我が家の庭には4つの橋があります。
(1)
(2)
(3)
(4)
(1)と(2)の橋は仙台のプロの I 庭師さんが作って下さった橋です。(3)と(4)の橋は 自称庭師の私が作ったものです。(2)以外は全て「橋添石(はしぞえいし)」が添えてあります。
「橋添石」とは ・・・・
ある庭師さんは橋添石の必要性について次のように話しています(庭師口伝)。
「石橋の四隅には(何箇所か省略することもあるが)、石を添えることが多い。橋に添えるから橋添石(はしぞえいし)、または橋を挟むように置くから橋挟石(はしばさみいし)と言う。昔からの役石だけあって、施工してみると、なるほどその必要性に感心させられる。
石橋だけを据えても、土と石橋の木口がなじまず、石橋が土中に浮いたような状態になり、いつかは沈むような錯覚さえ感じられる(石橋の下には台石が据えてあるのだが、人目には見えない)。橋のすぐ前後に少なくとも二ヵ所の橋添石があれば、渡った時の安定感も良く、石橋は見違えるように精彩を放つ存在となるのである。」
確かに、日本の名庭の橋石組みを見ると大部分には「橋添え石」がありますが、中には「橋添石」が無いものもいくらか見られます。
庭に橋を架けた場合には「橋添石(橋挟み石)は必要なのでしょうか。橋石組みの歴史についての次のような文章がありました。興味のある方はお読み下さい。
「現存している石橋の中で最も古い例として、天龍寺の橋石組がある。滝石組の前に架かっているものそうであるが、橋石組の形態は、主として三橋式のものが多く、二橋は直線的に架けるが、残りの一橋は矩形に折られて架けられている。しかしながらその折り方が、時代が新しくなるにつれて、次第にその折れ方が強くなっていくことから、様式上の大凡の時代鑑定できる手段として憶えておくと良いであろう。橋石の厚みなどは、室町期から桃山期のものは薄い石が用いられることが多かったが、後に厚みのある石が好まれるようになる。特に天正から慶長期にかけては厚いものを使った例が多い。また切石の橋石は江戸初期以降のもので、やや反ったものとして拵えられ、西本願寺の対面所のものや徳島城の千秋閣庭園のものは代表的である。それ以後の切石橋は急速に弱々しい意匠となっていく。また橋石組の意匠に含まれるものとして、両端の袂に石が据えられているが、これを「橋挟みの石」とか「橋添え石」などと呼ぶ。これも室町時代頃には低い石が一石か二石であったものが、桃山期になると、それよりもやや高い立石が三石用いられるようになる。特に江戸初期においてはそのうちの一石は非常に高い立石として据えられる例が多い。更に橋石組の意匠の中で異彩を放つものとしては、玉澗流の橋石がある。これは非常に高い位置に架けられ、用としての橋石というより景として用いられている。」
天龍寺(夢窓国士)
醍醐三宝院(竹田梅松軒)
曼殊院(良尚親王)
古い作庭でも橋添石のないものも見られます。
退蔵院の枯山水
新しい作庭では、小堀遠州(江戸初期)に橋添石のないものが見られます。小堀遠州は古い伝統にこだわらず桂離宮などのモダンな庭を作っています。
古い形式美(橋添石)に寄るかどうかは、古い形式美を超える美を作り出せるかどうか、ひとえに作庭家の感性が問われます。
小堀遠州作 静岡県大鐘家庭園
小堀遠州作 二条城二の丸庭園
小堀遠州作大徳寺芳春院
小堀遠州作知恩院方丈
小堀遠州作二条城二の丸庭園
小堀遠州(こぼりえんしゅう)は1579(天正7)年に滋賀県に生まれ、桂離宮、名古屋城、駿府城、二条城の二の丸庭園など数々の作事奉行を歴任しました。静岡県ではとくに浜松市の龍潭寺が有名です。
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