、
仏(ほとけ)のような最強の生命状態

※この、最後の、
『仏界(ぶっかい)の生命』だけは、
南無妙法蓮華経を、となえないと
人間の生命から、わきあがってきません!!


実は、この、
『仏界の生命』が、キーワードになっていて、
その仏界の生命の名前を、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
と、いいます。

すなわち、幸せになる生命、
幸せをつかむ生命が、『仏界の生命』で、
幸せをつかむ生命の名前であり力(ちから)であり、
法則(ほうそく)が、
『南無妙法蓮華経』だということです。


幸せになるためには、
幸せを引き出す必要(ひつよう)があり、
幸せを呼(よ)ぶ必要がある!

もっと言うと、
幸せの名前を呼ぶ必要がある!!

だから、幸せの名前である、
『南無妙法蓮華経を、となえる』必要がある!!
ということです。


さきほど話したように、
人間の生命の中には、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏、
という、
単純(たんじゅん)に言うと、
十種類の生命が、
すべて、ふくまれていて、
その生命が、何かの縁(えん)によって、
自分の中から出てきて、
その人の、その時の、
生命状態や心理状態となって、
あらわれてきます。


実は、創価学会の人たちが祈っている、
『ご本尊(ほんぞん)』は、
その、どういう生命状態の人の中にも、
南無妙法蓮華経という、
仏(ほとけ)の生命が、そなわっている!
ということを、表現しています。

たとえば、今、
地獄界(じごくかい)の生命状態にあったとしても、
幸せになる生命、幸せをつかむ生命が、
本来(ほんらい)、そなわっているので、
幸せの生命を引き出せば、
幸せになっていけるわけです。

今、餓鬼界(がきかい)の生命状態にあったとしても、
幸せの生命を引き出せば、
幸せになっていけるんです。

畜生界(ちくしょうかい)であろうと、
修羅界(しゅらかい)の生命状態であろうと、
同じです。
同じように、幸せの生命を持っているので、
幸せの生命を引き出せば、
幸せになっていけるんです。

その幸せの生命の名前が、
「南無妙法蓮華経」であり、

幸せの生命を引き出す方法が、
「南無妙法蓮華経を、となえる」
ということです。


仮(かり)に、今、
人界(にんかい)の平静な生命状態にあるから、
幸せの生命を引き出す必要がないかといえば、
そんなことはなく、
幸せの生命を引き出すことによって、
もっと充実した、もっと素晴らしい幸せを、
つかんでいける!!
ということです。

天界(てんかい)の、
天にも昇(のぼ)るような生命状態であったとしても、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
浮(う)かれすぎて、落とし穴(あな)に落ちないように、
堅実(けんじつ)で、もっと盤石(ばんじゃく)な幸せを、
つかんでいける!
ということです。


今の生命状態が、
声聞界(しょうもんかい)の
何かを勉強して自分を向上させる生命状態だったとしたら、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
今は勉強で苦しいけれど、
その苦しさに負けない、
強い強い、幸せな生命状態になっていけるんです。

縁覚界(えんがくかい)の生命状態で、
何かのヒントや、インスピレーションを求め、
アイデアを生み出だそうとする生命状態であったならば、
南無妙法蓮華経は、
無限の創造力(そうぞうりょく)を引き出して、
アイデアを生み出し、
幸せをつかんでいけるようになっていきます。

菩薩界(ぼさつかい)の、
他のために行動するような、
あたたかい生命状態であったならば、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
幸せの生命を引き出し、
自分の行動と心を輝(かがや)かせ、
自分の幸せも、人の幸せも、
もっともっと、輝かせていけるようになっていきます。


だから、今、現在、
どんな環境(かんきょう)、どんな境遇(きょうぐう)の人であっても、
「仏の生命」が、そなわっているから、
その最強で、最(もっと)も幸せな「仏(ほとけ)の生命」を、
出すことができれば、
どんな人であっても、幸せになっていける!!
ということです。

