トドママのあるがままに

難病指定を受けている母親です。
笑顔を忘れないように、そんな思いだけでつらつら書きます♪

ヘルパーさん② (娘とヘルパーさん)

2021-01-16 19:55:00 | 病気
私のヘルパーさんたちは皆さんママさんでした。ママとしては私が1番の後輩なので、もう娘の面倒くらいお茶の子さいさいなのかもしれません。

規定からすれば、子どもの世話をするという項目はありません。
しかし、せざるを得ない。

すみません、すみませんとこちらは思うのですが、皆さん仕方ないですから!と言うどころか、久しぶりだわ〜楽しいわあ〜くらいに積極的に娘の面倒を見てくださいました。
現場は臨機応変に。
制度の枠組みは建前。現場はもっと複雑で、刻一刻と変わっている。逆に枠組みをもっとフワッとさせた方がいっそのことやりやすいのでは?と思ったりもします。

とにかく、娘はヘルパーさんたちが大好きで、遊び相手が来た!くらいのテンションの上がりっぷりでした。

例えばこんな感じです。
「こんにちはー!」
ご挨拶だけはきちんとするようにしつけているつもりでしたので、割と元気にしていたと思います。でも興奮して忘れることもしばしば。

「きょうは、なにするのー?」
いつも割と決まったことをしていただくのに、必ず確認します。
「んー、どうだろ。お洗濯とか掃除機とかお料理とか、水回りのお掃除とか」
いつも丁寧に答えてくださいます。

「ねえ!トイレ掃除する?」

「するよー。」

「やったやったー!」

ヘルパーさんたちに娘を育てていただいたところは、かなりあります。
私の中では水回りの掃除はヘルパーさんたちが娘に伝授してくださいました。

掃除のプロによるレクチャー!
ありがたすぎるでないの!

仕事しながら娘の面倒を見るのは大変で、それでも私に少しでも休んでほしいと、引きつけてくださっていました。そうしてる間につきまとうようにすらなりました。申し訳ないことに。

ヘルパーさんからしたら、それこそただ遊んでいるだけでもいいのでしょうが、私の家事の負担を減らすためにも、手を止めるわけにもいかなかったと思うのです。そこで考えだされたのが家事を教えちゃおうみたいな、そんなことだったと思います。

仕事しながら子どもを喜ばせるの術を使って、いろんなことを教えていただきました。
娘はすごいすごいと言ってもらえるのも嬉しかったみたいで、想像以上にいろいろ会得していきました。お洗濯の畳み方は、かなり几帳面な方だと思います。全体的に大雑把で雑な娘なので、おそらくこの時教えてもらったやり方を忠実に再現しているのだと思います。

それらを見て、あんれ?子どもって意外とできるのね、やらせてみるかと包丁握らせることにしてみたり、雑巾の搾り方を教えてみたり、私も育児の参考にしました。

今になっても、娘は時々ヘルパーさんとの思い出を話します。
親父ギャグを言ってもらったとか、なぞなぞ出してくれたとか。風船膨らましてもらったり、その風船でネズミを作ってもらったり。

ヘルパーさんと娘の笑い声と共にある風景は、私の宝物です。横たわって過ごしてることもあったので、遊んであげられない罪悪感からも逃れられる、本当に幸せな時間でした。
預けにくすぎる子どもだったので諦めていましたが、他の方の手でも育ててもらって多様性を、なんて理想もありました。ですので、願ったり叶ったりの出来事でした。

出産して良かったとしか思わないです

2021-01-16 17:23:35 | 病気

毎日娘に怒ってるか怒鳴ってるかしています。

 
早くしてよー
 
は1日に100回くらい言ってます。
 
いいですか?時は金なりといってね、と最もらしく説得しても、端的にただただ怒鳴っても、都合6年、効果なし。とにかく遅い。大変なマイペース人間であるけれど、それ以上に目の前の楽しいことにすぐに飛びつき、3歩歩けば忘れる娘。
お出かけしますよー、と言われたら何をしなきゃいけないのか自分で列挙しなさいと言って、列挙させても大体1つを行うと大満足。本なんか広げたりして、一体どういうこと??と鬼ママが登場。
あっ!お出かけするんだっけ、ま、それまでいいよね、とか、お出かけお出かけ〜♪と全てを放り出して玄関にまっしぐらだったりするので、こらこらこらこら、という感じで。
今までの早くしなさい時間はどれほどか。そしてそれが全て効果なしとは何事か。育児に無駄な時間を考えてはいけません。が、とんでもない効率の悪さ!大人の時間では考えられません。
 
