タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく125

2013-06-05 07:19:10 | テレビ
まえに、テレビで、
「愛国心」ということを、テーマに、
右翼団体(うよくだんたい)に走る若者の、
特集みたいなことを、
やっていたのを見たことがあります。

右翼団体というと、
わけのわからない大きな文字が描かれた、
宣伝車で、
バカでかい音量で、
宣伝(せんでん)を、がなりたてる、
本当に、迷惑(めいわく)きわまりない存在としか、
ぼくには、思えませんが、
そんな、右翼団体に、
熱中する若者も、いるようだ。

思想の正邪(せいじゃ)は、さておき、
なにかの信念を持って、
生きる生き方に、
魅力(みりょく)を感じるのかもしれない。

右翼に傾倒(けいとう)する若者は、
一般的な生活の中にはない、
情熱を、かたむける対象(たいしょう)が、
ほしいのかもしれない。

ただ、その右翼活動を、やって、
幸せになれるか?といったら、
100%、なれないだろう。
それだけの思想も、哲学(てつがく)も、
現実性も、右翼活動の中には、
まず、ありえない。

だいたいにおいて、
「愛国心」を、
民衆に強要(きょうよう)するのは、
間違っていると思う。
それは、「愛国心」ではない。
単なる狂信的(きょうしんてき)な、
過激な人間を、きずくだけだ!

「愛国心」とは、ほんとうは、
逆(ぎゃく)だと思う。
民衆が、国を愛するのではなく、
『国が、民衆を、愛すること!!』

それが、本当の「愛国心」だと思う。

国が、民衆を、愛して、愛して、愛しぬく!
国が、民衆のために、
奉仕(ほうし)して、奉仕して、奉仕しぬく!
国が、国家の本当の王である、
民衆の僕(しもべ)となって、
ボロ雑巾(ぞうきん)のようになって、
働き、奉仕(ほうし)していく。
それが、本当の愛国心だと、思う。

また、そうなった時、
民衆は、国に感謝し、
愛国心を、抱(いだ)くようになるのでは、
ないだろうか?

そうでなかったら、
「愛国心」という言葉は、
国が、民衆を利用するための、
道具でしか、なくなってしまう。

国の王は、民衆だ!
だとしたら、愛国心とは、
民衆を、だれよりも、
最大に、愛することだからです。


国という漢字は、
「口」の中に、「玉(おう)」を、書いて、
「くに」と、読ませている。
ようするに、国の中心は、
王だと、いうのだ!
国は、王のためにある。
王を、栄(さか)えさせるために、国はあり、
民衆は、王の下僕(げぼく)となって、
王に、つかえなければならない。

これが、国という漢字の、
一般的な考え方だと、言える。

けれど、それは、間違(まちが)っている!
と言って、
「口」の中に、「民(たみ)」と書いて、
(口+民)で、『くに』と、
読ませた人間が、いる!!

それが、
『日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)』です。

ここには、日蓮大聖人の、
民衆を愛する、思想と、
民衆根本の深い哲学(てつがく)が、
にじみ出ていると、思う。
「かっこいい!」と思う。

日蓮大聖人の信仰の根本は、何なのか?
日蓮大聖人の哲学(てつがく)の根本は、何なのか?
それは、民衆を、幸せにすることだ!
民衆を国の王と、することだ!

そのために、真実の仏法(ぶっぽう)である、
南無妙法蓮華経の法門(ほうもん)を、
国家権力のためではなく、
すべての、名も無き庶民のために、
すべての、けなげなる民衆のために、
残された。

そのために、命に及(およ)ぶ大難に、
なんども、遭(あ)いながらも、
国家権力を、日本中の人間を、
敵(てき)に回しながらも、
ただ、ただ、
一人の人間を、幸福にし、
救(すく)いきることのできる、
すなわち、民衆を、
幸福の王者とすることのできる、
真実の仏法(ぶっぽう)である、
『南無妙法蓮華経』を、広められた!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

日蓮大聖人は、
「口」の中に、「民(たみ)」と書いて、
「くに」と読ませた。

小さなことのようだけれども、
この人間としての姿勢(しせい)から見ても、
日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の仏法が、
何のために、存在しているのかを、
明確に、物語っているような気がする。

日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法は、
一人の人間を、
人間の王者に、変える!
すなわち、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
人間の中にある、
最高の生命、
人間の中にある、最も尊(とうと)い、
『王者』の生命を、引き出すことが、できる!

南無妙法蓮華経を、となえることは、
その人の生命の中にある、
最高の強さ、最高の魅力、最高の知恵を、
湧(わ)き上がらせ、引き出すことになり、
その人を、
人間の王者として、輝(かがや)かせてくれる。

当然、それは、
必ず、現実の結果を、ともない、
その人に、勝利と幸せを、もたらす。

悩みを解決し、乗り越(こ)えていく王者に!
夢や希望を必ず、つかんでいける王者に!
人々を幸福にしていける、人間性の王者に!
生きることに、最高の充実(じゅうじつ)をもたらす、
生活の王者に!
どんな時でも明るい太陽のような、
笑顔の王者に!
生きることに、最高の喜びを感じる、
歓喜(かんき)の王者に!
世界に平和と幸せをもたらしていける、
幸福の王者に!

