トドママのあるがままに

難病指定を受けている母親です。
笑顔を忘れないように、そんな思いだけでつらつら書きます♪

病気の私が願うこと あきらめないでほしいということ

2021-01-11 17:20:05 | 病気

 私は下垂体前葉機能低下症と悪性関節リウマチで難病指定を受けることができ、支援の中生きることができています。

 おそらく、外で会う印象とはわけが違って、非常にシビアな状況になることがあります。

 

 それぞれ奇病に近く、正直前例もおそらくない状況なので、訴えの多い、文句の多い、うるさい人という認定をされることがあり、今でもそれは続いています。(「うるさい患者」ではないところがまた、悲しいところですね。)

 

 そして、その「病気ではない」とされてしまうことが私の一番大きな敵だったと思っています。そもそも、病気と診断されるまでに2年以上要し、その間の具合の悪さは「気のせい」でしたので、家族も私もとんでもない苦痛と苦難の日々でした。特に家族は逃げられますから、もういい加減にしてほしいと何度も思ったことでしょう。私はと言えば、なんで生きていたのか謎なレベルで苦しみました。痛みとだるさで体が動かないのです。あの、上から押さえ込まれるようなだるさと、脳天をつんざくような痛み、それに耐えているにも関わらず「気のせい」であったため、自分に対して、産後のよくある現象なのだと何度も言い聞かせて、考えないように考えないようにと思っていました。

 私の病気はまさに出産を契機に罹患したもので、出産を皮切りに体調が全く変わりました。気のせいであったり、精神的なものではないと確信していたものの、治す手立てがない以上、気の持ちようで乗り切るしか他ありませんでした。理由はいくつかありますが、傷の治りが非常に悪くなったということが「身体の病気なのだ」という確信があった事象でした。会陰切開をした傷が1ヶ月経ってもよくならないのです。座ることは多大な苦痛を伴いました。1ヶ月検診の時にも、マタニティズボンを履いていきました。まさかのジーパンを履いているママさんがいらして驚愕したのを覚えています。そんなものどうやったらはけるのかと。

 余談ですが、産後の育児は「地獄」だったと表現する知人がいて、その「地獄」と私は同じことを味わっているに過ぎないという暗示もかけていました。みんなこれくらいつらいのだと。つらいということは個人差があって、客観的に見て軽かろうが重かろうがその人の感じ方次第なので、その発言に問題があるわけではありません。しかし、おそらく地獄のレベルは全く異なっていたと思います。でも私も地獄という表現はぴったりで、私は前世に何をしでかしたのだろうかと何度か思いました。乳児の育児はもちろん大変です。生活環境もおそらくとても変わります。ですから、当時の私は多少産後の肥立ちが悪く、気の持ちようで何とかなるのだと思うようにしていました。

 しかし、その暗示もそう長いこと騙し続けることはできません。何度も錯乱するなかで2年が経過した頃、実際に倒れるに至りました。ずっと娘に対して贖罪のつもり(大変な難産であったので、娘に申し訳ないことをしたと思い続けています)で接していたため、精神力一本で生きていました。産んでしまった責任感、それ一本です。娘に罪はありません。お世話しなければ死んでしまいます。

 そうして自分を騙し続けて2年が経過した頃、子どもも2歳になりました。もう放っておいても死ぬことはあまりありません。私の中で役目をひとつ終えたような、そんな気持ちになったのだと思います。寝たきりになりました。

 

 今、こんなふうにパソコンに向かって座っていられる時間があることが、夢のようです。奇跡のような出来事が、まさに私の身に起こっています。病気に関する細かいことや知っている情報は、ゆっくり書きたいと思います。ただ、最初に言いたいことは出産というのは非常にハイリスクなことであり、そして実際にとんでもない体調になっている産婦もこのようにいるのです。産後うつ、産褥精神病、妊娠糖尿病の他にも様々な病気になることがあります。私の内分泌の主治医の先生は、「こんなふうな患者さんが世の中にいるんやろなあ」と何回か発言されたのを聞いています。リウマチの先生は「この病気はうまく診断できる医師が少ないんです。だから、ドクターショッピングしてここにくるんだよ」と話してくださいました。

 

 子どもと共に、自殺してしまうお母さんは、多くの方がこうした病気を抱えていると思うのです。

 ぜひ、諦めないで医療機関なり保健所なり、とにかく頼ってほしい。もし、否定されても次、次、とどんどん模索してほしい。そのダルさは、辛さは、決して気のせいでも間違いでも怠けているわけでもないと思うのです。次、次、と模索している時点で、間違っているわけないじゃないですか。医療機関に誰が好き好んで乳飲み子を抱えて行きたいのでしょうか。大丈夫です。決してその感覚は間違っていません。

