日蓮大聖人の御書(ごしょ)に、
一生成仏抄(いっしょうじょうぶつしょう)という、
御書が、あります。
御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が、書かれた、
論文や手紙などを、すべて、
集めたものです。
それぞれ、その論文や手紙の種類によって、
何々抄(しょう)とか、何々論とかの、
名前が、ついています。
その日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書の、
一生成仏抄の一部に、こう、あります。
『ただし妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と、
唱(とな)へ持(たも)つと、いうとも、
もし、己心(こしん)の外に、
法ありと思わば、
まったく妙法(みょうほう)にあらず、
そ法(不完全な法)なり。』
通解(つうかい)すると、
「ただし妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と、
となえ持(たも)っていると、いっても、
もし、自身の生命の外に、
法(ほう)があると思ったならば、
それは、まったく、妙法ではなく、
不完全な法である。」
妙法蓮華経とは、
究極(きゅうきょく)の法、究極の力(ちから)の名前です。
略(りゃく)して「妙法」とも、言います。
そして、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
この究極の法、究極の力を、
顕現(けんげん)した、
仏(ほとけ)の生命の名前です。
ぼくたちが、
南無妙法蓮華経を、となえるのは、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」と、
「自分自身」を、
交流させるためだそうです。
ぼくたち、人間は、
人生において、
さまざまな悩みや障害(しょうがい)に、ぶつかります。
そうすると、目先の悩みや障害によって、
目の前が、真っ暗になり、
希望や未来が、
見えなくなったりすることが、あります。
「もう、ダメだ!無理(むり)だ!」
「どうせ、おれなんか、こんなものさ!」
そこまで、いかなくても、
惰性(だせい)であったり、
しっかりした希望や未来を、
見ようとしないで、
日々を、過(す)ごしたり、
生きていたりすることも、あると思います。
こういう生命や心の状態を、
「無明(むみょう)」と、いいます。
字を見れば、わかるように、
「無明」とは、「明かりが無い!」
真っ暗な生命状態だと思います。
ほんとは、もっと、深い意味が、あるようですが、
「無明」とは、だいたい、
こういう心の状態だと、思います。
その「無明(むみょう)」を、打ち破(やぶ)るために、
ぼくたちは、南無妙法蓮華経を、
となえます。
さきほど、南無妙法蓮華経を、となえるのは、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」と、
「自分自身」を、
交流させるためだと言いましたが、
その南無妙法蓮華経を、となえると、
大宇宙の「大いなる力」である、
「妙法蓮華経」と「自分自身」の生命が、
交流して、つながっていく。
そうすると、
「自分自身の生命」に
「大宇宙の大いなる力」が入り込(こ)み、
また、自分の生命自体も、共鳴(きょうめい)して、
本来(ほんらい)の力である、
大宇宙の力が蘇(よみがえ)り、
復活(ふっかつ)していく。
そうすると、
「もう、ダメだ!無理だ!」
「おれなんか、こんなものさ!」
と、思ってしまう「無明」が、打ち破(やぶ)られ、
妙法蓮華経という、
「大いなる法」「大いなる力」は、
自分自身の生命から、湧(わ)き上がり、
開花していきます。
そうすると、悩みや問題が、解決し、
新しい、希望の人生が、
開けてくるわけです。
ところが、ひとつ!