どうやったら一人前の人間になるのか
さて、自分はどんな様子だったかと思い出してもここまでではなかったような気がします。母に確認すると、案の定ここまでではなかったとのことで、私の育て方の問題かと反省することもあるけれど。やはり個体差のようで。生まれつきの性格とも考えています。自分だったら、と考えてもつまるところ意味がないので、益々混迷を極めました。今でも暗中模索です。
 
こんな風に騒々しく、だらしのない、どこに出しても恥ずかしい娘。
母親としてどうなのかと問われたら面目ないとしか言いようがありませんが、かなり頑張ってるつもりなのです。でもダメなのです。
でも、そんな娘が私は大好きです。
 
出産して病気になっちゃったけど、出産しなければよかったと思ったことはありません。
 
 
子どもとの時間は宝です。無駄な時間もたくさんあるし、家にいるとまあ、大体仕事とか勉強とかの類のことは手がつかないし、話になりません。
ストレスやイライラが溜まることも、そして爆発することもしばしばあります。何より、お小言の多い飯炊きおばさんだなと、つくづく思っています。
 
でも、同じ無駄な時間でも、例えば病院への通院にかかる交通時間と娘のお習い事の送迎の交通にかかる時間は、病気だと何やってるんだろう?とゲッソリするのに、娘のそれだと、運転手さんだな!くらいのテンションで、落ち込んだりはない。不思議なものです。
だから、子育てや家事って耐えられるのかなあ。などとぼんやり思っています。
 
何より確かにどうしたものかという娘ですが、そういう点も含めて幸せを私にくれています。
年中児の際、私のお誕生月にはお誕生日月間だ!と言わんばかりに、幼稚園の製作コーナーで、何かを作っては日々プレゼントしてくれました。これは、何ですか?というものも含めて本当に楽しいお土産の日々でした。
お誕生日の日に、お菓子の空き箱の中にケーキを描いてくれました。箱を開けたらケーキが出てくるプレゼント仕様になっていて、文字もひとつずつ色を変えていて、一生懸命描いたのがすぐわかりました。1年、頑張って生き抜いたご褒美だとしても余りある幸せな贈り物でした。
 
 
話は変わりますが、先日、バラバラバラーという音がしまして。廊下から。小さなものが落ちる音なんですね。行ってみると気まずそうな顔の娘とバラバラに飛び散ったビーズ。はい、お片付けですね、料理を中断させなきゃですね。子どもとの生活あるあるは小学生になった今でも普通にやってきます。
何こんなところで遊んでるの?と聞きながらビーズを集め、持ってきた器に入れていきました。そしてそのまま紐の端を結んでみたらバラバラにならないよ、とかデザインするなら私はこんなかなあといった話をしたりしました。
「ママすごい!なにそれ!そっか!」
さっきまでのテンションの低さは3秒くらいで幻に。キラキラの娘降臨です。お、
「ちょっと見ないで、あっち行ってー」
片付けを手伝いに行ったのに、何事か。娘よ、さすがに薄情ではあるまいか、と笑いを堪えツッコミを控えつつ、はいはい、とキッチンに戻りました。
 
しばらくして、娘がマーママーマと騒がしく近づいてきました。
「あのね、私はちょっと、我慢が苦手なのよ。」とニコニコしながら言います。
娘よ、よくわかっているではないか!素晴らしいぞ、自分の悪い点を認識するところから改善は始まるのだ!と一瞬喜びましたが、違和感もじわじわと感じます。なんだろう。
「これね、ちょっと待てなかった。お誕生日プレゼント!」
と、ビーズで作ったネックレスをくれたのです。
 
