このまえ、ビデオで
「ゲド戦記」という、
アニメ映画を、見ました。
この中で、
死を恐(おそ)れ、永遠の命を求めて、
暗黒の世界に身を投(とう)じてしまった、
クモ(人の名前)という魔法使い(まほうつかい)が、
登場します。
どういうことかというと、
クモは、死を恐れるがゆえに、
現実の世界で、
精一杯(せいいっぱい)、生きることを拒否(きょひ)し、
暗黒の(悪魔の)魔法を使って、
人間としてというより、
化け物(ばけもの/おばけ)として、
永遠に生きようとしていきます。
しかし、悪の魔法使い、クモの野望も、
魔法使いの賢人(けんじん)「ゲド」と、
この映画では、
永遠の生命の象徴(しょうちょう)として描かれている、
龍(りゅう)の化身(けしん)である、
少女「テルー」によって、
打ち砕(くだ)かれ、
クモは、滅(ほろ)び去(さ)っていきます。
生と死、
よく、アニメなのでは、
このテーマが、わかりやすく、
とりあげられているけれど、
これほど、難(むずか)しく、
これほど、重要なテーマは、
確かに、ないと思います。
しかし、死とは、
生きるという感覚を、失(うしな)わないかぎり、
体験することは、当然、
できないので、
それを、理解することは、
不可能に近いかもしれない。
いったい、生と死を、
どうやって、とらえたらいいのか?
こんなこと、人は、
正直、考えたくないかもしれませんが、
あえて、少し、考えていきたいと思います。
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
この生と死について、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書の中にある、
(御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が書かれた、
論文や手紙を、すべて集めたものです)
『生死一大事血脈抄』の講義(こうぎ)の中で、
説明されています。
死の、とらえ方は、
一般的に、二つあるそうです。
ひとつは、
死ねば、無(む)に帰(き)するという考え。
もうひとつは、
死んでも、不滅の霊魂(れいこん)が、
続くという考え方です。
けれど、
釈尊(しゃくそん/しゃか/ブッタ)は、
死とは、その、どちらでもない!と、
言っています。
ここに、仏法(ぶっぽう)の不思議と、
真髄(しんずい)が、
あるような気がします。
まず、
死ねば、無に帰するという考えでは、
死への恐怖や、死に縛(しば)られた不安から、
永久に解放(かいほう)されることは、
ありません。
次に、自分の霊魂(れいこん)は、
不滅(ふめつ)であるという考えは、
往々(おうおう)にして、
「今の自分が、そのままで、
不滅でありたい!」という、
安易な欲望の表現に過(す)ぎないことが、多い。
だから、結果的に、
自分を高める知恵にはならず、
かえって、今の自分への執着(しゅうちゃく)を増し、
迷(まよ)いと苦しみを、深めるだけに、
終わってしまう。
だから、
「死ねば無に帰する」という考えも、
「不滅の霊魂が残る」という考えも、
生きる支え(ささえ)にはならず、
むしろ、『死』をめぐる迷(まよ)いを、
深める結果になってしまう。
これでは、なんにもならない!
死に対する考え方は、
生きることを、より輝(かがや)かせ、
より充実(じゅうじつ)したものにするものでなければ、
何の意味もない!
すなわち、
死の苦しみを、乗り越(こ)えることができる、
『生死観(しょうじかん)』でなければ、
人間の生命を、解放することは、
できない!!!
結論から言ってしまうと、
この死の苦しみを、
乗り越えることのできる法則(ほうそく)!
生命解放の法則が、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。
むずかしいと思いますが、
南無妙法蓮華経は、略(りゃく)して、
『妙法(みょうほう)』と、いいます。
その「妙(みょう)は死」、
「法(ほう)は生」を、
表(あらわ)しています。
妙法そのものが、
南無妙法蓮華経そのものが、
生と死の二法をつかさどる、
法則そのものだと、言うのです。
言い換(か)えれば、
生も死も、永遠の法則(ほうそく)であり、
この生と死の繰り返(くりかえ)しを、もたらしている、
永遠の法則が、
『南無妙法蓮華経』だと、
言うことだと思う。
生と死は、あらがうことのできない、
「宇宙のリズム」だと、いうことです。
無数の生命の生死、
あらゆる現象の起滅(きめつ)、
さまざまな次元(じげん)に起こる
因果(いんが)の法則、
その宇宙全体の調和と躍動(やくどう)が、
宇宙のリズムであり、
その宇宙のリズムが、
『南無妙法蓮華経』という、法則なんです。
だから、この南無妙法蓮華経の法則から、
のがれられる生命は、
ひとつも、一人も、いない!