そして、人生に勝っていく、
勝利の王者に!!


それが、南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。


そして、その日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法を、
純粋無二に、継承(けいしょう)し、実践しているのが、
創価学会です。

日蓮大聖人の、
民衆を強く、賢(かしこ)く、幸せにする、
南無妙法蓮華経の仏法の哲学は、
創価学会に、受け継(つ)がれ、
創価学会は、世界192ヶ国に広がり、
世界中の民衆を、
賢(かしこ)く、強く、魅力的にし、
世界中の民衆に、
勝利と幸せを、もたらしている。


それは、あたかも、
「口」の中に「民(たみ)」と書いて、
「くに」と読ませたように、
ひとりの人間を、
苦しみの鎖(くさり)から解(と)き放(はな)ち、
運命の支配(しはい)を打ち破る、
『人生の王者』、
『人間の王者』、
『幸福の王者』へと
輝かせている・・・・・・!


まさに、それは、
勇敢(ゆうかん)な一国の王のように・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく109

2013-01-15 07:27:54 | テレビ
まえに、テレビで、
自爆(じばく)テロを繰(く)り返す、
過激教団の聖地に、
自爆テロによって命を捨てた人たちの写真が、
聖者のように、神々のように、
飾(かざ)られているのを、
見たことがあります。

自爆テロによって命を捨てた人たちは、
その過激(かげき)教団からしたら、
確かに聖者なのだろう・・・。

けれど、これは、
どう考えても、おかしいし、
常人(じょうにん)の認められるところでは、ないだろう・・。

大切な大切な生命。
その大切な生命を、自爆テロによって、
多くの生命を殺し、
自分の生命までも、殺してしまう!!

こんなひどいことが、あって良いわけがない。
家族を亡くした遺族が、
家族の死を、悼(いた)み、弔(とむら)いたい気持ちは、
十分にわかりますが、
過激教団の聖地に、
自爆テロで命を落とした人たちの写真を、
神々のように、飾(かざ)ることには、
大きな恐怖(きょうふ)と危険性を、
感じないわけにはいかない。


けれど、それと・・・、
似たようなところが、日本にもある・・・。


それは、靖国神社です!。
靖国神社には、戦争によって、
命を落とした人たちの写真が、
自爆テロを繰り返す過激教団のように、
飾られているそうです。
しかも、それらの戦争によって命を落とした人たちを、
『神』と、あがめている!!!

ここに、大きな恐怖と危険性(きけんせい)を、
感じないだろうか?

いくら、それは違(ちが)う!と言ったところで、
戦争で人を殺し、自分も命を落とすのと、
自爆テロで、人々を殺し、自分も死ぬのと、
どう?違いがあるというのだろうか???

そこには、違いはない!!!
その強烈な危険性と異常(いじょう)さを、
鋭(するど)く、
見抜(みぬ)かなければならないと思う。

けれど、そのことに気づかず、
異常な鈍感(どんかん)さを持って、
靖国神社に参拝(さんぱい)する人々が、
あまりにも、多いことか・・・・・!!!

ここに、深刻(しんこく)な、
もっとも深い、
大きな問題があると思う。


その問題とは、何だろうか???


それは、宗教に対する、認識の甘(あま)さ、
認識(にんしき)の無さ、あるいは、
宗教とは、どういうものであるか?ということが、
わかっていない、
『無知(むち)な宗教観』にあると思う。

これは、私の信念だと、
ある人は、言うかもしれない。
確かに、信念は、自分ひとりの問題です。
自分の中にある。
ところが、宗教は、それだけではない。
宗教には、必ず、『祈る対象(たいしょう)』がある。
『祈る対象』がなかったら、
宗教は、なりたたないからです。

祈る対象があるということは、
完全なる個人としての信念とは、
様相(ようそう)を、異(こと)にする。
どういうことかというと、
祈る対象に、必ず、影響(えいきょう)を受ける!
ということです。
だから、宗教と言える。

ここに、宗教のもつ、大きな問題と、
可能性がある。
何に対して、祈るのか?
何に、手を合わせるのか?
これによって、宗教の正邪(せいじゃ)、
人間を幸せに導(みちび)くものか、そうでないものなのか、
決定的な分かれ目となっていく。

信念だけで、解決するほど、
宗教は、甘くない!
必ず、祈る対象がある。
人間が生命である以上、
手を合わせ、祈るということは、
その祈る対象に、
生命は、必ず影響を受ける。
それが、宗教です。

靖国参拝の問題に、もどると、
靖国神社には、
人間魚雷とか、
片道だけの燃料を積(つ)んで、
戦地に向かった飛行機とか、
戦争で死んでいった人たちの、
さまざまな遺品(いひん)も、展示されているようです。

それらのものは、
軍国日本の、悲しい、悲惨(ひさん)な歴史を、
とどめるという点では、
貴重な価値(かち)が、あるとは、思う。

けれど、やはり、
ふに落ちないのは、
戦争で死んでいった人たちを、
『神』と、仰(あお)いでいる点です!

