以前、
「がんばって、いきまっしょい!」
というドラマを、見たことがあります。
そのドラマは、
高校生の女子ボート部の物語なんだけれど、
その主人公の女の子が、
海辺で、ブタのぬいぐるみを、
拾(ひろ)うシーンがあった。
かわいいので、部室に持っていき、
「ブタ神様(かみさま)!」
と呼んで、
部室に、祭(まつ)ることに、する。
そして、それ以来、
部室(ぶしつ)に来ると、
ブタ神様に、手を合わせて、
「ブタ神様、ブタ神様、
どうぞ、試合で、勝たせてください!」
と、祈(いの)る。
とっても、かわいいし、
おもしろい発想だとは、思うけれで、
これは、日本人の宗教観(しゅうきょうかん)を、
如実(にょじつ)に、
あらわしていると思った。
べつに、祈る対象は、なんだっていい。
パンパンって、手を合わせて、
祈れば、気分が出る!
おそらく、
一般的な日本人の宗教観なんて、
こんなものだろうと思う・・。
パンパンって、手を合わせて、
その場の雰囲気(ふんいき)に浸(ひた)れれば、
それで、いい!
おそらく、レジャーとまったく同じ考えで、
手を、合わせている。
単なる遊び、
それが、日本人の宗教観・・・。
けれど、ここに、危険が潜(ひそ)む。
ここに、不幸を生む、きっかけがある。
手を合わせる、祈る、
という行為は、
宗教の基本的要素(ようそ)であり、
根源的(こんげんてき)な役目と機能(きのう)を、
はたしている。
だから、手を合わせる、祈るという行為(こうい)には、
おのずから、
重要な意味が、生まれてしまう!
手を合わせる、祈るとは、
宗教の観点(かんてん)から見ると、
祈っている対象(たいしょう)、
手を合わせている対象に対し、
『あなた様に、命を、ささげます!』
『あなた様に、私の人生を、ささげます!』
という、意味が、もたらされる。
だから、実際に、
手を合わせ、祈ると、
無意識(むいしき)のうちにも、
自分の生命は、
祈っている対象に反応(はんのう)し、
「祈っている対象に、命をささげ、
人生を、ささげます!」
と言っているのと、
同じ結果を、生む。
すなわち、祈っている対象が、
自分の生命(せいめい)に投影(とうえい)され、
祈り、手を合わせている対象に、
自分の生命と人生が、
支配(しはい)される結果と、なる。
だから、宗教とは、
ある意味、恐(こわ)い!!
たとえば、
ブタのぬいぐるみを、神さまだと、
祭(まつ)り、そのブタのぬいぐるみに、
手を合わせ、祈ると、
自分の生命に、
ブタのぬいぐるみが投影(とうえい)され、
自分の生命は、ブタのようになってしまう。
また、捨てられボロボロになった、
ブタのぬいぐるみのように、
自分の人生も、人から捨てられた、
ボロボロなものに、なってしまう。
すぐには、それは、
わからないかもしれないが、
祈った時から、生命の上では、
その現象(げんしょう)は、起こっており、
長い年月の上では、
必ず、そういう結果となっていく。
それが、宗教です。
だから、気をつけなくては、いけない!
間違(まちが)ったものに、手を合わせ、
祈りを、ささげては、いけない!
間違ったものに、祈りを、ささげれば、
自分の生命に、
間違ったものが投影され、
『間違い』、すなわち、『不幸』という結果が、
自分の人生に、あらわれてきてしまう。
たとえば、お客を集めるためだけの、
間違いだと、わかりきった、
観光(かんこう)宗教や、神社信仰(じんじゃしんこう)、
お金を、取ることしか考えていないような、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)も、
すべて、
間違った宗教です。
すなわち、
それらの観光宗教や、神社信仰、
葬式仏教に、
どんなに真心(まごころ)を込(こ)めて、
真剣に祈ってみたところで、
逆に、真剣に祈れば祈るほど、
どんどん、不幸になっていくということです。
間違った宗教に祈ったという結果として、
自分の人生に、
さまざまな形で、
不幸が、出現(しゅつげん)してきてしまうと、
いうことです・・・。
もちろん、
付き合いも、礼儀(れいぎ)も、
儀式(ぎしき)もあるだろうから、
人間として、礼儀は、
わきまえなくてはいけない。
けれど、個人的に、
積極的に、そういう間違った宗教に、
かかわってはいけない!!
間違った対象に、
手を合わせ、祈ってはいけない!
これが、
生命の次元(じげん)から言える、
最低限の、
不幸を、招(まね)かない方法です。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
さっきも話しましたが、
手を合わせ、祈るという行為(こうい)は、
生命の上では、
祈る対象に、命をささげることになり、
人生を、ささげることに、なっていく。
だとしてら、逆(ぎゃく)に
人間として最高に素晴らしいもの、
人間として最高に、尊(とうと)いもの、
人間に最高の勝利と幸せを、ものらすものが、
祈る対象であるとしたら、
その最高の祈る対象に祈りを、ささげれば、
その最高に素晴らしく、最高に尊く、
人間に最高の勝利と幸せをもたらす対象は、
自分の生命に、投影(とうえい)され、
自分の人生も、
最高に素晴らしく尊(とおと)くなり、
最高の勝利と幸せを、生み出す結果となる。
これは、当然(とうぜん)の、
あたりまえの結果です。
このことを、徹底的に、
究極まで、完璧(かんぺき)に、
解明(かいめい)して、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、
未来の全民衆のために残されたのが、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
『ご本尊(ごほんぞん)』です。
ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、
あらわしたものであり、
自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、
その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることを、
あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。
そして、その、
日蓮大聖人の『ご本尊』を、
純粋に継承(けいしょう)し、
日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の仏法を、
真直(まっす)ぐに実践しているのが、
創価学会(そうかがっかい)です。
だから、人間として、最高に尊いもの、
人間として、最高に素晴らしいもの、
人間に真実の勝利と幸せを、もたらす対象である、
日蓮大聖人の『ご本尊』に、
「祈り」を、ささげるとき、
『ご本尊』の生命は、おのずから、
自分自身の生命に、投影(とうえい)され、
その結果として、
最高の勝利と幸せを、もたらすことなる。
それは、
宗教の理論(りろん)から言えば、
当然の、わかりきった結果であると、
断言(だんげん)することが、
できる!
だから、創価学会の人たちは、
どんな人でも、
その『ご本尊』に、南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰によって、
自分自身の生命の、
最高の、素晴らしい可能性を開花させながら、
悩みや困難(こんなん)を乗り越(こ)え、
希望をかなえながら、
幸せを、勝ち取っていけるんです。
その結果として、創価学会は、
世界192ヶ国に広がり、
世界中の人々に、
幸せと勝利の笑顔を、
もたらしている・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・