お察しの通りです。私の誕生日とは全然関係ない日で、関連性を見つけることができません。季節もまるで違う、一体なんなんだ?と。この子は私の誕生日を忘れたのか?と思うほどにお間抜けな日でした。
 
「ママのお誕生日プレゼントにいいなと思って作り始めたら、バラバラーってなって秘密にできなくなっちゃった。」
ほお、なるほど、あの出来事はそういうことだったのね。
「それで秘密にできなくなって悲しくなったけど、ママはいろいろ教えてくれたから、それでいいやって思ったの。」
ふむふむ。
「でね、できたの。そしたら、お誕生日まで待てないなって。もうドキドキしちゃって、私、我慢ができないでしょう?だから、もうあげちゃいたいってなって。」
あー、そういう我慢できないね。
私もそういうのあったからわかるわーと言いながら、コピー用紙に絵を描いて作って包んでくれた包装紙を破りました。中からとても可愛らしいネックレスが出てきました。テキトーにビーズをつなげただけのネックレスしか作れなかったのに、バラバラの後に私が作るなら、と教えたやり方をアレンジして、配置を工夫したらしい私好みのステキな作品でした。
 
ニマニマと満面の笑みの娘。嬉しいでしょ?嬉しいよね?と顔に思いっきり出ています。
こちらはもうおかしくて、笑いがこらえきれませんでした。そしてぎゅーして2人で大騒ぎ。
間抜けだけど、こんなことが突然降って湧くのですから、子どもとの生活は格別で、幸せです。残念エピソードは吹っ飛ばないけれど、こういう時間をもらうためのサブみたいな?仕方のないことと思っています。
 
だからこそ、声を大にして言いたいのは、
出産も育児もぜひ安心して行いたい
 
ということ。
それに加えて
 
もし出産で何かあっても、支えてほしい、支えられる何かが必要
 
と思うのです。
 
迷ってる方がいたら、大変だけどぜひ経験してほしいなあって思います。
でも地獄を覚悟してね、とは言いたくないので、できればもう少し何とかならんのかなと思うのです。
 
何か考えて実施してくださる方は、機関の方はいませんでしょうか。もしくは私の考えを共感して実行してくださる方はいませんでしょうか。
アイデアはあるんです。やってほしいこともありたいことも。
 
私には手を動かせる体がないんです。今は。
あゝ、何とかしたいなあ。

ヘルパーさん① (初日はお互い怖かった)

2021-01-16 03:52:00 | 病気
ヘルパーさんが我が家に来て、いろいろ面倒を見てくださることになりました。
そこまでも紆余曲折あったのですが、まずはご訪問初日のことを。

記憶に障害があるのですが、今でもインターホンの画像の映像を鮮明に思い出せます。
とにかく険しい顔つきの女性がおふたり、映っていました。40歳くらいのお若い女性、元気で頼もしい雰囲気も感じ取れました。

丁寧なご挨拶と共にお家に入っていらして、リビングでいろいろ契約的な説明と署名捺印を行いつつ、そばでもう一人の方が早速掃除機をガーガーとかけてくださいました。

掃除機をかけることは、わたしにとって不思議なほどに重労働でした。病状が悪くなればそれは同じで、つい最近も再び無理難題の家事のひとつでした。
病気になって以降は機械で解決できるものはできる限り、という思考でしたので、お掃除ロボットが活躍していました。しかし、例えば幅木の上のホコリやお手洗いの中、狭い隙間などは頼りきれません。もちろん目をつぶっている状況でした。
私の実家が近かったので、両親が時々来ては手伝ってくれていました。母は持病があるので、父も男親の割にはかなり稼働してくれました。掃除機はおよそ父の担当でした。

リビングには、いざというときのために、と父なりに配慮した差し入れ、カップラーメンがうず高く、そして無造作に、並べてありました。

何が汚くて困っているのかわからないレベルでしたので、何からお願いしたらいいかわかりません。そして、何をお願いしていいかも、制度の範囲がわからないのでわからないのです。
そんな私を尻目にヘルパーさんたちがテキパキ、それこそトイレ掃除から洗濯物をたたんでしまってくださり、料理をこしらえてくださるのですから、ただただびっくりし続ける時間でした。