戦争で、亡くなった人たちを、
家族や親族が、悼み(いたみ)、
たたえたい気持ちは、とても、わかるけれど、
それを、神として、
祭(まつ)り上げるのは、間違っていると思う。

死んだら、神になるのか?
死んだら、仏になるのか?
とんでもない!
たとえ、死んだとしても、
その生命は、その死んだ時の、
心の状態、その人の境涯(きょうがい)、
その人の生命状態は、まったく変わらず、
そのまま、残(のこ)っていく。

軍国日本に、
だまされ、大切な若い命を奪(うば)われ、
死んでいった人たちの、
その「悲しみ、苦しみ、怒り、絶望」
は、はかりしれない!
その生命を、神というのならば、
神は、「怒りや、絶望、悲しみや、苦しみ」に、
覆(おお)いつくされた、
苦しみそのもの姿を、現(あら)わすはずです。

それを、神というのなら、
神は、すべての人から希望を奪(うば)い、
苦しめ、悲しませる、
『暗黒の苦しみ』そのものと、なってしまう。

さきほども、話しましたが、
宗教には、かならず、
祈る対象がある。
祈る対象が、なんであるか?によって、
その宗教の、正邪が、きまってくる!
しかも、宗教というのは、
生命の上では、きわめて、科学的に、
必ず、結果を、ともなう。

ある対象に、祈りを捧(ささ)げたら、
その祈った対象と、同じ結果を、
自分の生命に、受けてしまう。
それが、宗教というものです。

すなわち、祈る対象が、
間違(まちが)った、悪しき、マイナスの対象であった場合、
自分の生命も、自分の人生も、
祈った対象と、まったく同じ、
間違った、悪(あ)しき、マイナスの結果が、
必ず、出てきてしまう。

祈っている対象が、化け物や悪魔のような、
存在であった場合、
自分の生命や人生も、
悪魔や化け物(ばけもの)に、とらわれたかのような、
悪(あ)しき、不幸という結果が、
必ず、出てきてしまう!
それが、宗教です!

日本人は、そういうことに、
あまりにも、無頓着(むとんちゃく)だけれども、
日本の観光宗教にしろ、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)、神社信仰にしろ、
一般的な理屈から考えても、
あるいは、仏法哲学(ぷっぽうてつがく)を、
ひもといてみても、
それらが、間違った宗教であることは、
明確に、わかりきっている。

すなわち、そういうものに、
祈りを、捧(ささ)げていると、
その間違った、マイナスの悪影響を、受けてしまい、
自分の人生や生命が、
さまざまな不幸に、陥って(おちいって)
しまうと、いうことです。

靖国神社に、スポットをあてれば、
靖国神社には、東条英機を、はじめとする、
軍国日本の主導者も、
まつられている。
しかも、その人たちを、
『神』と、あがめている。
それを、神と言うのなら、
日本中に、死の苦しみを、味(あじ)あわせ、
世界、アジアの民に、
多くの苦しみと、悲惨(ひさん)を、
巻(ま)き起こすものが、
『神』と、なってしまう!

それらに、祈りを、捧(ささ)げるとしたら、
それは、
『私は、日本中、世界中に、
最大の悲惨(ひさん)と苦しみ、死の悲しみを、
必ず、味あわせてみせます!!』
と、誓(ちか)いを、立てているのと、
同じになってしまう。

きびしいようだけれど、
それが、宗教というものです。
それだけ、恐(こわ)くて、
生命に与える影響が、多大なのが、
本当は、宗教です。

もうひとつ、重要なことは、
たとえ、どんなに善意(ぜんい)で、祈ったとしても、
たとえ、どんな美しい信念で、祈ったとしても、
祈る対象が、間違っていれば、
必ず、間違った影響を受けてしまい、
自分の意思とは、違った間違った方向、
すなわち、不幸という現象(げんしょう)を、
なんらかの形で、かならず、起こしてしまう!
ということです。

この法則(ほうそく)に逆(さか)らえる人は、
ひとりも、いません!

だから、本当は、
靖国神社に、こころからの善意と真心で、
祈りを、ささげたとしても、
それは、戦争でなくなられた人々を、
成仏(じょうぶつ)せさる行為とはならず、
逆に、地獄に落とす行為(こうい)となってしまい、
また、祈ってる自分自身も、
不幸へと、引きずり込(こ)まれてしまうと、
いうことです。

「ひどいことを言う!!!」
と言うかもしれませんが、
本当のことを言わないほうが、
もっとヒドイので、
言わせていただきたいと思います。

また、逆に、
「なに、言っているんだ!
 そんなの、関係ないよ!!」
と、笑っている人も、いるかもしれませんが、
絶対に、この法則に逆らえるものでは、
ありません!
結局、最後は、
「どうして、自分が!!」という結果が、
もたらされたとしても、
いたしかたありません・・・。

それが、人間の生命というものです。
それが、宗教というものです。
だから、宗教は、
厳密(げんみつ)に見ていかなければならない!

