タイムマシンによろしく!!

明日は、タイムマシンがなくても、やってくるから・・。

タイムマシンによろしく92

2012-08-28 09:20:04 | ドラマ
このまえ、
「がんばって、いきまっしょい!」という、
ドラマを見ました。


岩井俊二監督の『花とアリス』という映画を見て、
その映画で主演(しゅえん)していた鈴木杏が、
ドラマ「がんばって、いきまっしょい!」
にも、でていたので見たくなったのですが、
その「がんばって、いきまっしょい!」の、
ドラマの登場人物が、


「自分にウソついたら、負(ま)ける!」


って、言っていた。


自分にウソついたら、負ける!


この負けは、確(たし)かに、
表面上(ひょうめんじょう)は、
人に、どう見えようと、
自分の心の中では、
絶対に、消(け)すことが、できない、
『負け』かもしれない。


昨今(さっこん)は、
「勝ち組」とか「負け組」とか、
言うけれど、
それは、一般的(いっぱんてき)に、
表面的な部分で、
判断(はんだん)されている。


それは、だれでも望(のぞ)むものであり、
だいたい、親(おや)にしても、
子供には、
社会的にも、経済的にも、
恵(めぐ)まれた人生であってほしいと、
願う。

それにプラスして、
自分のやりたいこと、
自分の好き嫌い、
人のためになることをしたいとか、
世界の平和に貢献(こうけん)したいとか、
世界と人々の幸せになることをしたいとか、
さまざま要素(ようそ)が相(あい)まって、
自分の人生が、
形成(けいせい)されていく。


サステナブルな社会(持続可能な社会)とか、
SDGsなど、
環境(かんきょう)や人道(じんどう)に
基(もと)づいているかも、
重要になってくる。 


けれで、やはり、
表面的な勝ち負けは、
避(さ)けることは、できない。


生きなければならないからだ。


そして、
表面的な勝利だけを、
求(もと)めてしまう場合も、
あるかもしれない。


確かに、表面的な部分も、大切(たいせつ)だ!


けれど、表面的には、
人に、うらやましく思われている、
勝ち組の人でも、
ほんとうに、心の中で、

「自分は、勝ったと思っているか?」

は、疑問(ぎもん)だと思う・・。


ただ、単(たん)に、
表面的な、
「勝ち組」というブランドを、
追(お)い求めていただけかも、
しれない・・。


そして、


「自分は、自分にウソを、ついていないのか?」


と、自分の心に聞いたとき、
心の中には、
荒廃(こうはい)たる荒野(こうや)しか、
残(のこ)っていない場合も、
あるかもしれない・・。


本当の勝利、
それは、
死(し)ぬ時に、

『自分は勝った!!』

と、こころから言って、
ニッコリと微笑(ほほえ)んで
死んでいけるような、
生きざまかもしれない。


そこには、
自分に対して、
ウソを、つくような生き方は、
決(けっ)して、無(な)いからだ。


自分にウソを、つかない生き方、

それは、心からの勝利を、生む。


けれど、
自分にウソを、つかない生き方って、
いったい、どうしたら、できるんだろうか?


創価学会二代会長の、
戸田城聖(とだじょうせい)先生が、
仏法(ぶっぽう)の真髄(しんずい)は、

「自分自身に、生ききることだ!」

と、言っている。

これは、単に、
自分本位(ほんい)に、
わがまま放題(ほうだい)、生きるということでは、
けっして、ないと思う。


自分自身、
それは、どんなに、もがいたって、
他(ほか)の人とは、違(ちが)う。

自分という存在(さんざい)は、
他には、
絶対に、ありえない!

だから、人と比(くら)べても、
どうしようもない。

ありのままの自分を、
ありのままの一つしかない個性(こせい)を、
人のためにも、自分のためにも、
全力で、開花(かいか)させていく生き方!


