タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく146

2014-01-26 12:31:03 | ドラマ
このまえ、ビデオで、
まえに途中までしか見てなかった、
「野ブタを、プロデュース」
というドラマを見ました。

この物語は、
不器用(ぶきよう)で、いじめられっ子の
女子高校生(ノブタ)を、
二人の男子高校生が、
人気者に、変えていこうと、
奮闘(ふんとう)する物語ですが、
その中で、ノブタ(信子)を、
プロデュースしよう!としている、
修二が、辛(つら)いことがあって、
落ち込んでいた。

そんな時、いじめられっ子、
ノブタが、言う。
「だれでも、さみしいのは、やだよね!」

修二は、言う。
「そうか。オマエ、だれよりも、
 さみしいの、知ってんだよな・・・!」

ノブタは、言う。
「うん!できれば、
 ひとり残らず、幸せになってほしい!!!」

修二は、言う。
「やあ? それは、無理(むり)だろ・・・」

ノブタの純(じゅん)な心と言葉は、
こころに、残るけれど、
修二が、言った、
「やあ? それは、無理だろ・・・」
という言葉も、
わかる気がする。

ようするに、幸せというものは、
ごく、かぎられた、特別な人だけに、
与(あた)えられるもので、
すべての人が、幸せになれるわけでは、ない!
というのが、
世間一般的な、考えかたなのかもしれない。



次元(じげん)はまったく違うけれど、750年以上も前に、
ノブタと同じことを、言っていた人間がいる。


『この世から、不幸をなくしたい!
 未来にわたる、全民衆を、幸せにしたい!!』


それが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。

ドラマ「野ブタを、プロデュース」の、
ノブタ(信子)も、純(じゅん)だけれでも、
日蓮大聖人は、純どころの騒(さわ)ぎでは、ない!
本気なのだ!
ノブタが、言っていた、
「うん!できれば、
 ひとり残らず、幸せになってほしい!!!」
ということを、本気で実現しようとし、
あらゆる迫害(はくがい)に、遭(あ)いながら
本気で、全民衆を、幸せにしようと、した!

そして、現実に、
それを、可能にする、
哲学(てつがく)と法則(ほうそく)を、残された!!!!

それが、日蓮大聖人が、
全民衆のために残された、
『南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)』です。

ようするに、
この南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
真剣に実践(じっせん)したならば、
どんな人でも、ひとりも残らず、
必ず、確実に、幸せになれる!!!と、
いうことです。


その南無妙法蓮華経の仏法を、
唯一(ゆいいつ)、正しく実践することができたのが、
創価学会(そうかがっかい)ですが、
その、創価学会二代会長の、
戸田城聖先生も、言っている。

『この世から、病人と貧乏人を、なくしたい!
 この世から、不幸の二文字を、無くしたい!』

日蓮大聖人と、比(くら)べることは、
できないけれど、
戸田先生も、本気も本気、
真剣なのだ。

そして、現実に、
病人、貧乏人、悩める民衆を、
ことごとく、蘇生(そせい)させ、
幸せにしてきたのが、
創価学会の歴史です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

昔、創価学会は、
「病人と貧乏人の集まりだ!」と、
バカにされた!

戸田先生は、言われた。

『病人と貧乏人を、救うのが、
 宗教の役目では、ないか!!』

そう、本気で言って、
本当に、病人と貧乏人ばかりの創価学会の人たちを、
『ご本尊(ほんぞん)に、
 南無妙法蓮華経を、となえる、
 仏法(ぶっぽう)の信仰』によって、
健康にし、裕福(ゆうふく)にして、
幸せにしきってきたのが、
創価学会です。

そして、今の、
世界中が、賞賛(しょうさん)する、
素晴らしすぎる、創価学会が、きずかれている!


それは、そのまま、
ノブタが、言った、
「うん!できれば、
 ひとり残らず、幸せになってほしい!!!」
という言葉が、不可能ではなく、
現実に、可能であることを、
証明している!


