癒しの庭Ⅲ

集おう癒しの庭へ

有栖川宮家を考える

2008年11月27日 | Weblog

   最近気になっている人の一人がこの方です。昨日の盛岡藩邸下屋敷に居をかまえた有栖川宮(ありすがわのみや)様です。

  NHKの大河ドラマ「篤姫」もいよいよ終盤を迎え面白くなっています。

 

                                  


     有栖川宮家は歴代、書道歌道の師範を勤めて皇室の信任篤く、将軍家とも婚姻関係を結び、公武ともに密接でした。 

   こちらの方は有栖川宮熾仁親王の婚約者であった皇女和宮(かずのみや)さんです。

            和宮親子内親王    和宮

 

    十四代家茂(いえもち)公御臺所和宮 孝明帝妹宮 と右上に書いてあります。

  

  和宮は1861年(文久元年)、有栖川宮熾仁(たるひと)親王との婚約を解消し、14代将軍家茂(いえもち)の正妻として徳川家に嫁いでいるのですが、この頃は討幕運動が最も激しい時代でもあったのです。

 

               将軍家茂と和宮(写真:NHK) 

 

   和宮が将軍家茂(いえもち)と婚儀を挙げたのは、文久2年2月であったが、その結婚生活は4年半ほどであった。
 その間、家茂は3度も長期にわたって京阪へ出張しており、夫婦がともに江戸城で暮らしたのは実質2年半ほどしかない。しかも最後の1年半近くは家茂は第2次長州征伐のために京阪に滞在を余儀なくされ、和宮は夫の死に目にも会えず、その死に顔を見ることもかなわなかった。和宮、このときかぞえの21歳。

 結婚生活がきわめて短かったのは天璋院(篤姫)も同じで、将軍家定の第3番目の正室として暮らしたのは1年半ほどである。髪をおろして未亡人生活にはいったのは、かぞえの23歳のときであった。

 どちらにしても、彼女たちの結婚生活は国政の動きに翻弄された。

 

          篤姫様(写真提供NHK)      

      NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」-大阪歴史博物館   天璋院様

                天璋院様

 

                                                                                          天璋院篤姫様の生涯        

 

 

                                                                                          麻布の記念公園にある有栖川宮熾仁親王の銅像

 

     有栖川宮熾仁(たるひと)親王の略歴     

 有栖川宮第9代。
 嘉永2年(1849年)親王宣下で熾仁の名を受ける。
 元治元年(1864年)国事御用掛。
 同年の禁門の変で謹慎処分を受けたが、慶応3年(1867年)王政復古により総    裁に就任。
 翌年の戊辰戦争では東征大総督。
  明治8年(1875年)元老院議官、のち議長。
  明治10年(1877年)西南戦争で征討総督となりその功により陸軍大将となる。

  明治15年(1882年)露国皇帝即位典礼に参列して欧州各国を歴訪。
  明治18年(1885年)内閣制度の発足にともない、参謀本部長となり、のちに近衛      都督を兼任。参謀総長も務める。
  日清戦争では陸海全軍の総参謀長となる。

 

  戊辰戦争や西南戦争時は倒幕軍の総督としています。しかし、有栖川宮熾仁(たるひと)親王については次のような見方をしている人もいます。いかがご覧になりますか。 

  ♪宮さん 宮さん お馬の前でひらひらするのはなんじゃいな♪
 公武合体の政略のために、婚約者の皇女和宮を徳川に奪われ、倒幕の旗頭となり、徳川を討つために江戸に攻め上る・・なんてドラマチックな展開ですが、最後の将軍の徳川慶喜が和宮を奪ったのではないし、慶喜は、母親が有栖川家のお姫様なので、従兄弟同士。もともと、従兄弟の助命も頭の中においていたのかもしれません。明治になってから、慶喜の妹を妃に迎えています。                     明治初年の西方の反乱には常に総大将なので、ある意味、日本古来の「戦う皇子」(倭建命や、吉備津彦、久米皇子、大海人皇子などたくさんいます)を再現した人でしょうか。しかも、ヨーロッパやアメリカ、ロシアにまで歴訪していて、皇室外交のさきがけでもあるようで、行動派の貴人です。

 参考

トコトンヤレ節(宮さん宮さん)

    トコトンヤレ節は品川弥二郎が作詩しました。
   師である吉田松陰を罪人として処刑した徳川幕府を恨み、倒幕を「トコトンヤレ」と囃はやしたてた歌を作ったといいます。
   現在伝えられている歌詞には何種類かあるようですが、そのうちの一つをご紹介します。
   ちなみに作曲は大村益次郎であるといわれています。

宮さん宮さん 御馬おんまの前に ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵ちょうてき 征伐せいばつせよとの 錦にしきの御旗みはたじゃ知らないか
トコトントンヤレ トンヤレナ

一天万乗の 一天万乗の 帝王みかどに手向かいする奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土
トコトンヤレ トンヤレナ

音に聞こえし 関東武士さむらい どっちに逃げたと問うたれば
トコトンヤレ トンヤレナ
城も気概も 城も気概も 捨てて吾妻へ逃げたげな
トコトンヤレ トンヤレナ


この曲は日本で最初の軍歌といわれています。
”宮さん”は東征大総督の有栖川宮熾仁親王を指しています。

      

  いずれにせよ有栖川宮熾仁親王も一方の極で全霊をかけてこの時代を激しく生きた方だと思います。 麻布にあった有栖川宮のお屋敷跡は有栖川宮家が断絶したのちは港区の公園となって、多くの人に親しまれているそうです。

   都心にあるとは思えないほどひっそりとしています。日本古来の林泉式の景観と、起伏のある自然を生かした庭園です。
 もともと忠臣蔵で有名な浅野家の下屋敷があったところです。後に盛岡藩南部美濃守の屋敷になり、明治29年(1896)に皇族有栖川宮家の御用地に、大正7年(1913)には高松宮家の御用地なっていました。昭和9年(1934)1月5日、有栖川宮威仁(たけひと)親王の二十周忌のご命日に公園用地として賜与され、東京市は同年11月17日公園として開放しました。現在は港区立の公園で、広さは約67560平米、敷地内には都立中央図書館、麻布運動場もあります。
 近くには南部坂、木下坂、盛岡グランドの名が残り昔を偲ばせています。地下鉄日比谷線「広尾駅」が近いですが、麻布十番からも閑静な住宅街を見物しながら15分ほどです。

 

 

 

  

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   いつの日か、ここ有栖川宮記念公園をゆっくりと散策し、この時代を生きた人々の生き方を考えてみたいと思います

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