それが、
「自分自身(じぶんじしん)に生ききる!」
という、
生き方かも、しれない。


では、そういう生きかたを、
実際(じっさい)に、やるには、
どうしたらいいのか?


それには、はっきり言って、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえるしかない!』


ご本尊(ほんぞん)に、日々、
南無妙法蓮華経を、となえて、となえて、
となえぬいて、生きるしかない!


ご本尊(ほんぞん)とは、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが、
信じ、祈っている対象の本尊で、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、
未来のすべての民衆のために書き表した、
紙などに描かれた曼荼羅(まんだら)で、
仏(ほとけ)の生命(せいめい)そのものを、あらわしたものであり、
自分の生命そのものを表現(ひょうげん)したものでもあり、
その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることを、
あらわしたものが、
ご本尊(ほんぞん)です。


その、ご本尊に向(む)かい、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
不思議(ふしぎ)と自分の中の
悪しき惰性(だせい)や怠惰(たいだ)が消え去(さ)り、
真実の自分、
ウソのない自分と立ち向かわないわけには、
いかなくなってくる!


そして、
自分自身に挑戦しようとする、
勇気が、
湧(わ)き上がってくる!


そして、
自分にウソをつかない生き方へと、
立ち戻(もど)ることが、
できるようになっていく。


それは確かに、
勇気(ゆうき)のいることかもしれない!


けれど、そうであるからこそ、
最高に素晴らしく、尊(とうと)く、
魅力的(みりょくてき)な行為(こうい)であることは、
間違いない!!


なぜなら、それは、

「自分にウソをついたら負ける」

とは、正反対の結果(けっか)、

すなわち『勝利』を、
必ず、生(う)むからです!!


だから、
「自分にウソをつかない生き方」をしたいなら、
『南無妙法蓮華経を、となえぬくしかない!』と
言い切(き)ることが、
可能(かのう)となる!!


なぜならば、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
世界に、
たった一つしかない自分の中から、
真実の自分を、
本当の自分を、
無限(むげん)に開花させゆく、
唯一(ゆいいつ)の法則だからです!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


この生命の法則(ほうそく)に、ウソはない!


だから、創価学会員は、
南無妙法蓮華経の信仰(しんこう)を、
最後まで、貫(つらぬ)いていったときに、

『自分は、本当に勝った!!!』

という、
心の底(そこ)からの、
一点のウソもない、
喜びと歓喜(かんき)と、幸せと満足(まんぞく)を、
世界中のどんなセレブよりも、
深く!強く!
感じ、味(あじ)わうことが、できる!


本当の勝利者とは、
そういう人を、言うのではないのだろうか。


逆(ぎゃく)に、
どんなセレブであろうと、
どんな成功者であろうと、
この南無妙法蓮華経の生命の法則に背(そむ)くかぎり、
本当の幸せ、
本当の勝利感、
本当の歓喜と満足は、
けっして、感(かん)じ、
味わうことは、できない!


なぜなら、
南無妙法蓮華経は、
生命の法則であると共(とも)に、
「究極(きゅうきょく)の自分」の法則であるがゆえに、
南無妙法蓮華経の法則に背(そむ)くことは、
『自分の法則』に背くことになり、
自分自身にウソを、つき、
自分自身に背くことに、なってしまう。


それは、まさしく、

「自分にウソを、ついたら負ける!」

という現象(げんしょう)を起こし、
生命の上では、
その人は、
「負け組」になってしまうからです・・・・!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく91

2012-08-25 14:00:41 | 映画
先日、
近ごろは、積極的(せっきょくてき)に
涙(なみだ)を流す男性が
増えているという話しを、したんですが、
ある種(しゅ)のストレス発散(はっさん)と
生活の活力になるということで、
みんなで、一緒(いっしょ)に、
涙を流そうというサークルがあって、
みんなで、涙の出る映画を見て、
一緒に、泣いていた!
という話しをしました。