だから、
「やあ? それは、無理だろ・・・」
と、修二が、言ったとき、
もし日蓮大聖人だったら、
もし戸田先生(創価学会二代会長)だったら、
きっと、言うに違(ちが)いないでしょう・・。


『無理ではない!
 この南無妙法蓮華経の仏法は、
 日蓮大聖人が残された、
 ご本尊(ほんぞん)への、信仰は、
 どんな人でも、
 ひとりも残らず、
 必ず、
 幸せになっていける・・・!!!』


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく145

2014-01-17 09:27:33 | アニメ
先日、
アニメ『火の鳥・異形編 』を
見た話しを、しましたが、
こんどは、『火の鳥・太陽編』を、
みました。

『太陽編』は、
アニメ・火の鳥の中でも、
いちばん、いいかげんな内容でしたが、
最後に、ちょっと、
ピンときた話しが、ありました。

この話しは、
大友皇子の軍勢(ぐんぜい)に、
へんな超常的な力(いわゆる、超能力)を、
使う仏法者?たちが、味方し、
大海人皇子の軍勢には、古くからの神々が、
味方につき、
ようするに、
仏法(ぶっぽう)の力を使う軍勢と、神々の力を使う軍勢が、
戦うという図式の、
へんてこな内容でした。

結局、この『火の鳥・太陽編』では、
神々の軍勢が、勝利するんですが、
最後のところで、
古くから、村を守っていた神々が、
「私たちは、この村を、去(さ)ります!」
と言います。

なぜ、そうするかと、いうと、

「この里(さと)の人たちには、
 もう、神々への信仰の思いが、
 なくなってしまった!
 だから、もう、この里には、いられない!」

そう言って、
神々は、どこか、遠くに去っていきます。


この話しに、似ている話しで、
仏法(ぶっぽう)には、
『神天上(かみてんじょう)の法門(ほうもん)』
という法則(ほうそく)が、説かれています。

仏法(ぶっぽう)でいう、神々は、
法華経(ほけきょう)の行者を、
守るという契約(けいやく)を、しています。
法華経とは、
すべての人に、最高の幸せを、
もたらす、幸せの根本法則のようなものです。

幸せの根本法則であり、かつ、エネルギーが、
法華経(ほけきょう)ということで、
たとえて言うなら、法華経は、
すべての人を、幸せにすることのできる、
生命における、『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』
のようなものです。

自動車は、ガソリンなどの燃料がなかったら、
動かないし、
動物は、食べ物がないと生きていけない。

それと同じように、幸せになるためには、
『幸せの元(もと)』、
『幸せになるための、根本原料』が、
必要になってくると、いうことです。

だから、幸不幸から考えれば、
生命というのは、
その『幸せの元(もと)』『幸せの原料』を、
どれだけ、たくさん、とり、
どれたけ、たくさん、食べるか?で、
幸せになれるか、なれないかが、
決まると、言えます。

その『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』が、
『法華経(ほけきょう)』なんですが、
ということは・・・
『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』を、
たくさん、とり、食べるということは、
『法華経』を、
どれだけ、たくさん実践(じっせん)したか?
どれだけ、真剣に実践したか?
ということに、なってきます。

だから、『法華経』を、
真剣に、たくさん、実践していくことが、
『幸せの元(もと)』
『幸せになるための、根本原料』を、
たくさん、とり、食べることになります。

そして、神々は、
その『幸せの元(もと)』、
『幸せの原料』を、人々が食べたあとの、
「残りかす」・・
ようするに、幸せに、ただよう匂い(におい)、
幸せに、まとわりつく香り(かおり)を、
食べて、生きていると、されています。

だから当然、神々は、
幸せの原料、幸せの元(もと)が、
たくさん、あるところに、
集まってくるわけです。

これは、なんとなく、
わかると思います。
人間だって、幸せの人の周(まわ)りには、
人が、たくさん、集まってきますが、
不幸の人の周りからは、
どんどん、人が、去(さ)っていきます。