やはり、いちばんのネックは、
自分が、やっている行為が、
どういうことかも、わからない、
宗教に対する、あまりにもの、
認識の無さ、浅(あさ)はかさ!!
宗教に対する、
あまりにも愚(おろ)かな、
無知(むち)さ加減(かげん)!
その『宗教に対する無知』が、
人間の不幸の、すべての根源(こんげん)には、
あると思う。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

家族や親族が、
戦没者を、悼み(いたみ)、
大切にしたい気持ちは、
すごく、良く、わかる!

問題は、
戦没者(せんぼつしゃ)の生命を、
本当に、成仏させ、
安らがせ、幸せにしていける、
宗教が、必要だ!ということです。

そして、
それが、ほんとうに、できるのが、
創価学会が、実践(じっせん)している、
日蓮大聖人の、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)なんです。

なぜならば、
戦争で亡(な)くなった人たちの生命が、
いちばん、安らぎ、幸せになるのは、
自分の家族や親族が、
だれよりも、幸せになることです。
だれよりも、幸せに、生きることです。

家族や、親族が、
だれよりも、幸せになっていく。
その幸せが、戦没者にも、
伝(つた)わり、戦没者は、安らぎ、
幸せになり、成仏していける。

だから、亡(な)くなった人たちを、
本当に成仏(幸せに)させてくれる宗教は、
今、生きている人間を、
最高に、最大限に、幸せにすることが、
できる宗教でなければ、ならない!

それが、現実の上で、
必ず、できる宗教が、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です。

だから、
この南無妙法蓮華経の仏法は、
戦没者を、最高最大に、敬(うやま)い、
大切にし、成仏させ、幸せにしてける、
しかも、世界の平和と個人の幸せを、両立できる、
真の宗教だと、いうことが、できる。

また、
世界192カ国に広がる創価学会を見ていると、
実際に、その通りになっています・・・・・!!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく105

2012-11-11 11:32:05 | テレビ
以前、テレビで、
ブルース・ウェバーという、
有名な写真家の特集(とくしゅう)をやっていたのを、
見たことがありました。


若き日に、
ブルース・ウェバーに、
写真を撮(と)られたハリウッドスターは、
不思議(ふしぎ)と、みんな、
大スターになっているそうです。


ブルース・ウェバーに、そのことを聞くと、


「皆、強いオーラが出ていたから、
撮(と)りたくなっただけだ!」


と、言っています。


そのブルース・ウェバーが、
マドンナの写真を撮ったとき、
マドンナは、夫婦喧嘩(けんか)をしていて、
最悪の雰囲気(ふんいき)だったそうです。


それで、ブルース・ウェバーは、
一計(いっけい)を案(あん)じ、
マドンナが、鏡(かがみ)にキスしているところを、
写真に、撮る事にした。


マドンナは、大スター、

鏡を見るときは、いつも、
魅力的(みりょくてき)な自分、美しい自分、
より素晴らしい自分を、
鏡に、映(うつ)そうとします。

当然です。

そして、不機嫌(ふきげん)だったマドンナは、
鏡に映った自分に、キスをして、
思わず、
笑ってしまったそうです。


不機嫌だったマドンナは、
上機嫌(じょうきげん)となり、
素晴らしい写真が、撮れたようです。


不機嫌だったマドンナが、

なぜ?

上機嫌になったんだろう?


マドンナは、鏡に映(うつ)った自分に、
キスをするために、
美しい、キュートな自分、
魅力的な自分を、
鏡に映そうとした。


だから、
鏡(かがみ)には、美しく、キュートな、
魅力的な自分が、映し出される。


鏡に映し出された、
その美しく、キュートで魅力的な自分が、
こんどは、逆(ぎゃく)に、
鏡を見ている自分自身の心にまで反映(はんえい)して、
鏡に映った通りの、
魅力的な心に、
マドンナの心境(しんきょう)は、
変(か)わってしまった。


美しく、キュートで魅力的な自分は、
当然(とうぜん)、不機嫌な自分ではない。


さわやかで、ほがらかで、
安(やす)らいでいるはずだ。


その上機嫌な自分が、
鏡に映っているわけです。


その、安らかで、魅力的で、
ほがらかな自分自身を見たマドンナは、
本来の自分を、
思い出し、とりもどし、
現実の自分の心も、
上機嫌になってしまったと、
いうことです。


ようするに、
本来の自分を、鏡で見ることによって、
平静(へいせい)を失(うしな)っていた自分が、
本来の自分を、
取り戻(もど)したということだと思う。


どんな不機嫌な時でも、
どんなに、辛(つら)い時でも、
どんなに、苦しい時でも、
どんなに、悲しい時でも、
我(われ)を忘(わす)れている時でも、
本来の自分を、映し出す鏡があれは、
自分を、取り戻すことができ、
本来の自分、
素晴らしい魅力的な自分を、
引き出すことが、できるわけです。