ということです。
南無妙法蓮華経は、生の法則でもあり、
死の法則でも、あります。
生も死も、
南無妙法蓮華経という法則の上に、
なりたっている!ということです。
だから、ぶっちゃけて言ってしまえば、
死の苦しみを乗り越えていくためにも、
また、生きていくうえで、
自分の生命を、完全に解放し、
幸せに生きていくためにも、
この『南無妙法蓮華経』の法と共(とも)に、
生きるしか、ない!!ということです。
単純に言えば、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる以外、
生死の苦しみを、解(と)き放(はな)ち、
最高に歓喜した生き方をする方法は、
ない!!と、いうことです。
仏法(ぶっぽう)では、
『生も歓喜(かんき)、死も歓喜』と、言います。
生を、最高に歓喜させ、
素晴らしいものにするために、
『死』は、存在し、
『死』が、最高に歓喜した、
素晴らしいものになったとき、
『生』は、最高に輝き、
充実(じゅうじつ)したものになる。
いわば、『死』は、
『生の断絶(だんぜつ)』ではなく、
『生の完成』となっていく。
そうなったとき、
死は、より深く、より新しい生への、
素晴らしい旅立ちとなっていく!!!
それが、仏法(ぶっぽう)の生死観です。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
仏法では、「永遠の生命」を、説いています。
といっても、それは、
自分の霊魂が、不滅であるということでは、
ありません!
死んで霊魂が残るというのなら、
自分の経験や思い出、
自分の中にあるすべての思念(しねん)が、
そのまま、継続(けいぞく)することになります。
けれど、そうではない。
生命は永遠であるけれど、
死んでまた、生まれてくるといっても、
死んだ時の、自分であるという証(あかし)である、
自分の中のすべての思念は、
いったん、パッと消えて無くなってしまっている。
けれど、その核(かく)となるもの、
生命の本源的なものは、けっして、
消えていないで、残っている。
すなわち、それが、
その人の幸せを、つかさどる、
幸せのエネルギー、『福運(ふくうん)』と、
逆に、不幸を、つかさどるエネルギーと言える、
『宿業(しゅくごう)』です。
(宿業とは、不幸にならざるえないような、
"宿命(しゅくめい)"のようなものです)
この『福運』と『宿業』は、
そのまま、
その人の生命の核(かく)に、残っていて、
その人の人生と生命に、
決定的な、大きな影響(えいきょう)を、
与(あた)えていく。
その、『福運』を、
つかさどる法則が、
『南無妙法蓮華経』であり、
逆に、『宿業』を、
つかさどる法則も、
『南無妙法蓮華経』だと、
言えます。
だから、
自分に福運を、つけるためには、
絶対に、南無妙法蓮華経が、必要になっていき、
逆に、宿業を、打ち破(やぶ)るためにも、
必ず、南無妙法蓮華経が、
必要となっていく。
これが、南無妙法蓮華経という法則であり、
エネルギーです。
さきほども言ったように、
『南無妙法蓮華経』は、
生の法則でもあり、死の法則でもあります。
そして、
死に対しても、生に対しても、
決定的な役割(やくわり)を、持っているのが、
南無妙法蓮華経なんです。
すなわち、
この南無妙法蓮華経を、はなれて、
本当の幸福、
最高に輝き、素晴らしい価値(かち)を持った、
真実の『大いなる生死』を生きる方法は、
ない!ということです。
この、南無妙法蓮華経と共に、
生きてゆく「生死」のことを、
『妙法蓮華経の生死』と、いいます。
そして、この、
『妙法蓮華経の生死』以外に、
死の苦しみを乗り越え、
自分の生命を解放し、
本当の意味での生きがい!
本当の意味での幸せ!