これと、同じ原理(げんり)です。

神々は、
法華経(ほけきょう)の行者を、守ると、
契約(けいやく)を立てているわけだし、
だいいち、神々の好物である、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』から出る、
香(かお)りや、匂い(におい)は、
法華経を実践する人から、できてくるので、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』から出る、
香りや、匂い(におい)を、
食べたいので、神々は、
法華経を実践している人がいる、
その土地、その場所に、
居座(いすわ)っていると、
いうわけです。

ところが、人々が、
法華経に違背(いはい)して、
でたらめな宗教に走ったり、
法華経自体を、捨て去っているために、
神々は、法華経の行者を守るという、
契約を、守ることも、できず、
好物の『幸せの元(もと)』『幸せの原料』を、
食べることが、できないので、
愛想(あいそ)が、つきて、
とうとう、その土地を、
離(はな)れ、天上界に、帰ってしまうという、
話しです。


これが、仏法で説かれる、
『神天上(かみてんじょう)の法門』です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

今、日本に、はびこっている、
神社、仏閣(ぶっかく)は、すべて、
真実の法華経(ほけきょう)とは、かけ離れた、
でたらめなことを、やっています。

ようするに、金儲け(もうけ)しか、
考えていないし、
教義(きょうぎ)なんて、デタラメで、
無いに等しいというか、
無いより、まだ悪い、
かってに、教義を、ねじまげて、
金儲けに、利用しているだけです。

だから、神々は、愛想(あいそ)が、つきて、
天上に、去(さ)ってしまっていますから、
いくら、神社、仏閣(ぶっかく)を、立てたところで、
そこに、神々など、いません!

じゃあ、神々が去った、
空(から)になった神社、仏閣に、
何が?いるかと、いうと、
神々が去ってしまって、空(あ)き家になっているので、
「これは、ちょうどいい!」
と、悪鬼、魔神、化け物、ゲテモノが、
住み着くことに、なります。

だから、神社、仏閣だと思って、
手を合わせたり、
願い事を、したところで、
それは、悪鬼や魔神、化け物、ゲテモノに、
祈りを、ささげることになり、
そういう、化け物、ゲテモノに、
祈りを、ささげるということは、
化け物、ゲテモノに、命をささげる結果になり、
自分の生命に、悪魔や化け物が投影(とうえい)され、
あたかも、化け物、ゲテモノが、
自分の生命に乗り移(うつ)るような形になっていく。

そうなれば、当然(とうぜん)、
さまざまな形で、
その人の人生に、
不幸が出現してきます。


これが、宗教における、
不幸になる原理(げんり)です。


だから、正月などに、
神社や仏閣(ぶっかく)に行きますが、
人々は新年なので良い事があるように、
神社や仏閣に、行きますが、
はっきり言えば、
それらの神社や仏閣の中身(なかみ)は、
神や仏(ほとけ)とは逆(ぎゃく)の、
悪鬼(あっき)や化け物(ばけもの)のたぐいですから、
そのような化け物、ゲテモノに、
祈りをささげに行くことになります。

悪鬼や化け物に祈りをささげていけば、
自分の生命と人生は、
それら悪鬼や化け物のような、
悪(あ)しきもの、間違(まちが)ったものに、
なっていきます。

自分の生命が、悪(あ)しきもの、
間違ったものになっていったならば、
当然、さまざまな形で、
不幸がもたらされることになります。


だから、正月などに、
神社や仏閣(ぶっかく)に行くのは、
いいことどころか、
新年早々、不幸になる原因(げんいん)を、
作りに行っているに過(す)ぎません・・。

実際、真剣に祈れば祈るほど、
不幸になっていきます。


ひどいことを言っているようですが、
本当のことだから、しょうがありません。
間違った宗教に祈るということは、
自分の生命と人生を、
不幸にしてしまうんです。
神社だから、仏閣だから、
神聖(しんせい)なのではないか・・
と考えるのは、間違えで、
本当は、逆に、
神社や仏閣などの間違った宗教が、
不幸の根源(こんげん)には、あります・・。