制度の内容としては、介護や看護ではなく、あくまでも支援なので、私と一緒に行うのが前提です。
また、例えばお庭のお手入れとか車の掃除とか、生活する上でそこまで必要ないと思われることはヘルパーさんはできません。と改めてご説明がありました。
ふむ、ふむとお聞きする中でどんどん困惑していきました。先程申したとおり、掃除機すら重労働の私にとって、丁寧なトイレ掃除はもはや不可能です。
料理も、どれほど一緒にキッチンにいられるかわかりません。

すると、「現場は臨機応変にやりますから!」と、元気に、それはそれは元気に、「ま、建前だけ知っておいてください」と言わんばかりのお声かけがありました。

初日は何をしてもらったかよりも、お家に入って作業される方がいい人そうで良かったと、そんなところに安心しました。
やっていただくのに、必要だと言うくせに、すごく不安でもありました。引っ搔き回されたらどうしようではないですけれど、言うなればそんな感じです。漠然とした不安。

ですので、いい人そうで、なんか家事も進んでるし、すごい!よかったあ、と、安堵できたのは大きかったです。こちこちの体が少しほぐれた気がしたくらいでした。

後日談ですが、なぜあんなに怖い形相でインターホンを鳴らしたんですか?という話になったことがあります。
そもそも我が家にいらした初日って覚えてます?みたいなところから。
「覚えてますよー、覚えてるに決まってるじゃないですかあー!」
相変わらず超絶元気なヘルパーさんです。

なぜに?
「だって、こんな重病人の方のヘルパーなんて、つとまるのかな?と思いますよ。あとはお若いし、どんな方なのかとね。」

へ?私は重病人ですか?

「あったりまえじゃないですか。ご自身をなんだと思ってるんですか?」

え?今でも私は重病人だと思うんですか?

「あのー、何の質問ですか。はい。めっちゃ具合の悪い人ですよ。怠けてると思ったことは1度もありません。むしろ、私はギアをね、下げてもらいたくていつも悩んでますよ。」

ゲラゲラ。

「いや!笑い事じゃないですからね!」

んー、でも私は重病人どころか病気ではないと言われたりするので。

「ん?どなたがそんな?見ればわかりますけどねえ。」

え。誰もがですよ。病気ですって言っても怪しいので、自分も病気じゃないのかもって思い始めるくらいです。
「…ですから、見ればわかりますよ?れっきとした病人ですからね!ご自身をいたわって、ねぎらってくださいよ!」

何ともはや。。そんなこと言っていただいたのは初めてです。そしてそもそもこんな制度まで使わせていただいて、本当に申し訳なくて。

「病気になりたくてなってないんだし、頑張ってるのもすごくわかるし、制度は使えるものは使えばいいんですよ。そのためにあるんだから。」

私のために、6名のヘルパーさんが入れ替わり立ち替わり入ってくださいました。
今回はお一方の話だけですが、とにかくヘルパーさんたちにどれほど支えられたかわかりません。こんな風に心理的にも支えていただいたのです。

なんでヘルパーさんになったのですか?なんて話もたくさん聞きました。皆さん素晴らしい方々です。今後また書かせてください。

病気を発見してもらえた日

2021-01-16 02:13:00 | 病気

あの日、私はどうやって病院に連れて行ってもらったのかすら記憶がありません。担ぎ込まれるように車で行き、車に病院の車椅子を横付けしてもらったのでしょうか。とにかく、気づいた時には病院のベッドにいて、横たわっていたのです。


夫と見知らぬ綺麗な女医さんが話しているのが見えました。どうせまた私は病気ではないのだろう、と悲しくなりました。どうしてこんなところに横たわっているのだろうと猜疑心の塊の私は悪いことばかり考えていました。こんなにも頭の悪い状態の私でも、天井の素材でここが病院ということはすぐにわかりました。夫もわざわざこんな大学病院まで連れて来なくていいよ、と半分恨み節も込めて思いました。どうせ病気ではないと言われて、怒られるだけなんて、金輪際ごめんだと、大変悲しくもなり、悔しくもなり、苛立ちすら覚えました。綺麗な女医さんです。外見からして非の打ち所がない方ですから、もう私とは住んでる世界が違うと思いました。到底理解など示してはもらえまいとぼんやり思いました。