本当の意味での生きる価値!
本当の意味での「死の意味」を、
つかむ方法はなく、
また、これ以上に幸せで、
素晴らしい生き方もない。
映画「ゲド戦記」の中で、
少女テルーが、
「命を大切にしないやつなんて、
大嫌いだ!」
と、叫(さけ)びますが、
死を恐れ、逃避(とうひ)して、
現実の生を、ないがしろにしたり、
どうせ死ぬんだからと、
自分の生を、粗末(そまつ)に、あつかう生き方は、
間違っているし、不幸です。
そうではなく、
生きて生きて生き抜(ぬ)いて、
生命の価値を感じながら、
本当に輝(かがや)いて生きる生き方、
それが、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる、
創価学会(そうかがっかい)の生き方であり、
その生き方が、そのまま、
最高の死へと、結実(けつじつ)していく。
生と死を考えるのは、
難しいようでもあり、自分の人生には、
あまり、関係ないようにも、思えてきます。
けれど、この生死の法則である、
「南無妙法蓮華経」は、
そういうことではない・・!
この生死の、生命の法則である、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)を、
実践(じっせん)していくことによって、
本源的(ほんげんてき)な、根本のものが解決していくので、
また、自分の中から、
本源的な根本の力(ちから)が復活(ふっかつ)し、
湧(わ)き上がってくるがゆえに、
悩みを解決していけ、
自分の夢や希望も、
かなえていけるようになっていくんです。
その、究極(きゅうきょく)の、
根本的な力が、
『南無妙法蓮華経』
だということです・・・!!!
すなわち、
南無妙法蓮華経をとなえる生き方は、
その人に、
最高の幸せを、もたらす!
ということです。
今日は、確かに、むずかしい話しをしたので、
納得(なっとく)いかないかもしれませんが、
もし、本当に納得したかったら、
単純な言い方をすれば、
『本当の幸せ』を、つかみたかったならば、
創価学会に入って、
ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、
となえぬく以外ない!ということだけは、
断言(だんげん)しておきたいと思います・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
「ゲド戦記」という、
アニメ映画を、見ました。
この中で、
死を恐(おそ)れ、永遠の命を求めて、
暗黒の世界に身を投(とう)じてしまった、
クモ(人の名前)という魔法使い(まほうつかい)が、
登場します。
どういうことかというと、
クモは、死を恐れるがゆえに、
現実の世界で、
精一杯(せいいっぱい)、生きることを拒否(きょひ)し、
暗黒の(悪魔の)魔法を使って、
人間としてというより、
化け物(ばけもの/おばけ)として、
永遠に生きようとしていきます。
しかし、悪の魔法使い、クモの野望も、
魔法使いの賢人(けんじん)「ゲド」と、
この映画では、
永遠の生命の象徴(しょうちょう)として描かれている、
龍(りゅう)の化身(けしん)である、
少女「テルー」によって、
打ち砕(くだ)かれ、
クモは、滅(ほろ)び去(さ)っていきます。
生と死、
よく、アニメなのでは、
このテーマが、わかりやすく、
とりあげられているけれど、
これほど、難(むずか)しく、
これほど、重要なテーマは、
確かに、ないと思います。
しかし、死とは、
生きるという感覚を、失(うしな)わないかぎり、
体験することは、当然、
できないので、
それを、理解することは、
不可能に近いかもしれない。
いったい、生と死を、
どうやって、とらえたらいいのか?