鏡に映った自分が、
魅力的であればあるほど、
素晴らしければ、素晴らしいほど、
その鏡を見た自分の心も、
素晴らしく、魅力的になっていくと、
いうことです。


だから、
最高(さいこう)に魅力的で、最高に素晴らしく、
最高に強くて、最高にやさしくて、
最高に愛に満(み)ちて、
最高にほがらかな、
素晴らしい自分を映す鏡があれば、
その鏡を、見ることによって、
自分の中から、その通りの、
最高に魅力的で、最高に素晴らしく、
最高に強くて、最高にやさしくて、
最高に愛(あい)に満ちて、最高にほがらかな、
素晴らしい心を、
引き出すことができるわけです。


その人間の中にある、
最高の生命(せいめい)!


強くて、あったかくて、絶対に負(ま)けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
最高最大の自分自身を、
映し出す鏡(かがみ)が、
実は、創価学会(そうかがっかい)が、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえる対象として、
祈っている、

『ご本尊(ごほんぞん)』

なんです。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
最高最大の自分自身を映し出す鏡である、
『ご本尊(ごほんぞん)』に、
祈(いの)る時、
たとえ、どんなに辛(つら)いときでも、
どんなに苦しい時でも、
どんなに悲しい時でも、
我(われ)を忘れている時でも、
最高の生命を映し出す鏡である
『ご本尊』を、見(み)て、
自分の中から、
強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
素晴らしい心(最高の生命)を、
引き出すことができる!


これは、ほかでは、
絶対(ぜったい)に、できません。


現実の生活の中で、
強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
最高に素晴らしい自分を、映し出す鏡を、
見つけようとしても、
無理(むり)です。


日々の現実の生活の中では、
最高に素晴らしく、最高に魅力的な心を、
映し出す鏡は、
存在(そんざい)しないからです・・・。


そうなると結局(けっきょく)、
最高に素晴らしく、最高に魅力的な心(こころ)は、
自分の中から、
出てくることは、できなくなり、
結果(けっか)として、
最高の幸せも、つかむことが、
できなくなっていきます。


だから、創価学会が、
日々、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえ、祈ってる、
『ご本尊』が、
必要(ひつよう)なんです。


強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
最高の生命を写(うつ)し出すことのできる『鏡』!

その、自分の中の、
無限(むげん)の可能性ともいえる、
『最高の生命』を写す鏡である、
『ご本尊(ごほんぞん)』が、
どうしても、必要なんです!!


そして、その『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
いままで、出ることが、できなかった、
強くて、あったかくて、絶対に負けない、
やさしくて、ほがらかで、愛に満ちた、
素晴らしい心が、
『ご本尊』という鏡を見ることによって、
引き出され、
その、当然の結果として、
最高の幸せを、
つかむことに、なっていきます。


それは、
世界中の創価学会の人たちが、
体験(たいけん)していることであり、
そのことによって、
悩みを解決し、
夢や希望を実現(じつげん)して、
世界192ヶ国の創価学会の人たちに、
勝利と幸せを、もたらしています。


『ご本尊』は・・・、
幸せを、もたらす鏡なんです・・・!


それは、あたかも、
鏡にキスをしたマドンナが、
微笑んでしまったように・・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく96

2012-09-19 09:36:59 | テレビ
かなり前の話しだけれど、
ディスカバリー号で宇宙(うちゅう)に行った
野口聡一宇宙飛行士が、
SMAP×SMAPという
テレビ番組に出ていたのを、
見たことがありました。


当時(とうじ)の野口聡一宇宙飛行士が、
宇宙に行った、
いろいろな、楽しい話しを
してくれていました。


それで、当時の、
国民的アイドルグループだったスマップのメンバーは、
野口飛行士が、宇宙に行くまえにも、
野口さんと、いろいろ対談(たいだん)していたようで、
宇宙に行った後の野口さんを、見て、


「野口さんは、
宇宙に行って、宇宙を見て、
宇宙に行く前とは、人間が、変(か)わった!」


と、評(ひょう)していた。


ほんとうに、変わったか、どうかは、
わからないけれど、
確かに、青い青い地球を、
目の当たりに見て、
広大(こうだい)すぎる宇宙を
実際(じっさい)に見たら、
人間が、変わるかもしれない。


美しい地球、
広大な宇宙、
それを、見たあとでは、
いままでの、ちっぽけな殻(から)が、
取り払(はら)われ、
やさしく、大らかな、
愛に満(み)ちた、大きな人間になっても、
確かに、おかしくないと思う!


当然、行ったことがないから、
わからないけれど、
宇宙を見た衝撃(しょうげき)は、
それくらい、大きいかもしれないと思う。


そんな宇宙に、
未来は、だれでも、
行けるようになるかもしれない。


けれど、現在のところ、
そうは、いかない・・。

行けるにしても、
大変な訓練(くんれん)が必要だろうし、
そうでないにしても、
大変なお金が、必要となってくるだろう。


もし、大宇宙を、
自分の目で、見ることができたなら、
野口飛行士のように、
ちっぽけな殻(から)を、打ち破(やぶ)り、
愛に満ちた、
大きな大きな自分に、なれるかもしれない・・。


それは、夢なのだろうか?