私に意識があることに気づいた先生が、こちらに近づいてくるのがわかりました。私は傷つかないように、少し身構えました。ところが私の予想とは反して、上から覗き込むのではなく、先生はわざわざベットの横でしゃがんで私の顔と同じ目線でお話しされたのです。手をタンカのフチを持つように置かれ、上から目線であったり威圧的とは全く反対の、ちょこんと顔を出してるうさぎさんのような、とにかく親しみやすい雰囲気でした。ただ、表情は少し困ったような感じでした。

「気づかれましたか?私が話していることはわかりますか。」

どうお返事したかなどの詳細はすっかり抜け落ちて忘れているので、今はひたすらに失礼がなかったことを祈るしかありません。多分、はいと答えたか、頷くかしたと思います。

「ご主人から、聞きました。十中八九、内分泌の病気でいらっしゃいます。」

え?

どういうことだろう。

今先生は私を病気だとおっしゃった?

「上の先生に見ていただかなければはっきりしたことは言えないとは思いますが、間違いないと思います。」

先生は、私を病気だと言ってくださっている。


私は病気なのですか?


戸惑いと狼狽と困惑と、霧が晴れるような希望と、道がひとつ見つかったことへの安堵などが一斉に押し寄せ、思考を停止させたと思います。色んな意味で頭が真っ白になりました。

そんなおそらくただ微動だにしないだけの、情けなくも横たわる人間に向かって先生はこうお声かけくださいました。


「いままで、よくがんばっていらっしゃいましたね。」



何かが壊れるような感覚だったろうと思います。

そのまま、声をあげることもなく、涙がこぼれました。こぼれて、こぼれて、一筋の涙になり、とめどなく流れ始めました。

「ねえ、病気だってよ。ねえ、見つかるかもしれないよ。」

と、私の肩をぽんぽんと叩きながら夫は言いました。その手は震えていたと思います。そして撫でるように肩をさわり、声を出せなくなりました。


 病気になることはもちろん全く望んだことではありません。

 しかし、病気であると認めてもらえることは、病名がつくということは治療があるかもしれないという希望があることを意味し、私にとっても家族にとっても消えかけていた、というよりも消えていた火をロウソクに灯すくらい、とんでもなく喜ばしい出来事でした。

 もし私に治療法がなかったとしても、変な人ではなく、病気の人になれる、堂々とできないことの言い訳ができるというのも大きかったと思います。地域の行事、親戚の行事、行けないことやれないことを病気のせいにできるのは、特に家族にとっては死活問題だったと思います。

 

 普通は、病気であることを告知することは大変に難しいことかと思います。

 ガンの告知などは今でも大変な議論の中にあり、患者さんが受ける心理的なダメージに関しては心理学の分野でもひとつの学問になるレベルで議論されています。

 

 しかし、私のようなケースは病気であることを喜んでしまうパターン。おかしな話なのかもしれませんけれども、本当に悲願達成の瞬間でした。

 

 告知的には簡単なケースですので、病名だけ伝えて終わりでも全く問題ありません。にもかかわらず、大変でしたね、よく頑張りましたねとよくこんな患者に声をかけられるなと。その一言は私を家族をどれだけ勇気づけ、ねぎらい、救ってくれたことでしょう。素晴らしい医療とは医療を提供するだけではないのだと、何度も何度も思い出すなかで気づき学びました。


 実際はこのあと検査入院をして、当初検査データがキレイな黒ではなく、しかしグレーの部分が多いので、病気として治療していきましょうということになりました。

 さらに実はもうひとつ病気が隠れていたので、苦悩は続きました。

 それでも、この時を皮切りに生活が良い方向へと大きく動くことになりました。

 私は病気の人間になりましたから、心持ちも少し楽になりましたが、何よりありがたかったのは病気の人間なので、生活支援のための制度を使わせていただけたということです。


 思い出しては感極まってしまう出来事なので、うまく文章にできません。すみません。

 本当になんとも、あたたかい出来事であり、私たちの新たな生活の始まりの日になりました。