その「一緒に泣(な)こうサークル」で、
その時、たまたま見ていたのが、
『いま、会いにゆきます』
という映画でした・・。


ぼくも、以前、
見たことがありましたが、
確(たし)かに、泣ける、
いい映画でした。



澪(みお)は、二十歳のときに、
横断歩道で、
車と接触(せっしょく)して倒(たお)れてしまう。


車に突(つ)き飛ばされたショックで、
澪(みお)は、
なぜか9年後の未来に
タイムスリップしてしまう。


そして、タイムスリップした世界で、
澪(みお)、自身は、
記憶を、失ってしまっていたが、
澪の夫、巧(たくみ)と、
自分の息子、佑司(ゆうじ)に、
再開する。
(20歳の時点では、
子供もいないし、結婚も、していない)


そして、そのタイムスリップした、
9年後の世界では、
自分は、すでに、

「一年前に、死んでいた」

ことを、
知ってしまう。


雨の季節(きせつ)に、
澪は、タイムスリップして、
自分が死んだあとの世界にやってきて、
6週間後の、
雨の季節の終わりとともに、
また、タイムスリップして、
20歳の、もとの世界に、
もどっていく。


目覚(めざ)めると病院だった。

タイムスリップして、
6週間の奇蹟(きせき)の後、
澪が20歳の現実の世界にもどると、
澪は、未来の夫のもとに、
会(あ)いに行くことを、
決意する!


さきほど話した、
タイムスリップによって、
自分が28歳で死ぬことを知っていた澪は、
その後、
夫と息子のために、
一冊(いっさつ)の絵本(えほん)を、
書き上げる。

その絵本には、
自分が死んでから、一年後の雨の季節に、
二十歳の澪が、やってきて、
雨の季節の終わりとともに、
帰っていくことが、
描(えが)かれている。


未来を、
子供と夫の幸せのために、
伝(つた)えておきたかったからだ!


また、タイムスリップした時の話しに
戻(もど)りますが、
タイムスリップして、
自分が死んでから
一年後の世界にやってきた澪は、
自分の日記から、

自分が、死んでしまったこと、

そして、自分は、
雨の季節の終わりとともに、
もとの世界に帰っていくことを、

知ってしまう。


そのため、
かぎられた6週間のあいだに、
子供と夫のために、
さまざまな手を、打っていく。

炊事(すいじ)、洗濯(せんたく)、家事(かじ)が、
へたくそな夫のために、
子供に、炊事、洗濯、家事を、
一生懸命(いっしょうけんめい)、教えこむ。

また、バースデーケーキを
今後12年分予約(よやく)して、
子どもが18歳になるまで、
毎年、届(とど)くようにした。


そして、雨の季節の終わりと共に、
澪は、帰っていく・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


自分が、いなくなった未来のために、
手を打(う)っていく。


それは、未来が、見えているから、
できるのかも、しれない。


けれど、
それと同じようなことをした、
人間が、いる。

スケールは、まったく違(ちが)うけれど、
それが、釈尊(しゃくそん)です。

釈迦(しゃか)ともブッダとも、
呼ばれています。


釈尊は、自分が死んでから、
二千年後の世界のために、

『法華経(ほけきょう)』

を、残(のこ)す。

まるで、澪が、
自分が死んだ未来のために、
絵本を、書き上げたように・・。


釈尊は、自分が死んでから、
二千年後の、
未来の、すべての民衆を、
幸せにしたいがために、
法華経(ほけきょう)に残しておく!