これが、本当のところです。


そのことに、早く早く、気づいてほしい・・・。



それとは、逆に、
さきほどの
『神天上(かみてんじょう)の法門』から、
考えるならば、
神々は、法華経(ほけきょう)の行者を守る、
契約(けいやく)を、結(むす)んでいるわけだし、
ようするに、自分が、
法華経の行者になれば、
神々は、その人を、守るために、
天上から、戻(もど)ってくるわけです。


その重要な『法華経(ほけきょう)』ですが・・・、
法華経といっても、
その時代時代によって、
その表現の仕方が、違います。

そして、今の時代の法華経とは、
実は、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
の七文字なんです!

この『南無妙法蓮華経』の七文字が、
法華経なんです。

だから、この『南無妙法蓮華経』の七文字が、
生命における、
『幸せの元(もと)』『幸せの原料』に、
なるわけです。
そして、神々は、
その『幸せの元』『幸せの原料』を、
食べた、残りかす、(香り(かおり)とか、匂い(におい))
を、食べて生きているわけなので、
ぼくたちが、その『幸せの原料』を、
たくさん、たくさん、
食べれば食べるほど、
神々が、自分の周(まわ)りに、集まってくるわけです。
神々が、自分の周りに、集まってくるので、
当然、その自分は、
幸せになっていくわけです!!!

その『幸せの元』『幸せの原料』を、
食べるということが、
実は、『南無妙法蓮華経を、となえる!』
と、いうことです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえれば、となえるほど、
『幸せの原料』を、たくさん、食べることになり、
当然、幸せの、残りかす、
幸せの香りや匂(にお)いが、たくさん、でるので、
神々は、大いに喜び、
どんどん、集まってくるわけです。

そして、神々が、集まれば、集まるほど、
当然、自分は、守られ、
幸せになっていきます。


それが、
創価学会(そうかがっかい)が、実践している、
『南無妙法蓮華経を、となえる!』
という、生命を『幸せ』に変革していく、
仏法(ぶっぽう)の実践(じっせん)です。
だから、神々は、神社、仏閣にいるのでは、なく、
『南無妙法蓮華経を、となえる人』のもとに、
いるんです。
『南無妙法蓮華経を、たくさん、
 となえる人』のもとに、
神々は、たくさん、集まってくるわけです。

しかも、南無妙法蓮華経の法華経(ほけきょう)を、
現実に正しく実践しているのは、
創価学会だけなので、
『創価学会の中で、
 南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を、
 実践している人』のもとに、
神々は、集まってくることに、なります。
だから、創価学会の人たちは、
幸せになっていけるわけです。


この話しは、
具体的に、人間のような形をした、
神々が、いるという説明ではなくて、
『幸せになるための、生命の原理』を、
わかりやすく、説明したものです。

そして、実際に、そのとおりになります!!!!


それは、
幸福と勝利の姿(すがた)を通(とお)して、
世界192ヶ国の、
創価学会の人たちが、証明しています・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

タイムマシンによろしく144

2014-01-07 09:27:47 | アニメ
このまえ、
ビデオで、
アニメ『火の鳥・異形編(いけいへん) 』を、見ました。

戦国時代、女性でありながら、
男として、育てられた、
左近介(さこんのすけ)は、
そんな父を、ずっと憎(にく)んでいた。

非道(ひどう)のかぎりを、つくした父は、
重い病気にかかり、死にかけていた。

そんな中、
800年も生きているという噂(うわさ)がある、
八百比丘尼(やおびくに)を、
家来(けらい)が、左近介の父のもとに、つれてくる。

八百比丘尼(やおびくに)は、
その父の病(やまい)を、治(なお)すことができる!と、
断言する。

自分が、女性に戻(もど)るためには、
父に死んでもらわなければならない。
そう考えた左近介は、
八百比丘尼を、殺すために、
山奥の寺に、でかける。
そして、左近介は、八百比丘尼を、斬(き)ろうとする。