 何としてでもご家族とお子さんのために諦めて欲しくないのです。生きてほしい。かくいう私は何度か諦めかけました。でも、今こうして座って文章を書けるまで回復したのです。ここに奇跡がある。それを知ってほしいのです。

 湯水のように医療費を使い、自立支援制度も利用させてもらいました。社会福祉協議会のお世話にもなっています。生きていていいのかと思ったことは何回もあります。でも、娘が、夫が、両親が、私が生きていることを望んでいて、必要としてくれました。主治医の先生方がこんな私を諦めないでくださった。ヘルパーさんたちが精一杯支えてくださった。そして友人たちがこうして私に希望をくれました。

 今、私にできることは、こういう人間がいる、だから諦めないでと伝えることだと思っています。それくらいしかできないので恐縮ですが。

 

 産婦人科は出産後の患者は興味がない、という表現を聞きました。私の体験上はまさにその通りだと思います。ですので、産後具合が悪くて産婦人科にかかり、問題なしと言われても決して諦めないでください。

 そして、医療機関で私は何度追い返され、怒られ、叱られたかわかりません。決してこちらが好戦的だったのではないのですが、つい辛いという訴えを多くしてしまっていたので、あまり記憶にありませんが、食い下がってしまったのだと思うのですね。ある時は「いろいろ考えていないで、とりあえずこの薬のんで様子みるってことが何でできないの?」と諭されたことがあります。とりあえずなんていう時間も余裕もないから病院に来たのに、もう望みがないのだとその場で口をつぐみ、すみませんを何度か繰り返して、お金をしっかりはらい、いらない処方箋をいただいて、家で大泣きしたことも何度かあります。今だから言えることですが、翌日その処方箋を握り締めて何とか薬局に行ったのですが、やはり全く効きませんでした。それはそうに違いありません。私には違う病気があったのですから。

 市区町村の保健師さんに連絡して相談に行ったこともありますが、大丈夫でしょうと様子見されてしまいました。要するに精神的には大して問題がなかったということの裏返しなのだとも思いますが、一方で様子見をされてしまっては私は次の一手を自分で探さなければならないので、再びやり直しなのかと、どこを頼ってももうダメなのだろうと、絶望もしました。疲れて次の手を探したくない私は、私自身の気の持ちようの問題なのだと暗示をかけるに至りました。

 今でも抜けきらない、気のせいではないかという自問自答の日々。まだ苦しみ続けています。それでも頑張って生きています。楽しいこともあるので。泣きながら、笑って頑張っています。

 

 周りにもし私のように苦しんでいる方がいらしたら、と思ってお声かけもしてきましたが、さすがにそう多くはいらっしゃいませんよね。なので、こうしてブログに書いてみたいと思うようになりました。

 苦しんでいらっしゃる方、何かの病気が隠れているかもしれませんから、どうぞお一人で悩み過ぎないで、しかし相談した先で邪険に扱われても諦めないで、ご自身が回復するまで頑張ってほしい、そう願って書くことにしました。

(一方で、どこに相談したらいいのかわからないという問題が転がっていますから、話は全く簡単ではありません。とにかく今私に言えることは、諦めないで、次、次、と模索してほしい、それだけです。)

 今後、何か私自身がご連絡をいただいて助けになるようなことができたらいいのになと思ってはいます。ただ、自分自身の紆余曲折ぶりと現時点でも迷い続けている状態から、人さまのお役に立てるような状況にないと感じています。友人たちに相談してみようと思っているところです。

 

 どうか、尊い命がひとつでも救われ、笑いの溢れるご家族が増えますように。そう切に願っています。


懐かしのクラスター

2021-01-11 16:10:39 | 日記

娘が幼稚園の時、インフルエンザが大流行したことがありました。

年中の時には、クラスの半分が休むという、とんでもない事態に陥っていました。その反省はあったはずなのに、活かされることなく、年長の時に再度大流行してしまうのです。

 

その時はあっさり訪れました。全学年の園児と年長児の親だけが参加できるクリスマス会が催されました。

各学年の園児たちの歌の発表や先生方の舞台など、とても楽しい時間を過ごしました。

「はい、おかあさまがたー、子どもたちよりもうるさいですよー」

と園長先生にたしなめられるほどに、母親たちもぺちゃくちゃ楽しく談笑しました。

 