その原理(げんり)と方法を、
だれにでも、
簡単(かんたん)にできるように表現されているのが、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が書き残された、

『ご本尊(ほんぞん)』

なんです。


だから、『ご本尊』は、
すべての人に合(あ)っていて、
すべての人にマッチしている。


ようするに、すべての人の願いや幸せを、
かなえる力(ちから)が、ある!
ということです。

これが、もし、『ご本尊』が、
仏像(ぶつぞう)や絵で表現されていたら、
仏(ほとけ)は、たった、ひとつの形に
とらわれてしまい、
自分と適合(てきごう)することは、
ありません!

自分とは、かけはなれた仏(ほとけ)に、
おすがりする、「おすがり信仰」に、なってしまう。


それでは、人を愚(おろ)かにする、
間違(まちが)った宗教になってしまう。


文字で表現された『ご本尊』という、
具現化(ぐげんか)と、抽象化(ちゅうしょうか)の、
絶妙(ぜつみょう)なバランス感覚!

このなかに、
人間の生命を、みごとに!表現したところに、
『ご本尊』のスゴサがあるように、
思う。


だから、ご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
ひとつの型(かた)に、はまった幸せではなく、
その人でしかできない、
その人だけの幸せ、
その人に完全に適合(てきごう)しきった、
その人にとっての、

『何か!』

を、実現することが、
できるようになっていきます。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

単純に言うと、
人間の生命には、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・
天・声聞・縁覚・菩薩・仏、の、
十種類の生命状態が、ある。

仏法(ぶっぽう)では、その十種類の、
どんな生命状態の中にも、
同じように、幸せを開くことのできる、
最高に魅力的(みりょくてき)で、最高に強い、
仏の生命が、存在すると説きます。


その幸せを開くことのできる、
最強の生命が、
『南無妙法蓮華経』
だということです。


それは、
『南無妙法蓮華経』という、
幸せを開くことのできる最強の生命が、
すべての人間の中に、
無条件(むじょうけん)に存在(そんざい)する!
ことを意味します。

だから、今、
どんな生命状態の人でも、
南無妙法蓮華経という、
最も幸せで、最も強い、
仏(ほとけ)の生命が、
自分の中に存在するんだから、
自分の中から、
その『南無妙法蓮華経の生命』を、引き出せば、
だれでも、どんな人でも、
幸せになることができるわけです。

その仏(ほとけ)の生命を、
自分の中から引き出す方法が、

『南無妙法蓮華を、となえる!』

ということなんです!


その仏法における法則(ほうそく)と、
現実における実践方法を、
純粋(じゅんすい)に、的確(てきかく)に、
実践(じっせん)しているから、
創価学会は、世界192ヶ国に広がり、
世界中の創価学会員の人たちが、
夢や希望を、かなえ、
現実に幸せを、つかむことができたんです。


最後に、かさねて言うようだけれど、
この最高に幸せで、最高に強い仏(ほとけ)の生命は、
『南無妙法蓮華経』を、となえないと、
出てこない!!

だから、本当の意味での幸せを、つかむには、
ご本尊に、
この『南無妙法蓮華経』を、となえる以外ない!
ということだけは、
言っておきたいと思います・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく52

2012-01-14 15:52:22 | 世界
創価学会(そうかがっかい)インターナショナル会長である、
池田先生が、

なぜ?

世界の一流の識者(しきしゃ)たちと
友好(ゆうこう)の和を広げ、
世界中に、
創価学会の理解者、支援者(しえんしゃ)の和を広げ、
世界192ヶ国に、
創価学会を、
広めることが、できたのか?