自分が死んでから、
二千年後の世界では、
自分(釈尊)の教えは、すべて、
力(ちから)を、失(うしな)い、
釈尊の仏教は、かえって、
人々を、まどわし、苦しめ、不幸にする、
元凶(げんきょう)になってしまう。

だから、二千年後の世界では、
わたし(釈尊)の仏教は、
すべて、捨てなさい!と、
メッセージを送る。


その釈尊が、
捨てなさいと言っている仏教、
人々を苦しめ、不幸にする
元凶(げんきょう)となってしまう仏教が、
現代、日本に、はびこっている、
観光仏教や葬式仏教(そうしきぶっきょう)です・・。


だから、それらの仏教に
効力(こうりょく)があるわけがなく、
逆(ぎゃく)に、
人々を不幸にする、
大きな原因(げんいん)になってしまいます。

また、神社信仰(じんじゃしんこう)にしても同じで、
人々を不幸にする原因にしかなりません。


では、どうしたらいいのか・・・。


さらに、釈尊のメッセージは続きます。

私(釈尊)が死んでから、
二千年後・・、

そのときに、
私(釈尊)の師匠(ししょう)が、
今の日本がある場所に出現して、
全民衆を、救い幸せにすることができる、
真実(しんじつ)の仏法(ぶっぽう)を、
広げていくだろう。
と・・!


それが、
釈尊の法華経に、たくされた、
メッセージだと、
言えます。


そして、釈尊の死後、
二千年後の世界に出現した、
釈尊の師匠というのが、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。


そして、
釈尊の死後、二千年後の未来、
全民衆を救(すく)い、幸せにすることができる、
真実の仏法(ぶっぽう)というのが、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』

です。


この南無妙法蓮華経は、
釈尊を、仏(ほとけ)にした、
釈尊を、
『われ、仏なり!』
と悟(さと)らさせた法(ほう)です!

また、その法を、
釈尊に教えた師匠が、
日蓮大聖人ということに、
なります。


一般的な時間の概念(がいねん)から考えると、
理解しがたいかもしれませんが、
仏法で説く、
永遠(えいえん)の生命観(せいめいかん)から見るならば、
これは、決して、
間違(まちが)ったことでは、
ありません!!

それは、あたかも、
映画「いま、会いにゆきます」で、
澪が描いた絵本が、
決して、間違いではなかったように、
未来の、すべての民衆のために、
残されている・・・・・・・・・!


そして、
全民衆に、幸せを、もたらす、
真実の法(ほう)であり、力(ちから)である、
『南無妙法蓮華経』を、
真に受(う)け継(つ)ぎ、
世界に広めているのが、
創価学会(そうかがっかい)であることも、
言っておきたいと思います・・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・


タイムマシンによろしく90

2012-08-16 09:05:15 | 願い
先日、
創価学会の人が、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえると、

なぜ、涙を流したりするんだろう?

という話しを、したんですが、
もう少し、その話しを、
展開(てんかい)していきたいと思います。

それは、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
涙(なみだ)を流したりする人がいるとかいう、
現実の幸せとは、あまり、
関係ないことではなくて、


「創価学会(そうかがっかい)の人たちは、
なぜ?
南無妙法蓮華経を、となえると、
病気が治(なお)ったり、
経済苦を、解決できたり、
家庭不和(かていふわ)を、解決できたり、
すべての人が、
環境(かんきょう)も悩みも、
望みも、希望する幸せも、
ひとりひとり、
ことごとく、違(ちが)うにもかかわらず、
そのすべてに対応(たいおう)して、
その悩みや、問題を解決したり、
願いを、かなえたりできるんだろう?」


ということです。


南無妙法蓮華経が、
コンピューターのような、
ひとつの決まったプログラムであるならば、
それは、ぜったいに、
有り得(え)ないことです。

なぜならば、
プログラムであるならば、
ひとつの問題に対して、
ひとつの回答(かいとう)、
ひとつの結果(けっか)しか、
出しえないからです。

ところが、人間の悩み、希望は、
千差万別(せんさばんべつ)です。

千人いれば、
千個の悩(なや)み、希望がある。

ひとつのプログラムであるならば、
そのすべてに対応することは、
不可能(ふかのう)だからです。


だとしたら、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
なんなのか?