その翌々日くらいからぽつぽつと休む子が出てきたかと思いきや、ドンとインフルエンザの罹患者数が増えたのです。

驚くことに、そのインフルエンザは園児に流行ったというよりも同席していた親に流行ったのです。冬ですし、感染症は警戒すべきものでしたから、ほとんどの人がマスクを着用していました。ホールは今のように換気はされていませんでしたが、空調はついておりました。

クリスマス会のあとに園児たちの教室に行ってベタベタと何かを触ったりしたわけでもありません。ホールから少し椅子の片付けをして子どもたちを迎え、帰宅しました。ただそれだけなのです。

 

春の緊急事態宣言が終わった後、公園で少し集まって遊んだことがあります。

その時に、あれはクラスターだったね、すごかったね、と苦笑いでみんなで話しました。

クラスターという言葉も現象もなかったですからね、当時は。その後、となりの小学校では何度も学級閉鎖になるほどの大流行を見せました。ところがそのインフルエンザ、現在0名。なんだそれ、やればできるんじゃん、とものすごく乱暴ですが相変わらず思うのです。

 

その際、私と娘は無傷でした。もうひとりのご家族にも無傷の母娘がいました。

私の分析はこうです。

 

大人サイドはマスクをほとんどの方がしていました。園児たちの密集ぶりは今考えればひどいものですが、親の方はひとりずつ一定の感覚があり、映画館でいえば座席をひとつずつ空けながら市松模様に座るような、そのくらいの余裕がありました。しかし感染したのは親の方なのです。

保菌者は誰かわかっていません。

園児たちは親より後から入場し、先に退場しました。また、中で歌ったりする時に移動もありましたし、一定の場所に止まっている時間が短かったです。一方の親たちはひとつの場所に2時間ほど座り続けることになりました。

その後、お昼ご飯が用意されていない日だったため、園児を迎えてからお昼ご飯を食べにレストランやフードコートに繰り出す人が多かったです。かくいう私もそうでした。

退園前に園児たちはお手洗いに行くように促されるので、大なり小なり手洗いをしていますが、親は家を出てからそこまで手洗いをしないままという人も多かったと思われます。

 

以上のことから、

マスクはあまり意味がないのではないか

ソーシャルディスタンスよりも換気

手洗いは雑なものでも有効

と、考えています。

 

無事だった友人と私は、いつも荷物が多いよねとケラケラ話していました。別に特別なことをしているわけではなく、ウェッティでよく手を拭いていました。

感染者が近くに座っていた場合、それだけでアウトです。私は当時クレベリンを胸に下げて生活していたので、それも大変に役立っているのだと思っています。そのため、今、我が家ではアルコールに加えて次亜塩素酸のスプレーを常備しています。車の中にもおいています。また、次亜塩素酸発生器を自宅に購入し、利用しています。

 

対策は間違って行っても意味がないのだということをまざまざと見せつけられる怖い出来事でした。まさかクラスターが起こるなんて誰も予想しませんでした。みんなで体力がないとか免疫がないとか言い合ったものです。しかし、今年の流行が見られない点を鑑みれば、そういう理由だけではなかったのだと思います。

感染したご家族は、本当に大変そうでした。こんなことはもう起こらないといいなと、病み上がりの友人たちに会ってつくづく思ったものです。

 

歴史を勉強するのは、昔に起こったことの反省の部分を抽出し、今後に活かすためだと考えています。

私たちのこの経験と分析が、どうか何かの役に立ちますように。


車椅子を改良したーい

2021-01-11 09:53:59 | 日記

体が悪く、足も悪く、車椅子生活を余儀なくされていた頃がありました。

なんと今は卒業しているので、懐かしの過去みたいになっていますが、いつまたそうなるかわからないので、元気な今のうちにもっと改善できることをしたいなあと思っています。

 

問題点はいくつも挙げればキリがありませんが、改善したい点は以下の通り。

・荷物をどうしたらいいのかわからない。置き場所がない。特にスーパーでの買い物がしづらい。

・幅を取りすぎる。

・段差に弱すぎる

の3点です。

 

どなたか、どこかの企業様、改善に一肌脱いでくださる方はいらっしゃらないでしょうか。。至って真剣な相談です。

私の拙いアイディアもあるんです。

座面を高くして、その下に荷物スペースを作るとか、膝の上に置く場合には補助具があったらいいなとか。

特に荷物の問題は顕著で、後ろにひっかければいいじゃんって思うけれどそれは購入したものならいいんですけど、買う前のスーパーのカゴとかほんとどうしたらいいかわからない。ベビーカーの時も同じ悩みがありましたが、それは企業努力で改善された商品が出てきていますよね。車椅子もやればできると思うんですけどねえ。

いかんせん、母数が少ないから。でも仕方ないって諦めたくない!