問題が、あります。
それが、
日蓮大聖人が、言っている、
『ただし妙法蓮華経と、
唱(とな)へ持(たも)つと、いうとも、
もし、己心(こしん)の外に、
法ありと思わば、
まったく妙法にあらず、
そ法(不完全な法)なり。』
という、言葉です。
たとえ、
南無妙法蓮華経を、となえたとしても、
自分の外(そと)、自分という生命の外に、
法(ほう)があり、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」を、
自分の外、自分以外のところに、求めたならば、
妙法蓮華経という、
真実の法則(ほうそく)、宇宙の法則では、なくなり、
不完全な法に、なってしまう。
その結果、
たとえ、南無妙法蓮華経を、となえたとしても、
悩みや、問題が、解決しない場合があり、
本当の幸せが、
つかめなくなってしまう場合がある。
現実的には、
創価学会(そうかがっかい)が祈っている、
「ご本尊(ほんぞん)」と、「南無妙法蓮華経」は、
あまりにも、スゴイので、
別に自分の中に、妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があることを、
意識(いしき)しなくても、
本来、自分の中に南無妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があるので、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
無意識のうちに、自分の中にある、
「大いなる力」「大いなる法」が、発動(はつどう)し、
開花して、悩みや問題が、解決したり、
夢や希望が、かなったりしますが、
もう一歩、深く、立ち寄(よ)れば、
自分の中に、妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があることを、
信じ、自覚しないと、
「大きな境涯(きょうがい)」「絶対的な幸せ」は、
つかめない!ということです。
なぜなら、
自分の中に妙法蓮華経という、
無限の力があることを、信じないと、
日蓮大聖人が、いうように、
それでは、不完全な法になってしまい、
不完全ということは、
100%では、ない!ということだから、
南無妙法蓮華経という偉大(いだい)な力は、
本当には、自分の中から、
湧(わ)き上がり、開花していかないからです。
そして、その結論として、
日蓮大聖人は、こう言っています。
『ゆえに、妙法と唱(とな)へ、
蓮華(れんげ)と読まん時は、
我が一念(いちねん)を指して、
妙法蓮華経と、名(なづ)くるぞと、
深く信心を、発(おこ)すべきなり』
通解すると、
「ゆえに、妙法を唱(とな)え、
蓮華(れんげ)と読む時は、
(南無妙法蓮華経を、となえる時は)
自身の一念を指して、
(自分の心のことを、さして、)
妙法蓮華経と、名づけているのだ!と、
深く信じ、信心を、起こすべきである」
という意味です。
南無妙法蓮華経は、
自分の中にあるのであって、
南無妙法蓮華経という
「偉大な力」「偉大な法」は、
決して、
自分の外にあるものでは、ない!
すなわち、
『妙法蓮華経とは、自分自身のことだ!』
と、いうことです。
ここに、
創価学会が、実践する、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)と、
そのほかの宗教との、
決定的な違(ちが)いが、あります。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
キリスト教にしろ、一般的な仏教にしろ、
およそ、宗教と呼ばれるものは、
神や仏(ほとけ)を、
「大いなるもの」「絶対的なもの」
「聖なるもの」と、
あがめているかもしれない。
けれど、その神や仏(ほとけ)などの、
「絶対的なもの」「聖なるもの」は、
最初から、祈る側、
すなわち、ぼくたち人間とは、
かけはなれた、分離(ぶんり)したところに、ある。
だから、所詮(しょせん)、
人間は、神や仏には、なれないし、
いくら、祈ったところで、
真実の幸せは、つかめない!
ということに、なってしまう。
それらの宗教は、
神や仏を、あがめれば、あがめるほど、
もっとも大切な人間が、自分が、
どんどん、卑小(ひしょう)
になっていってしまう。
神や仏が、人間とは、
隔絶(かくぜつ)した存在である以上、
神や仏を、偉大だ!偉大だ!と、
あがめれば、あがめるほど、
結局、人間は、あわれになり、
みじめになる一方です。
だから、どうしても、
人間は、神や仏の、
奴隷(どれい)のような存在になっていってしまう。
現実的に考えて、
このような状態で、
人間が、幸せになれるとは思われません!
ところが、
創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、違う!
最初に話したように、
妙法蓮華経とは、
究極の「大いなる法」「大いなる力」の、
名前です。
そして、南無妙法蓮華経とは、
その究極の「大いなる法」「大いなる力」を、
顕現(けんげん)した、
仏(ほとけ)の生命の名前です。
その仏の生命、
南無妙法蓮華経という、
「大いなる法」と「大いなる力」を有(ゆう)した、
仏(ほとけ)の生命は、
自分の外にあるのでは、なく、
『自分の中』にある!!!!!
その無限の可能性を秘(ひ)めた、
南無妙法蓮華経という、
仏の生命が、自分自身の中にある以上、
その「大いなる法」「大いなる力」を有した、
仏(ほとけ)の生命を、
自分自身の中から、引き出し、
自分自身の中から、開花させていけば、
いいわけです。
それが、できるのが、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法であり、
その現実的な実践が、
「南無妙法蓮華経を、となえる」
と、いうことです。
だから、
日蓮大聖人が、言うように、
自分の中に、妙法蓮華経は、あるんだ!
妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」は、
外のどこかにあるのではなく、
自分の中に、あるんだ!と信じ、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
その南無妙法蓮華経の偉大な力、無限の可能性は、
自分自身の中から、湧(わ)き上がり、
開花していく。
すなわち、
どんな悩みや問題も、解決し、
夢を、かなえ、幸せを、つかんでいける!