すると、八百比丘尼は、
「待っておりました。わかっております」
と言う。
そして、左近介に、斬られ、殺される。

左近介は、山を降(お)りようとするが、
何度、城に戻る道を行っても、
もといたところ、山寺に、戻ってしまう。
そして、自分が、不思議な時空(じくう)のはざまに、
閉じ込(こ)められてしまったことを、知る。
その空間は、なんと、自分が生まれる前の、
現実の時間より、30年も前の過去の空間だった。

その山寺には、
さまざまな、傷(きず)ついた人々、病気の人々が、
やってきた。
この山寺に、
『火の鳥』の光り輝(かがや)く羽(はね)があり、
その羽で、さわられると、
どんな病(やまい)も傷も、
治(なお)ってしまうからだ。

左近介は、閉(と)じ込められた空間の中で、
外の世界に、出ることは、できない!
ならば、ともかく、
今、ここで、できることを、しよう!と、
自分が八百比丘尼の代わりに、
『火の鳥』の羽を使って、
来る人、来る人の病(やまい)や傷を、
つきることなく、治しつづける。

そのうち、人間だけでなく、
異次元(いじげん)の化け物、怪物たちも、
病気や、傷を、治してもらいに、やってくる!
左近介は、ためらうことなく、
火の鳥の羽で、怪物たちの傷を、
治(なお)し続ける。

そして、十数年たったのち、
里(さと)から来た人間に、
その土地の領主に、世継(よつ)ぎが、
生まれ、名前が、
「左近介」であることを、告(つ)げられる。

そして、自分が殺したのは、
まさしく、自分自身だったことに、
気づき、18年後、
自分自身を、左近介が、
殺しにくることを、理解する。

そのとき、
左近介の前に、
火の鳥が、出現し、
左近介に、告(つ)げる。
「あなたは、人を殺した!
 その罪(つみ)によって、未来永劫(えいごう)に、
 人に、殺され続けるのです。」

「そして、その罪を、消すために、
 不幸な人々、または、異次元の不幸な化け物たちを、
 火の鳥の羽で、永遠に救(すく)い続けなければならない!
 そして、あなたの罪が消えた時に、
 あなたは、
 この閉ざされた異空間(いくうかん)から、
 でることが、できる」

と・・・・・。

この物語の結末(けつまつ)では、
左近介が、外の世界に出ることが、
できたのかは、あかされていない。
けれど、やはり、外の世界に出られたことを、
願いたいのが、心情(しんじょう)だろう・・。


人を殺した罪によって、
殺されても、殺されても、
永遠に、人に、殺され続ける。

生命は永遠であり、
いわゆる、前世とか来世があり、
生まれては死に、また生まれては、死んでいくという、
生命の輪廻(りんね)を、永遠に繰(く)り返すという、
仏教観から、きているストーリーだと
思うけれど、そうだとしたら、
あまりにも、残酷(ざんこく)である!

けれど、そう考えたとき・・、
今の自分を見るとき、
今の自分の苦しみや、
辛(つら)い境遇(きょうぐう)、
あるいは、今の自分の姿は、
過去のさまざまな悪行によって、
きているのではないか?と、
思うことは、できないだろうか・・・?

自分は、ほんとうは、
過去世(かこせ)に、とんでもない、
人殺しを、してきたかもしれない?と、
思ったことは、ないだろうか?

だから、いまの、苦しみや境遇、
自分の望みたくない姿が、あると、
考えたことは、ないだろうか?

現在の自分の境遇、生(お)い立ち、環境(かんきょう)、
さまざまな運命、宿命(しゅくめい)、
それらのものが、すべて、
はるか昔からの過去世の、
さまざまな人殺しなどの悪行から、
きていると、考えたなら、
なんとなく、納得(なっとく)がいくと、
思うことは、できないだろうか?

そう考えた時、
たしかに、すべての人が、
平等でなく、すべて違(ちが)った境遇と運命を持ち、
差別(さべつ)のある世界に、存在していることが、
なんとなく、理解できるのでは、
ないだろうか?