こんなこと、人は、
正直、考えたくないかもしれませんが、
あえて、少し、考えていきたいと思います。
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
この生と死について、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の御書の中にある、
(御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人が書かれた、
論文や手紙を、すべて集めたものです)
『生死一大事血脈抄』の講義(こうぎ)の中で、
説明されています。
死の、とらえ方は、
一般的に、二つあるそうです。
ひとつは、
死ねば、無(む)に帰(き)するという考え。
もうひとつは、
死んでも、不滅の霊魂(れいこん)が、
続くという考え方です。
けれど、
釈尊(しゃくそん/しゃか/ブッタ)は、
死とは、その、どちらでもない!と、
言っています。
ここに、仏法(ぶっぽう)の不思議と、
真髄(しんずい)が、
あるような気がします。
まず、
死ねば、無に帰するという考えでは、
死への恐怖や、死に縛(しば)られた不安から、
永久に解放(かいほう)されることは、
ありません。
次に、自分の霊魂(れいこん)は、
不滅(ふめつ)であるという考えは、
往々(おうおう)にして、
「今の自分が、そのままで、
不滅でありたい!」という、
安易な欲望の表現に過(す)ぎないことが、多い。
だから、結果的に、
自分を高める知恵にはならず、
かえって、今の自分への執着(しゅうちゃく)を増し、
迷(まよ)いと苦しみを、深めるだけに、
終わってしまう。
だから、
「死ねば無に帰する」という考えも、
「不滅の霊魂が残る」という考えも、
生きる支え(ささえ)にはならず、
むしろ、『死』をめぐる迷(まよ)いを、
深める結果になってしまう。
これでは、なんにもならない!
死に対する考え方は、
生きることを、より輝(かがや)かせ、
より充実(じゅうじつ)したものにするものでなければ、
何の意味もない!
すなわち、
死の苦しみを、乗り越(こ)えることができる、
『生死観(しょうじかん)』でなければ、
人間の生命を、解放することは、
できない!!!
結論から言ってしまうと、
この死の苦しみを、
乗り越えることのできる法則(ほうそく)!
生命解放の法則が、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。
むずかしいと思いますが、
南無妙法蓮華経は、略(りゃく)して、
『妙法(みょうほう)』と、いいます。
その「妙(みょう)は死」、
「法(ほう)は生」を、
表(あらわ)しています。
妙法そのものが、
南無妙法蓮華経そのものが、
生と死の二法をつかさどる、
法則そのものだと、言うのです。
言い換(か)えれば、
生も死も、永遠の法則(ほうそく)であり、
この生と死の繰り返(くりかえ)しを、もたらしている、
永遠の法則が、
『南無妙法蓮華経』だと、
言うことだと思う。
生と死は、あらがうことのできない、
「宇宙のリズム」だと、いうことです。
無数の生命の生死、
あらゆる現象の起滅(きめつ)、
さまざまな次元(じげん)に起こる
因果(いんが)の法則、
その宇宙全体の調和と躍動(やくどう)が、
宇宙のリズムであり、
その宇宙のリズムが、
『南無妙法蓮華経』という、法則なんです。
だから、この南無妙法蓮華経の法則から、
のがれられる生命は、
ひとつも、一人も、いない!
ということです。
南無妙法蓮華経は、生の法則でもあり、
死の法則でも、あります。
生も死も、
南無妙法蓮華経という法則の上に、
なりたっている!ということです。
だから、ぶっちゃけて言ってしまえば、
死の苦しみを乗り越えていくためにも、
また、生きていくうえで、
自分の生命を、完全に解放し、
幸せに生きていくためにも、
この『南無妙法蓮華経』の法と共(とも)に、
生きるしか、ない!!ということです。
単純に言えば、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる以外、
生死の苦しみを、解(と)き放(はな)ち、
最高に歓喜した生き方をする方法は、
ない!!と、いうことです。
仏法(ぶっぽう)では、
『生も歓喜(かんき)、死も歓喜』と、言います。
生を、最高に歓喜させ、
素晴らしいものにするために、
『死』は、存在し、
『死』が、最高に歓喜した、
素晴らしいものになったとき、
『生』は、最高に輝き、
充実(じゅうじつ)したものになる。
いわば、『死』は、
『生の断絶(だんぜつ)』ではなく、
『生の完成』となっていく。
そうなったとき、
死は、より深く、より新しい生への、
素晴らしい旅立ちとなっていく!!!
それが、仏法(ぶっぽう)の生死観です。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・
仏法では、「永遠の生命」を、説いています。
といっても、それは、
自分の霊魂が、不滅であるということでは、
ありません!