それは、池田先生が、
ひとりの人間を、
他のだれよりも、大切にしたからだ!そうです。



池田先生は、1974年9月8日、
創価大学の創立者(そうりつしゃ)として、
初めてソ連の大地を踏(ふ)んだ。

出迎(でむか)えたのは、招へい元(しょうへいもと)である
モスクワ大学のホフロフ総長。

この初訪ソは、モスクワ大学の招(まね)きに
よるものだったそうです。

池田先生が、モスクワの空港に到着(とうちゃく)すると、
真っ先(まっさき)に出迎えてくれたのが、
モスクワ大学のホフロフ総長(そうちょう)だったそうです。

ホフロフ総長は、著名(ちょめい)な放射線物理学者で、
とても不思議(ふしぎ)な
人格の魅力(みりょく)にあふれた方だった。

そして、池田先生と、ホフロフ総長は、
強い強い、友情のきずなを、結(むす)ぶ。


1977年、ホフロフ総長は、
登山中の不慮(ふりょ)の事故で亡(な)くなられました。

ソ連では、亡くなった人のために、
知人が、墓参(はかまい)りに行ったり、
亡くなった人の友人が、
その亡くなった人の家族のところに行って、
親交と友情を結ぶような習慣(しゅうかん)は、
決して、ないそうです。

けれど、池田先生は、あえて、
亡くなられたホフロフ総長の墓前(ぼぜん)に行き、
心からの祈りを、ささげ、
また、ホフロフ総長の家族のところに、おもむき、
ホフロフ総長の2人の息子を、
心から、励(はげ)まして、
親交(しんこう)を結んだそうです。

それ以来、
池田先生と、故ホフロフ総長の家族との親交は続き、
故ホフロフ総長の息子たちは、
日本と言えば、創価学会!
日本と言えば、池田先生!と、
断言(だんげん)するようになったそうです。


池田先生が、どれだけ、
一人の人間を大切にしているか・・・。


正直(しょうじき)、ぼくにも、わからない・・。


だから、池田先生の話しを、
そのまま、
のせたい・・。

『当時、日本において、
ソ連に対するイメージは決してよくなかった。
社会主義陣営と西側諸国の間の
壁(かべ)を象徴(しょうちょう)する、
"鉄のカーテン"という言葉もあった。
マスコミの影響(えいきょう)も大きかった。

しかし、ホフロフ氏の人柄(ひとがら)には、
そうした懸念(けねん)を
一掃(いっそう)する力があった。

出会う人の心を、がらりと変えてしまう力があった。


思えば、モスクワのホテルで出会った
従業員(じゅうぎょういん)の一婦人との、
心温(こころあたた)まる交流も忘れられない。


人の心には、
さまざまな先入観(せんにゅうかん)や偏見(へんけん)がある。

それらが、正しい理解や認識(にんしき)を
妨(さまた)げている場合が、
あまりにも多い。


そうした"心のカベ"を破(やぶ)るものは何か。


それは、温(あたた)かな人間性であり、
開かれた対話であり、
どこまでも誠実(せいじつ)な振る舞い(ふるまい)である。』


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

前に、聞いた話しだけれど、
池田先生は、まるで、

『激励(げきれい)マシーン』

のような人だそうです。

人がいると、その人を、
励まさずには、いられない!
どんなに自分が、疲(つか)れていても、
体調が悪くても、
人がいると、励まさずにはいられない!

励まして、励まして、励ましぬく。


日本では、池田先生を、
まるで、教祖(きょうそ)のように考えている人が、
いるようだけれど、
ぜんぜん、違(ちが)う!!

教祖は、信者から見ると、
あがめる対象(たいしょう)であり、
「教祖さま~~~!」といって、
まつりあげる。

だから、教祖は、信徒(しんと)を、人間ではなく、
奴隷(どれい)にしてしまう。

池田先生は、逆(ぎゃく)だ!

人間を人間として、
まるで仏(ほとけ)のように尊敬し、
励まして、励まして、励ましぬく。

だから、池田先生に会った人は、
励まされ、自信が、わいてきて、
勇気がわいてきて、
人間としての尊厳(そんげん)に、
目覚(めざ)めていく!