このアニメ『火の鳥・異形編 』では、
左近介は、人を殺した罪を、消すためには、
死んでは生まれ、また、死んでは生まれながら、
永遠に人を、救い続けなければならないと、
されている。
これは、小乗(しょうじょう)仏教の、
「歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)」の、
考え方だと、思うけれど、
これだと、人は、
生まれて死ぬという、ひとつの一生、
今の一生の中では、救われることはなく、
生まれては死に、死んでは生まれるという繰り返しを、
永遠に繰(く)り返し、その中で、
永遠に人を救う修行をしていかないかぎり、
罪は、消えず、救われることは、ないことになる。

それは、すなわち、自分が、今、
生きている間に、罪が消えることは、ないので、
決して、『幸せには、なれない!』ことになってしまう。

そんなんだったら、仏教なんて、くだらないし、
なんの役(やく)にもたたない。
ただ、抹香臭い(まっこうくさい)だけだから、
やらないほうがいい!
ということになってくる。

だから、それらの仏教は、
どんどん、形骸化(けいがいか)して、
たんなる、おすがり宗教や観光宗教、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)になるしかなかった。

また、神社信仰にしても同じだけれど、
それらは、
間違った、デタラメの産物(さんぶつ)なので、
役にたたないどころか、
不幸になる原因になってしまう。

間違ったデタラメの宗教に祈るということは、
その間違ったデタラメの宗教に、
自分の生命と人生をゆだね、
ささげていくことになります。

間違ったデタラメの宗教に、
自分の生命と人生をゆだねていけば、
当然(とうぜん)の結果として、
自分の生命と人生は、
デタラメの間違ったものになっていきます。
そして、自分の生命と人生が、
間違ったデタラメのものになっていったなら、
その結果として、
さまざまな不幸が、
もたらされることになります。

それが、日本に、一般的に充満(じゅうまん)している、
葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、
神社信仰などです。


少し、横道にそれてしまったけれど、
生まれては死に、死んでは生まれるという繰り返しの中、
永遠のように長い修行をしていかないかぎり、
罪は、消えず、救われることは、ないとしたら、
そんなもの、人はやろうとは思わないし、
興味(きょうみ)を持たない。

ところが・・、
本当の仏法(ぶっぽう)は、違う!
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、
違うんです!!

死んでは生まれ、生まれては死ぬという、
無限の繰り返しを、しないかぎり、
救われないなんて、
そんな、現実味がなく、くだらないものだったら、
創価学会(そうかがっかい)の人たちは、
ひとりも、この仏法を、信じないし、
実践(じっせん)したりは、しません・・!


本当の仏法(ぶっぽう)は、そうではない!!!


今、生きている、この一生のうちで、
必ず、罪が消え、必ず、幸せになれる!

単純(たんじゅん)に言えば、
『やったら、必ず、結果が出る!!』
ということです。


それが、
創価学会の人たちが、となえている
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
であり、
祈り、信じる対象(たいしょう)である、
『ご本尊(ほんぞん)』です。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

南無妙法蓮華経は、よく、
太陽に、たとえられる。

太陽が、上がったならば、
小さな影(かげ)など、たちどころに、消えてしまう。
南無妙法蓮華経を、となえることからしたら、
自分の過去世の罪など、「小さな影」に、
すぎない!ということです!

南無妙法蓮華経を、となえることは、
自分の生命に、太陽を昇(のぼ)らせることに、
等しい!
太陽が、昇ったならば、
その生命の上では、不幸という影は消え、
幸せという歓喜(かんき)の光が、輝(かがや)いてくる!
それは、すなわち、
『必ず幸せになれる』ということです。

また、実際に、
そうなっていくのが、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)です!

だから、悩みを解決していけるし、
夢や希望をかなえていける。
どんな苦難(くなん)も乗り越えて、
幸せと勝利をつかんでいける。


それは、そのまま、
世界192ヶ国に広がる、
創価学会の人たちの、
幸せという結果として、
現実に、花開いている・・・・・・!!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・