 

不満ではなく、あくまでも。ほんとに車椅子は助かったので。でもより良くしたいってだけです。

 

助かりましたが、いかに車椅子生活が不便かがよくわかる日々でした。不便そうだなというさらっとした印象で大変だねえと言ったり思ったりしていたわけで、その理由を知るにつけ、自分がいかに理解した体で何も知らなかったかを思い知らされました。

全ては経験ですね。

 

こんな不便なもの、誰が乗りたくて乗るものかとここまで出かかるのに、外出をするためにも、自分の生活にも欠かせないし、挙句多大な迷惑をかけることもあるので、ごめんなさいとかすいませんとか言い倒しながら街を闊歩します。

ありがたいことに舌打ちされたりすることは滅多に、ありません。

むしろ温かい手が差し伸べられることが多くて、何度も泣きそうになりました。ひとさまの温かい心にこんなにも出会えて、思い切って街に繰り出してよかったとすら思うのです。

でも、人見知りの私は人知れず歩きたいのです。目立ちたくもありません。

そんなことはわがままだともわかっているのです。

という、無限ループの心の葛藤が一番しんどかったです 笑

 

こういう心の動きをするとは夢夢思いませんでした。これは、車椅子を押してくれる家族も同じ思いで。だからこそ車椅子の人を街であまり見かけないのでしょうね。

 

そんなわけで、もう少しでも改善できることはしてみたいと、本気で思っている私であります。

今度、もう少し具体的に車椅子での生活について書きます。ぜひご覧ください!


感染症をもらいやすい場所

2021-01-11 06:21:00 | 感染症
三密防止、去年まで無かった、と言いますか少なくとも私は知らなかった言葉に
さんみつ
ソーシャルディスタンス
があります。

ソーシャルディスタンスに至っては、娘が小学校で教えられたのを機に、私も知りました。
子どもを通じて学ぶことは多いですけれども、ソーシャルディスタンスという言葉と教えを娘経由で知ったというのは、一生忘れられない出来事な気がします。

ところで以前書いた内容にうつりやすい場所として
〇職場、学校、幼稚園や保育園
〇電車やバス
〇劇場や映画館、コンサートホール
と記しました。

これらの共通点は、
換気が不十分で、長時間同じ場所にいること
無理して来てしまう人がいるということ
の2点だと考えています。

そのような意味では映画館はその日チケットを買うことが多いので比較的リスクは低いですが、劇場やコンサートとなるとそのチケットを取得するのに苦労していますし、お値段も高いですから、多少の体調不良なら行こうと無理してしまう人がいらっしゃる。たった1人だとしても、その1人が近くにいれば、その方がマスクをしていようとも大体ダメでした。
健康な時ですらそんな有様だったので、具合が悪くなってからは病状が許さないこともありますが、劇場に行くことができていません。

今は厳しいですけれど、旅行もまた自家用車で行けるところに限るようにしていました。
娘はかなり大きくなるまで飛行機も新幹線も経験したことがなく、それぞれの乗り物に乗せてあげたいがために近距離で乗車した程です。
飛行機に乗ることが目的の旅行。それでも当時はとっても楽しかったです。不安はありましたが、問題なく帰って来られました。
空いている時間の便に乗ること、旅行目的の場合にはやはり無理するひとが多いので、あまり旅行先として人気過ぎないところを選びました。

新幹線は、東京-新横浜間というとんでもない短距離で、娘は「え?もう終わり?」と新幹線の速さに喜びつつ、あまりの短時間にしょげていました。が、持ち前の切り替えの速さで、「乗れて良かった!新幹線の座席に座れたもの!」と喜んでくれました。
ここはさすがに感染リスクもへったくれもないほどの短い時間、かつガラガラの車内でしたので不安はありませんでした。新幹線、快適ですねえ。本当なら乗って旅したいですね。
娘が生涯で乗った新幹線は結局これだけです。笑


ま、要するに、体調悪い人がステイホームしやすい世の中になれば感染症は減るということなんでしょうね。