いいえ!
夢では、ないと思う!


確(たし)かに、
実際に、宇宙に行って、
宇宙を見、感じることは、
できないかも、しれない。


けれど、
宇宙を、感じることは、
できる!


実は、それが、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
を、となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だからです!


南無妙法蓮華経をとなえるということは、
実(じつ)は、
大宇宙と、自分の生命で、
通信(つうしん)しているようなものなんです。


宇宙と通信することができたなら、
それは、
宇宙を感じることになっていく。


宇宙的に考えると、
それが、

「南無妙法蓮華経を、となえる」

ということだと思う。


もう少し、詳(くわ)しく言うと
南無妙法蓮華経とは、
大宇宙の法則(ほうそく)であり、
大宇宙のリズムなんです。

もっと言えば、
南無妙法蓮華経それ自体(じたい)が、
大宇宙の生命そのものを、
表現しているんです。

だから、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
大宇宙そのものと、言ってもいいと思う。


そして、その大宇宙の法則であり、
大宇宙のリズムである、
南無妙法蓮華経は、
小我(しょうが/小さな宇宙)である、
人間の中にも、
存在(そんざい)しているんです。


大宇宙の生命が、
南無妙法蓮華経であるとすると、
宇宙の一部分である、
自分の存在(そんざい)も、
南無妙法蓮華経だということです。


同じ「南無妙法蓮華経」というリズムであり法則が、
大宇宙にも、
自分の生命にも、
脈打(みゃくう)ち、
同じように流(なが)れ、存在している。


単純(たんじゅん)に言えば、
大宇宙が、「南無妙法蓮華経」ならば、
小宇宙である自分も、
「南無妙法蓮華経」だということです。


創価学会の人たちは、
日々、信じる対象(たいしょう)である、
『ご本尊(ほんぞん)』に、
南無妙法蓮華経を、となえて祈っていますが、
それは、
大宇宙の南無妙法蓮華経と、
自分の中の南無妙法蓮華経が
共鳴(きょうめい)していると、
表現できると思います。


それは、
大宇宙の生命(せいめい)の力、エネルギーに共鳴して、
自分の中にある生命の力やエネルギーが、
引き出されるイメージだと思う。

そして、その結果、
自分の生命は蘇生(そせい)し、
輝(かがや)いてきて、元気になり、
悩みを解決できたり、
夢や希望に向かって、
大きく飛翔(ひしょう)していくことが
できるようになっていく。


それが、ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経を、となえるということです。


これも、もう少し詳しく言うと、
その「ご本尊(ほんぞん)」というのは、
実は、
その「大宇宙の法則」を、あらわしたものであり、
「大宇宙そのもの」を、
表現(ひょうげん)したものだと言えます。

それと同時に、
ご本尊は、
「小さな宇宙」である、
「自分自身の生命」を、
表現したものでも、あります。


だから、ご本尊は、
大宇宙の無限(むげん)の力と、
自分の中の無限の力の
両方(りょうほう)を表現したものだと、
言えます。


そして、
大宇宙にも、自分の中にもある、
大もとの無限の力が、
『南無妙法蓮華経』だということです。


大宇宙には、
南無妙法蓮華経という無限の力がある。

それと同じように、
自分の中にも、
南無妙法蓮華経という無限の力がある。

だから、大宇宙と交信(こうしん)するように、
ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえていった時、
自分の中から、
無限の生命力、無限の勇気、
無限の希望が湧(わ)き上がってきて、
幸せを勝ち取っていけるようになっていく。


いわば、
ご本尊は、
「大宇宙の無限の力」の象徴(しょうちょう)であり、
それと同時に、
「自分の生命の無限の力」の象徴となります。


だから、ぼくたちが、
大宇宙の象徴(しょうちょう)であり、
自分の生命の象徴でもあるご本尊に、
南無妙法蓮華経を、となえるとき、
大宇宙の生命と、
少宇宙である、自分の生命が、
共鳴(きょうめい)する!

なぜ、共鳴するかというと、
「大宇宙の生命のリズム」が、
南無妙法蓮華経であると同じように、
少宇宙である、
「自分の生命のリズム」も、
南無妙法蓮華経だからです。


大宇宙も小宇宙も、
どちらの生命も、
その本質(ほんしつ)は、南無妙法蓮華経!


だから、南無妙法蓮華経を、となえる時、
大宇宙と小宇宙は、
共鳴しあい、響(ひび)きあい、
無意識(むいしき)のうちに、
大宇宙の本質を、
感じることが、できる。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

かりに、
宇宙に行って、宇宙を見るにしても、
その宇宙でさえ、大宇宙の、
ほんのわずかでしかない!