ここに、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の、
決定的な優位性(ゆういせい)があり、
世界が、創価学会の仏法を、
求める理由があります。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
一生成仏抄(いっしょうじょうぶつしょう)という、
御書が、あります。
御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が、書かれた、
論文や手紙などを、すべて、
集めたものです。
それぞれ、その論文や手紙の種類によって、
何々抄(しょう)とか、何々論とかの、
名前が、ついています。
その日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書の、
一生成仏抄の一部に、こう、あります。
『ただし妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と、
唱(とな)へ持(たも)つと、いうとも、
もし、己心(こしん)の外に、
法ありと思わば、
まったく妙法(みょうほう)にあらず、
そ法(不完全な法)なり。』
通解(つうかい)すると、
「ただし妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)と、
となえ持(たも)っていると、いっても、
もし、自身の生命の外に、
法(ほう)があると思ったならば、
それは、まったく、妙法ではなく、
不完全な法である。」
妙法蓮華経とは、
究極(きゅうきょく)の法、究極の力(ちから)の名前です。
略(りゃく)して「妙法」とも、言います。
そして、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)とは、
この究極の法、究極の力を、
顕現(けんげん)した、
仏(ほとけ)の生命の名前です。
ぼくたちが、
南無妙法蓮華経を、となえるのは、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」と、
「自分自身」を、
交流させるためだそうです。
ぼくたち、人間は、
人生において、
さまざまな悩みや障害(しょうがい)に、ぶつかります。
そうすると、目先の悩みや障害によって、
目の前が、真っ暗になり、
希望や未来が、
見えなくなったりすることが、あります。
「もう、ダメだ!無理(むり)だ!」
「どうせ、おれなんか、こんなものさ!」
そこまで、いかなくても、
惰性(だせい)であったり、
しっかりした希望や未来を、
見ようとしないで、
日々を、過(す)ごしたり、
生きていたりすることも、あると思います。
こういう生命や心の状態を、
「無明(むみょう)」と、いいます。
字を見れば、わかるように、
「無明」とは、「明かりが無い!」
真っ暗な生命状態だと思います。
ほんとは、もっと、深い意味が、あるようですが、
「無明」とは、だいたい、
こういう心の状態だと、思います。
その「無明(むみょう)」を、打ち破(やぶ)るために、
ぼくたちは、南無妙法蓮華経を、
となえます。
さきほど、南無妙法蓮華経を、となえるのは、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」と、
「自分自身」を、
交流させるためだと言いましたが、
その南無妙法蓮華経を、となえると、
大宇宙の「大いなる力」である、
「妙法蓮華経」と「自分自身」の生命が、
交流して、つながっていく。
そうすると、
「自分自身の生命」に
「大宇宙の大いなる力」が入り込(こ)み、
また、自分の生命自体も、共鳴(きょうめい)して、
本来(ほんらい)の力である、
大宇宙の力が蘇(よみがえ)り、
復活(ふっかつ)していく。
そうすると、
「もう、ダメだ!無理だ!」
「おれなんか、こんなものさ!」
と、思ってしまう「無明」が、打ち破(やぶ)られ、
妙法蓮華経という、
「大いなる法」「大いなる力」は、
自分自身の生命から、湧(わ)き上がり、
開花していきます。
そうすると、悩みや問題が、解決し、
新しい、希望の人生が、
開けてくるわけです。
ところが、ひとつ!
問題が、あります。
それが、
日蓮大聖人が、言っている、
『ただし妙法蓮華経と、
唱(とな)へ持(たも)つと、いうとも、
もし、己心(こしん)の外に、
法ありと思わば、
まったく妙法にあらず、
そ法(不完全な法)なり。』
という、言葉です。
たとえ、
南無妙法蓮華経を、となえたとしても、
自分の外(そと)、自分という生命の外に、
法(ほう)があり、
妙法蓮華経という
「大いなる力」「大いなる法」を、
自分の外、自分以外のところに、求めたならば、
妙法蓮華経という、
真実の法則(ほうそく)、宇宙の法則では、なくなり、
不完全な法に、なってしまう。
その結果、
たとえ、南無妙法蓮華経を、となえたとしても、
悩みや、問題が、解決しない場合があり、
本当の幸せが、
つかめなくなってしまう場合がある。
現実的には、
創価学会(そうかがっかい)が祈っている、
「ご本尊(ほんぞん)」と、「南無妙法蓮華経」は、
あまりにも、スゴイので、
別に自分の中に、妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があることを、
意識(いしき)しなくても、