南無妙法蓮華経が、システムではない!としたら、
南無妙法蓮華経とは、なんなのか?


その答えが、
釈尊(しゃくそん/釈迦[しゃか]・ブッダ )の
法華経(ほけきょう)に、
隠(かく)されていると思う。


先日、話しましたが、
法華経の如来壽量品(にょらいじゅりょうほん)の、
第16の最後に

『毎自作是念(まいじさぜねん)
以何令衆生(いがりょうしゅじょう)
得入無上道(とくにゅうむじょうどう)
速成就佛身(そくじょうじゅうぶっしん)』

と、あります。

法華経(ほけきょう)は、
釈尊の仏法の真髄(しんずい)であり、
その中でも、もっとも大事なのが、
壽量品(じゅりょうほん)第十六です。

その最後の部分が、
先日も紹介した、
『毎自・・・・~・・・佛身』
で終わる、ご文です。


だいたい、どういう意味かというと、

『仏(ほとけ)は、いつも、思い願っている!
どうしたら、すべての衆生(民衆)を、
真実(しんじつ)の幸せへと、みちびき、
できるだけ速く、仏のような最高の幸せ、
人生における最高の勝利を、
つかませることが、できるだろうか!』

と、
先日、話した通りです。


仏(ほとけ)は、
すべての人間の真実の幸せを、
願っている。

ただ、ひたすら、
一秒も、かかさず、
民衆のことだけを、
民衆の幸せだけを、
永遠に思い、願っている!

その民衆を幸せに導(みちび)こうとする、
『思い』そのものが、
仏(ほとけ)の真髄(しんずい)であり、
法華経の真髄!


そうなると、テーマは、

いかにして、仏(ほとけ)は、
民衆を幸せに導こうとする、
『思い』を、実現(じつげん)するのか?

ということになります。

そして、その仏の『思い』を実現する、
釈尊の法華経に隠(かく)された秘宝(ひほう)が、
実は、
創価学会の人たちが、日々、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。


釈尊が伝(つた)えたかったのは、
この、『南無妙法蓮華経』なんです。


いわば、
仏(ほとけ)が民衆を幸せにしようとする
『思い』を実現する、
決定的方法であり、手段(しゅだん)が、
『南無妙法蓮華経』だと、
いうことです。

手段というと、
なにか申し訳(もうしわけ)ありませんが、
南無妙法蓮華経とは、
「仏(ほとけ)の生命(せいめい)」そのものを、
表現したものであり、
その、「仏の生命そのもの」の中に、
民衆の幸せを願う「思い」も、
民衆を幸せに導く「願い」も、
人々を幸せにするための方法も、
幸せにする無限(むげん)の力も、
法則(ほうそく)も、
すべて、含(ふく)まれているということです。

だから、
南無妙法蓮華経は、
仏(ほとけ)が、
民衆を幸せにするために残(のこ)した、
『伝家(でんか)の宝刀(ほうとう)』
だということです。




「どうして、願いが、かなうのか・・・?」


最初のテーマに戻(もど)ると、
『南無妙法蓮華経』は、
さきほど言ったように、
仏法(ぶっぽう)の真髄であり、
法華経の真髄です。

仏法の真髄(しんずい)であり、
法華経の真髄とは何か?
といったら、
それは、
「仏(ほとけ)の生命そのもの」のことなんです。

「仏の生命そのもの」の中に、
悩みを解決する力も、
夢をかなえる力も、
幸せになる無限の可能性(かのうせい)もある!!
ということです。


実(じつ)は、
『仏の生命そのもの』に、
幸せになる、最大の鍵(かぎ)がある!