人間が、人間を、引っ張(ひっぱ)っていく。


池田先生という人間を見て、
ぼくも、私も、ああ、なれるんだ!
なっていくんだ!と、
勇気と希望を持って、
人生に挑戦し、前進していける!


それが、池田先生という、存在(そんざい)だと思う。


その池田先生を、
世界の一流の人物たちは、
鋭(するど)く、見抜(みぬ)いている!

だから別に、創価学会員でなくても、
池田先生の行動と思想に注目(ちゅうもく)し、
池田先生を人生の師匠(ししょう)と
あおいでいる人たちが、
世界には、たくさん、いる。


まして、ぼくたち創価学会員にとっては、
池田先生は、人生の師匠!!


仏法(ぶっぽう)においては、
『師匠(ししょう)』は、
人生を、人間として生きていくうえで、
とても大切で、とても深く、
とても峻厳(しゅんげん)な
意味があるのだと思います。

『師匠』の中には、
人間性、哲学(てつがく)や思想、
希望と勇気と幸せ、

それらのものが、集約(しゅうやく)されているように
思われる。

けれど、それを説明するのは、
難(むずか)しい・・・。


たとえば、
『ナビゲーター』がいるとする。

まったく知らない道であっても、
素晴らしいナビゲーターがいると、
安心して、その道を進んでいける!


けれど、そのナビゲーターは、
それだけではない・・。


希望と勇気を、与(あた)えてくれる。
幸せの方途(ほうと)を示(しめ)してくれる。
もっと言えば、
自分で幸せの道を歩む力(ちから)を与えてくれる。
チャンスをつかむ方法も、
人生を勝利する方法も・・・!!


そんな信頼(しんらい)すべき、
幸せと希望に満(み)ちた存在が、
『師匠』なのかもしれない。



まったく、何が起こるかわからない
人生という道、

どんな苦難(くなん)が襲(おそ)ってくるかも、わからない。

また、乗り越(こ)えていけるかも、わからない。


その最も困難(こんなん)な人生という道を、
安心して、進んでいけるようにしてくれるのが、
「師匠」だとしたら、
池田先生は、人生において、
希望と、勇気と、幸せを、
自分の行動と、励(はげ)ましによって、
絶えず、人々に送り続ける、
世界最高の『師匠(ししょう)』なんだと、
心から思う・・・・・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく51

2012-01-10 09:20:54 | テレビ
以前、テレビで、
家族5人を殺害した男性の
プロファイルを、やっていたのを
見たことがありました。

その男性は、
近所の人たちに聞くと、
だれもが、すごく、良い人だったと、
口をそろえたように言っている。


いつも、にこにこしていて、
やさしかったと・・・・。


けれど、大変な惨事(さんじ)を、起こしている。


よく、犯罪者と、
周(まわ)りの人たちから見た感じ方に、
大きなギャップがあるときが、
ある。

その男性は、いつか、
母親を殺してやろうと思っていたと、
供述(きょうじゅつ)していたようです。


人間の心の闇(やみ)は、わからない。
また、はたから見て、
とても良い人であっても、
どうして、そんな惨事(さんじ)を、
起こしてしまうのか?

それも、わからない。


人間の心理(しんり)、
人間の行動、
人間の中にある闇(やみ)、

どんなに科学が発達しても、
人間の心を、解明(かいめい)することは、
できないのだろうか?


仏法(ぶっぽう)では、
そういう、どうにもならないような、
その人の持っている宿命(しゅくめい)のようなものを、

「宿業(しゅくごう)」

という。

その人の生命に宿(やど)っている業(ごう/宿命)。

その人の深層心理(しんそうしんり)のなかに、
どうして、そんな人も自分も、
不幸にするような心理が、
宿(やど)っているのか?

考えれば考えるほど、わからない!


仏法では、
その宿業(しゅくごう)とも言える、
深層心理にまで、言明(げんめい)している。


なぜ?
人間は、不幸になる心を宿(やど)し、
不幸になる行動を、してしまうのか?