無限の大宇宙から見れば、
宇宙を、実際に見たとしても、
米粒(こめつぶ)ほどの、
ほんのわずかでしかない・・。


けれど、南無妙法蓮華経は、
無限の全宇宙であり、
南無妙法蓮華経を、となえることは、
その無限の全宇宙を、感じることに、
つながる!


おそらく、
こんなに、すごく、
こんなに、素晴(すば)らしいことは、
ないだろう!


宇宙的に考えると、
南無妙法蓮華経を、となえるということは、
そういうことかもしれない・・・。


だから、創価学会の人たちが、
ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる時、
すがすがしい気持ちに、なる!

自分のなかに、
晴(は)れ晴れとした、
大きな大きな心を、感じる!


おそらく、それは、
そのまま、
大宇宙を、感じていることに、
ほかならないのでは、ないだろうか・・・。



本来(ほんらい)、大宇宙のリズムは、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』。

そして、自分の生命の本来のリズムも、
本当は、『南無妙法蓮華経』なんだけれど、
生きていく上での、
さまざまな悲しみや苦しみ、
自分の持っている、
さまざまな運命(うんめい)や宿業(しゅくごう)によって、
自分の生命のリズムに、
「ゆがみ」が、生(しょう)じてしまい、
さまざまな不幸を、引き起こす!


宿業とは、
自分が生まれながらにして、
持ち、背負(せお)ってしまっている、
悩みや苦しみや辛(つら)い境遇(きょうぐう)など、
どうしても避(さ)けることのできない、
人生における、
さまざまな辛い宿命(しゅくめい)、
そして、そのことによって引き起こる、
運命的な出来事などを、言います。


その、宿業(しゅくごう)ともいえる、
自分の中に、できてしまった、
『不幸』という生命の「ゆがみ」は、
普通の生活の中では、どうにもならない!


その『不幸』という生命の「ゆがみ」を、
本来のリズムに、もどさないかぎり、
その生命は、
幸せには、なっていかないはずです。


自分の、ゆがんでしまった、
「生命のリズム」を、
正常(せいじょう)なリズム、幸せのリズムに、
もどすためには、
宇宙のリズムが、『南無妙法蓮華経』なんだから、
小宇宙である、自分の生命(自分自身)も、
『南無妙法蓮華経』のリズムになるしかない。


だから、そのためには、
自分で、

『南無妙法蓮華経を、となえる!』

しかないんです!!


それ以外、
自分の生命の、
狂(くる)ってしまったリズム、
不幸になってしまったリズムを、
本質的に、治(なお)し、
正常なリズム、幸せのリズムに、
もどす方法は、ありません!!


南無妙法蓮華経を、となえていくと、
大宇宙のリズムと、
小宇宙である自分の生命のリズムが、
完全に、
合致(がっち)していくんです!!!

だから、夢や希望が、かない、
さまざまな悩みが、解決し、
どんな苦難(くなん)も、乗り越(こ)えて、
幸せになっていけるんです!


『大宇宙のリズムと小宇宙(自分自身)のリズムを、
合致(がっち)させる!』


きっと、それが、
本当に大宇宙を、感じることであり、
それが、大宇宙の法則なんだと思う・・。


創価学会の人たちが、
全世界で、幸せになっていけるのは、
そういう理由が、
あるのかも、しれない。


まだまだ、言葉が足(た)りないけれど、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、
そこまで、広大で、
そこまで、深く、
無限の真実(しんじつ)を、秘(ひ)めている・・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく66

2012-03-27 06:49:26 | テレビ
昔、テレビで、
「クイズ!ヘキサゴン」
という番組がありました。

当時は人気があって、
ぼくも、たまに見ていました。

博識(はくしき)な頭の良い人たちが出る
クイズ番組ではなく、
芸能人たちの間抜(まぬ)けな答えを
楽しむ番組でした。

まあ、人のことは、言えないけれど、
おもしろかったです。

人って、驚(おどろ)くほど、
間抜けな部分もあったりして、
かといって、
その人が、ダメかというと、
そうではなく、
すごく魅力(みりょく)があったりする。

不思議(ふしぎ)です。

そうかと思うと、
まえに、他のテレビで見たけれど、
ルービック・キューブという、
小難(こむずか)しい立体パズルを、
ほんの何秒という時間で完成させてしまう、
すごい頭脳(ずのう)の人たちも、いる。

不思議です。


同じ人間なのに・・・・・・!


その、クイズ・ヘキサゴンで見た話しですが、
芸能人二世対決というのがあって、
芸能人の二世の人たちが、集まって、
ヘキサゴン・クイズバトルを
やりあっていました。

それで、最後に、
戦った二世の芸能人たちが、集まった時、
石田純一が、

「みんな、いいDNAを、持っているよ!」

と、皆を、たたえていた。


それで、思い出したけど、
だいぶ前だと思うけれど、
かなり前の新聞に、


「人間は、祈(いの)りによって、DNAさえ、
変えることが、できる」


ということが、
科学によって、判明(はんめい)された!
という話しが、のっていた。

ぼくが思うに、
祈りのよって、DNAが変わると言っても、
それは、きっと、ごく末端(まったん)の、
ほんのわずかな部分に、すぎないのではないか?
と思う。

だって、そんな、
DNAが、全部変わっちゃったら、
世話(せわ)はないからだ。

ただし、ほんの、ごく微小(びしょう)の、
ほんのわずかであっても、
祈りによって、DNAが変わるということが、
科学で判明されたのは、
大きいかもしれない!と思った。

なぜかというと、
自分が、優秀だと思っている人も、
優秀でないと思っている人も、
いろいろ、いると思うけれど、
基本的(きほんてき)に、

人間って、なかなか、変われない!