そして、
仏の生命そのものが、何か?
といったら、
それが、

『南無妙法蓮華経』

なんです。

だから、
民衆を幸せに導こうとする、
『思い』そのものは、
「仏の生命」として凝縮(ぎょうしゅく)され、
その『仏の生命』を凝縮して、
パックしたものが、
『南無妙法蓮華経』だと、
表現できます。


「仏の生命」が、
仏(ほとけ)の思いを実現し、
人々を幸せにする力ならば、
「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」も、
仏の思いを実現し、
人々を幸せにする力だと、
いうことです。

だから、
『仏(ほとけ)の生命と仏の思い』は、
『南無妙法蓮華経』と別(べつ)のものではなく・・、
この2つは、まったく異(こと)ならない、
同一のもののはずです!!!


そう考えた時、

だとしたら・・・・


南無妙法蓮華経とは、
まぎれもなく、
『仏(ほとけ)の思いそのもの』では、
ないのだろうか?

それだったら、納得(なっとく)がいく!


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・

南無妙法蓮華経が、

『すべての人の、すべての一人の幸せを願う、
仏(ほとけ)の思いそのもの!』

で、あるのなら、
南無妙法蓮華経は、
どんな人のどんな悩みにも、
願いにも、
対応できる。

病魔(びょうま)に苦しむ人に対しては、
南無妙法蓮華経の仏(ほとけ)の思いは、
町を破壊(はかい)つくす大怪獣(だいかいじゅう)のように、
荒れ狂い、
病魔をやっつけていく。

また、
家庭不和で苦しむ人に対しては、
南無妙法蓮華経の仏の思いは、
まるで、
少女が、恋人を思うように、
純粋(じゅんすい)に、清(きよ)らかに、
家族の心を、変えていく。

さまざまな経済苦(けいざいく)で
苦しむ人に対しては、
南無妙法蓮華経の仏(ほとけ)の思いは、
最高の知恵とアイデアとなって、
現れて、
現実の苦境(くきょう)を変えていく!

また、南無妙法蓮華経が、
仏の『民衆の幸せを願う、思いそのもの』
であるならば、
先日(せんじつ)、話したように、
ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえた時に、
涙を、ぼろぼろ、流すのも、
納得がいく!!!


すべての一人を、
ずへての民衆を、
どんなことがあっても
何がなんでも、
ぜがひでも、
どうしてでも、
絶対に、幸せにしたい!
絶対(ぜったい)に、必ず、してみせる!!!


その『思いそのもの』が、
南無妙法蓮華経であるとしたら、
南無妙法蓮華経は、
どんな人間が、どんな時に、
となえたとしても、
そのあらゆる状況(じょうきょう)、
あらゆる悩み、
あらゆる願いに、対応して、
その、すべての民衆の幸せを願う、
『仏の思い』が、
その人だけのために、
爆発(ばくはつ)していく!!!


だから、南無妙法蓮華経は、
どんな人の、
どんな悩みや、願いにも対応して、
その人を、幸せにしてくれる!


ぼくたちが、南無妙法蓮華経をとなえるとき、
その、『仏(ほとけ)の思い』は、
ぼくたちの生命の中を、かけめぐる!

そして、その時、その人にとって、
もっとも良(よ)い、最高の結果として、
あらわれてくる!!


それが、創価学会の人たちが、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
環境も悩みも、
望みも、希望する幸せも、
ひとりひとり、
ことごとく、違うにもかかわらず、
そのすべてに対応して、
その悩みや、問題を、解決し、
願いを、かなえ、
幸せになっていける理由の、
ヒントに、つながるかもしれない・・・。


南無妙法蓮華経は、
南無妙法蓮華経を、となえる、
その人の生命の中で、
仏(ほとけ)の思いとなって爆発(ばくはつ)してゆく。

だから、
どんな人の悩みも、解決でき、
どんな人の、夢や希望も、
かなえていける・・!

南無妙法蓮華経という、
『仏(ほとけ)の思い』は、
世界中のどんな人でも、
幸せと、勝利を、つかませてくれる!!!


それが、南無妙法蓮華経なのかもしれないと、
深(ふか)く、深く、
そして、強く、思った・・・・。


・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・