その原因を、仏法(ぶっぽう)は、

『間違(まちが)った宗教にある!』

と、明確に言い切っている!


人は、だれでも、生まれたからには、
先祖(せんぞ)があり、
その先祖を、たどっていくと、
必ず、なんらかの宗教に、かかわっている。

その宗教が、
間違った宗教である場合、
自分には、関係ないと思っていても、
あるとき、間違った宗教は、
その宗教が、
間違った、
人を不幸にする宗教であるがゆえに、
不幸な考え方、不幸な行動として、
深層心理の中から、
必ず、出てくる時がある!

たとえば、
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
と、となえる、
念仏(ねんぶつ)宗(浄土宗、浄土真宗)。

この念仏宗は、
この世では、幸せになれないから、
極楽浄土(ごくらくじょうど)という、
あの世で、幸せになろうという、
完全な現実逃避(げんじつとうひ)の宗教です。

だから、念仏宗の家系(かけい)では、
何かあると、すぐ現実逃避してしまい、
また、死にたくなってきます。

そして、実際(じっさい)に自殺者が、多く出ます。

だいたい、自殺する人は、
その人の家系が、念仏宗で、
その人の深層心理では、
この念仏宗が、
悪影響(あくえいきょう)を、およぼしていることが、
多いと思う。

そして、念仏宗は、
『念仏無限地獄(ねんぶつむげんじごく)』
と言って、
ちょっと良くなったと思ったら、ドーンと落ちて、
また、ちょっと良くなったと思ったら、
ドーンと落ちることの連続で、
まさに、
地獄(じごく)のような人生になっていきます。


宗教というものは、気づかないようでいて、
ほんとうは、すごく、こわい。


間違った宗教は、
宿業(しゅくごう)となって、
病気にしろ、事件にしろ、
さまざまな不幸を、呼び起こす。

だから、宗教なんて関係ないと、
バカにしていても、
深層心理の根源(こんげん)の部分では、
宗教は、自分の人生に、
大きな影響(えいきょう)を、およぼしている。


それが、間違った宗教の、
恐(こわ)いところです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

この間違った宗教の、
悪(あ)しき影響を断(た)ち切る方法は、
ひとつしかない!


それは、本当(ほんとう)の正しい宗教に、つくことです!


はっきり、言うと、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
真実の仏法(ぶっぽう)である、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
の仏法を、実践すること。

それしかない!

性急(せいきゅう)なようだけれど、
これだけは、本当に、
それしかない。

そのことを、明確に見極(みきわ)め、
正しい仏法を実践(じっせん)してきたから、
創価学会の人たちは、
さまざまな不幸や悩みを、
逆転して、
幸せになっていけたんだと思う。

それは、
創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰(しんこう)によって、
宿業とも言える悪しき宗教の鉄鎖(てっさ)を、
打ち破(やぶ)ってきたということです。

病気など健康上の問題にしても、
貧乏(びんぼう)など、経済的な悩みにしても、
その悩みが、どんな悩みであれ、
創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰によって、
それらを乗り越え、解決して、
幸せになっていったということです。


創価学会の南無妙法蓮華経の仏法は、
太陽のようなものなんです。

太陽が昇(のぼ)れば、
草木についた小さなつゆや水滴(すいてき)は、
あっというまに、消え去(さ)ってしまう。

それと同じように、
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を
実践していくことによって、
どんな宿業(しゅくごう)であっても消し去り、
幸せを、つかんでいくことが、
できるんです。


バカにする人は、
バカにすると思うけれど、
別に、バカにしても、しょうがない。

これは、本当のことだからだです!


本当は、宗教は、
人の幸、不幸を決める、
決定的な部分を、しめている!!


それは、実際に、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の、
真実の仏法(ぶっぽう)を、実践してみないと、
わからないかもしれない・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・