死んで霊魂が残るというのなら、
自分の経験や思い出、
自分の中にあるすべての思念(しねん)が、
そのまま、継続(けいぞく)することになります。
けれど、そうではない。
生命は永遠であるけれど、
死んでまた、生まれてくるといっても、
死んだ時の、自分であるという証(あかし)である、
自分の中のすべての思念は、
いったん、パッと消えて無くなってしまっている。
けれど、その核(かく)となるもの、
生命の本源的なものは、けっして、
消えていないで、残っている。
すなわち、それが、
その人の幸せを、つかさどる、
幸せのエネルギー、『福運(ふくうん)』と、
逆に、不幸を、つかさどるエネルギーと言える、
『宿業(しゅくごう)』です。
(宿業とは、不幸にならざるえないような、
"宿命(しゅくめい)"のようなものです)
この『福運』と『宿業』は、
そのまま、
その人の生命の核(かく)に、残っていて、
その人の人生と生命に、
決定的な、大きな影響(えいきょう)を、
与(あた)えていく。
その、『福運』を、
つかさどる法則が、
『南無妙法蓮華経』であり、
逆に、『宿業』を、
つかさどる法則も、
『南無妙法蓮華経』だと、
言えます。
だから、
自分に福運を、つけるためには、
絶対に、南無妙法蓮華経が、必要になっていき、
逆に、宿業を、打ち破(やぶ)るためにも、
必ず、南無妙法蓮華経が、
必要となっていく。
これが、南無妙法蓮華経という法則であり、
エネルギーです。
さきほども言ったように、
『南無妙法蓮華経』は、
生の法則でもあり、死の法則でもあります。
そして、
死に対しても、生に対しても、
決定的な役割(やくわり)を、持っているのが、
南無妙法蓮華経なんです。
すなわち、
この南無妙法蓮華経を、はなれて、
本当の幸福、
最高に輝き、素晴らしい価値(かち)を持った、
真実の『大いなる生死』を生きる方法は、
ない!ということです。
この、南無妙法蓮華経と共に、
生きてゆく「生死」のことを、
『妙法蓮華経の生死』と、いいます。
そして、この、
『妙法蓮華経の生死』以外に、
死の苦しみを乗り越え、
自分の生命を解放し、
本当の意味での生きがい!
本当の意味での幸せ!
本当の意味での生きる価値!
本当の意味での「死の意味」を、
つかむ方法はなく、
また、これ以上に幸せで、
素晴らしい生き方もない。
映画「ゲド戦記」の中で、
少女テルーが、
「命を大切にしないやつなんて、
大嫌いだ!」
と、叫(さけ)びますが、
死を恐れ、逃避(とうひ)して、
現実の生を、ないがしろにしたり、
どうせ死ぬんだからと、
自分の生を、粗末(そまつ)に、あつかう生き方は、
間違っているし、不幸です。
そうではなく、
生きて生きて生き抜(ぬ)いて、
生命の価値を感じながら、
本当に輝(かがや)いて生きる生き方、
それが、
南無妙法蓮華経を、となえて生きる、
創価学会(そうかがっかい)の生き方であり、
その生き方が、そのまま、
最高の死へと、結実(けつじつ)していく。
生と死を考えるのは、
難しいようでもあり、自分の人生には、
あまり、関係ないようにも、思えてきます。
けれど、この生死の法則である、
「南無妙法蓮華経」は、
そういうことではない・・!
この生死の、生命の法則である、
南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)を、
実践(じっせん)していくことによって、
本源的(ほんげんてき)な、根本のものが解決していくので、
また、自分の中から、
本源的な根本の力(ちから)が復活(ふっかつ)し、
湧(わ)き上がってくるがゆえに、
悩みを解決していけ、
自分の夢や希望も、
かなえていけるようになっていくんです。
その、究極(きゅうきょく)の、
根本的な力が、
『南無妙法蓮華経』
だということです・・・!!!
すなわち、
南無妙法蓮華経をとなえる生き方は、
その人に、
最高の幸せを、もたらす!
ということです。
今日は、確かに、むずかしい話しをしたので、
納得(なっとく)いかないかもしれませんが、
もし、本当に納得したかったら、
単純な言い方をすれば、
『本当の幸せ』を、つかみたかったならば、
創価学会に入って、
ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、
となえぬく以外ない!ということだけは、
断言(だんげん)しておきたいと思います・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(タイムマシンによろしく)・・・・・・・・・・・・・