と思うからです。

表面的(ひょうめんてき)には、
変わったように見えていても、
実際(じっさい)の中身の部分では、
何にも、変わっていないということが、
ほとんどだと、思うからです。

DNAというのは、
よく知らないけれど、
人間の根本(こんぽん)の部分だと思う。

その根本の部分が、変われるということは、
人間には、それだけのエネルギーが、
あるということだと思う。


たとえ、それが、ほんのわずかであったとしても、
やはり、それは、大きい!


スポーツにしても、
勝負を決するのは、ほんのわずかの差(さ)です。

陸上アスリートたちは、
レイコンマ何秒というタイムを競(きそ)っている。


そのほんのわずかの差で、
勝利者と、敗北者が、分れる。


サッカーにしても、野球にしても、
ボールが、あと、1センチ、中に入っていたら、
勝っていた!
1センチ、違(ちが)っただけで、
負けてしまったというのが、
常識(じょうしき)だ。

ほんの1センチ、
ほんのわずかの差で、
天国と、地獄(じごく)が、わかれてしまう。

スポーツの世界でなくても、
現実の人生においても、
それは、同じだと思う。


あと、もうすこし、
ほんのわずか!何かがあったら、
人生を勝利できた。
ほんのわずか、何かが足りなかったために、
人生を、敗北した。


それが、現実の人生における、
勝負だと思う。


だとしたら、祈りによって、
ほんのわずかでも、DNAが変わるとしたら、
それは、大きい!

きっと、DNAは、
人間の根本の部分だから、
その部分が、少しでも変わったら、
人生は、すべてにわたって、
大きく変わってくる!

そう、言わざるをえない。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

ただ、ひとつ、言っておきたいのは、
祈りに力(ちから)があるとしても、
祈りなら、なんでも良いということではありません。

間違(まちが)った祈りは、間違っているがゆえに、
逆(ぎゃく)に間違った影響(えいきょう)を
およぼしてしまう。

すなわち、間違ったものに祈った結果として、
人生に、さまざまな形で、
「不幸」が出現してしまうということです。

それが、日本にはびこっている、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰です。

それは、ちょっと考えればわかりますし、
仏法哲学(ぶっぽうてつがく)を、ひもとけば、
完全に間違った宗教であることが
わかります。

ゆえに、
それらの葬式仏教や観光宗教、神社信仰に、
どんなに真剣(しんけん)に祈ったとしても、
かりに、命がけで祈ったとしても、
その人に幸せをもたらすことはなく、
逆に、間違った宗教であるがゆえに、
真剣に祈れば祈るほど、
その人に、
さまざまな形で、
不幸が、もたらされてしまうと、
いうことです・・。


それにしても、
祈りには、DNAを変えるほどの力があるという。


実(じつ)は、
その人々に幸せをもたらすことのできる、
本当に力(ちから)ある祈りが、
創価学会の
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえる祈りなんです!!


創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践する、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)には、

『宿命転換(しゅくめいてんかん)』、
あるいは『人間革命』

という法則がある。

南無妙法蓮華経を、となえることと、
創価学会の、
仏法を基調(きちょう)とした活動によって、
自分という人間を、
根本から、変革することができる!
と説く、
仏法(ぶっぽう)の法則(ほうそく)です。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)も、

『一人における偉大(いだい)なる人間革命は、
やがて、一国の宿命の転換をも、成し遂(と)げ、
さらに、全人類の宿命(しゅくめい)の転換をも、
可能にする!』

と、言っています。


南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
生命の変革(へんかく)の法則だと、
いう。

だいたい、優秀な人、幸せな人が、
幸せになるのは、当たり前だ。

だけど、創価学会の人たちは、
昔は、世の中から見放(みはな)されたような、
貧乏人(びんぼうにん)と病人の集まりだった。

その人たちが、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
また、創価学会の仏法を基調とする活動によって、
ことごとく、病気を克服(こくふく)したり、
貧乏を克服したりして、
幸せの、勝利の姿を、見せている!


これは、DNAでも、
変わったのではないか?と、
思わずには、いられない!


人間には、それだけのエネルギーがある!
ということの証明だと思う。

また、その人間の最高のエネルギーを、
引き出す力(ちから)が、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)には、
あるんだと思う!


ひとつ、言えることは、
別にDNAが変わろうが、変わらまいが、
創価学会の中で、
南無妙法蓮華経を、となえぬき、
創価学会の活動を、やりきっていくと、
必ず、『幸せになる!』と、
いうことです・・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・