本来、自分の中に南無妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があるので、
南無妙法蓮華経を、となえていると、
無意識のうちに、自分の中にある、
「大いなる力」「大いなる法」が、発動(はつどう)し、
開花して、悩みや問題が、解決したり、
夢や希望が、かなったりしますが、
もう一歩、深く、立ち寄(よ)れば、
自分の中に、妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」があることを、
信じ、自覚しないと、
「大きな境涯(きょうがい)」「絶対的な幸せ」は、
つかめない!ということです。
なぜなら、
自分の中に妙法蓮華経という、
無限の力があることを、信じないと、
日蓮大聖人が、いうように、
それでは、不完全な法になってしまい、
不完全ということは、
100%では、ない!ということだから、
南無妙法蓮華経という偉大(いだい)な力は、
本当には、自分の中から、
湧(わ)き上がり、開花していかないからです。
そして、その結論として、
日蓮大聖人は、こう言っています。
『ゆえに、妙法と唱(とな)へ、
蓮華(れんげ)と読まん時は、
我が一念(いちねん)を指して、
妙法蓮華経と、名(なづ)くるぞと、
深く信心を、発(おこ)すべきなり』
通解すると、
「ゆえに、妙法を唱(とな)え、
蓮華(れんげ)と読む時は、
(南無妙法蓮華経を、となえる時は)
自身の一念を指して、
(自分の心のことを、さして、)
妙法蓮華経と、名づけているのだ!と、
深く信じ、信心を、起こすべきである」
という意味です。
南無妙法蓮華経は、
自分の中にあるのであって、
南無妙法蓮華経という
「偉大な力」「偉大な法」は、
決して、
自分の外にあるものでは、ない!
すなわち、
『妙法蓮華経とは、自分自身のことだ!』
と、いうことです。
ここに、
創価学会が、実践する、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)と、
そのほかの宗教との、
決定的な違(ちが)いが、あります。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
キリスト教にしろ、一般的な仏教にしろ、
およそ、宗教と呼ばれるものは、
神や仏(ほとけ)を、
「大いなるもの」「絶対的なもの」
「聖なるもの」と、
あがめているかもしれない。
けれど、その神や仏(ほとけ)などの、
「絶対的なもの」「聖なるもの」は、
最初から、祈る側、
すなわち、ぼくたち人間とは、
かけはなれた、分離(ぶんり)したところに、ある。
だから、所詮(しょせん)、
人間は、神や仏には、なれないし、
いくら、祈ったところで、
真実の幸せは、つかめない!
ということに、なってしまう。
それらの宗教は、
神や仏を、あがめれば、あがめるほど、
もっとも大切な人間が、自分が、
どんどん、卑小(ひしょう)
になっていってしまう。
神や仏が、人間とは、
隔絶(かくぜつ)した存在である以上、
神や仏を、偉大だ!偉大だ!と、
あがめれば、あがめるほど、
結局、人間は、あわれになり、
みじめになる一方です。
だから、どうしても、
人間は、神や仏の、
奴隷(どれい)のような存在になっていってしまう。
現実的に考えて、
このような状態で、
人間が、幸せになれるとは思われません!
ところが、
創価学会が、実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、違う!
最初に話したように、
妙法蓮華経とは、
究極の「大いなる法」「大いなる力」の、
名前です。
そして、南無妙法蓮華経とは、
その究極の「大いなる法」「大いなる力」を、
顕現(けんげん)した、
仏(ほとけ)の生命の名前です。
その仏の生命、
南無妙法蓮華経という、
「大いなる法」と「大いなる力」を有(ゆう)した、
仏(ほとけ)の生命は、
自分の外にあるのでは、なく、
『自分の中』にある!!!!!
その無限の可能性を秘(ひ)めた、
南無妙法蓮華経という、
仏の生命が、自分自身の中にある以上、
その「大いなる法」「大いなる力」を有した、
仏(ほとけ)の生命を、
自分自身の中から、引き出し、
自分自身の中から、開花させていけば、
いいわけです。
それが、できるのが、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法であり、
その現実的な実践が、
「南無妙法蓮華経を、となえる」
と、いうことです。
だから、
日蓮大聖人が、言うように、
自分の中に、妙法蓮華経は、あるんだ!
妙法蓮華経という、
「大いなる力」「大いなる法」は、
外のどこかにあるのではなく、
自分の中に、あるんだ!と信じ、
南無妙法蓮華経を、となえる時、
その南無妙法蓮華経の偉大な力、無限の可能性は、
自分自身の中から、湧(わ)き上がり、
開花していく。
すなわち、
どんな悩みや問題も、解決し、
夢を、かなえ、幸せを、つかんでいける!
ここに、
創価学会が、実践している、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の、
決定的な優位性(ゆういせい)があり、
世界が、創価学会の仏法を、
求める理由があります。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・