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町並みの武者隠しを考える!

2007年01月20日 | Weblog

  何故隣町の商店街には「武者隠し」があって、我が町には「武者隠し」が無いのでしょうか。

    どちらも城下町です。町の中心の商店街に武者隠しの有無は何の違いに依るのでしょうか。
 

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  隣町の商店街の現在の住宅地図です。

  商店街の各屋々が道路よりやや斜めに建っています。この段差が3尺3寸(1m)位で、ここが武者隠しになっているのです。見事にそろっていて、その手前に「こもせ(小店か)」(現在のアーケード)があり、一見「武者隠し」は気が付かない状態になっています。

   「こもせ」も「武者隠し」も滋賀県長浜市の様に町おこしの素材になり得ます。
 
  さて、我が町には「武者隠し」が無くて、隣町には「武者隠し」があるの何故かを考えます。

    この隣町商店街は新しい街で、政治的に計画的に、為政者によって作られた街(町)なのです。

  もともとは湿地であったところを埋め立ててつくった町で、それ故計画的に「武者隠し」を作ることができたのです。

  作った人はこの人です。
   南部27代藩主南部利直公です。

  南部藩は代々三戸(岩手県)が藩都でしたが、この人のお父さん(信直公)が盛岡に藩都を移し盛岡城をつくりました。従ってこの利直公は盛岡藩の2代目の藩主さんです。 

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   慶長12年、藩主利直公が隣町のお城(古城)に巡検の折、「向こうに見える野崎(舌状大地の先っちょをそう言う)は何と言う所かと問うた後、その野崎(高台)に新城を築き、その下の釈迦堂谷地(谷地とは湿地)を埋め立て町をつくることを命じたのです。

   釈迦堂という地名にも意味がありそうです。Y先生は十和田湖の最終噴火(915年8月17日)の災害を考えておられます。十和田湖の最終噴火からは690年程の年数差があります。確かにこの地域は大変な被害(火山弾、火山灰、白州洪水など)があったのですが、お釈迦様のお堂が建てたことが600年以上も言い伝えられるのでしょうか。勉強不足の私にはまだ分かりません。たくさんの事例を・・・・。

   隣町の古城(ふるじろ)から新城への移動は、南方への2,3Kmのお城と町の移動です。古城以前は、沢の奥に馬産地が中心であり、この町は我が町と違って町が3度移動しているいるのです。

   ちなみに慶長12年は西暦1607年であり、今年2007年、この町は新城へお城を移転し現在の町が作られてから400年を迎えます。それを記念して町の名所旧跡案内板と説明板を設置しました(私のアイディアです)。ついでに滋賀県長浜市のように「武者隠し」の説明板も商店街に設置したら町のよい宣伝になると思います。

  という訳で、この町の、この街は、400年前に南部利直さんの命でつくられたので武者隠しがあったのです。

   慶長12(1607)年とはどんな時代だったのでしょう。
  慶長5年が関ヶ原の戦いの年であり、徳川将軍から南部領10万石の本領安堵の領地状が出たのは寛永11(1638)年です。
   その間の31年は、大きな変化が続いた年だったと思います。

     
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   突然の年表の提示です。

  明治の内藤十湾という歴史研究家は、隣町が南部利直公の命にでつくられたのは、「慶長2年丁未(ひのとひつじ)の年、国主利直公が当地巡検の折に・・・・」と記していますが、それは間違いです。(年号には干支の数え方がついており、60年で一回りします。)
  
  慶長2年は丁未(ひのとしつじ)の年ではなく、丁酉(ひのととり)の年です。
 
   更に、慶長2年の国主(当時は藩主のことを国主と言いました)は利直公ではなく、上記の歴代藩主の表にあるりお父さんの信直公でした。

   お父さんの信直公は54才で、慶長4年に盛岡から古里三戸に戻って亡くなり、利直公は、その年慶長4年に、初めて国主(藩主)になったのです。ですから慶長2年に国主として巡検することはできなかったのです。

   2年と12年は1の字を書き忘れると起こる間違い、我が師のY先生が内藤先生の間違いに気付き、間違ったわけをこのように説明してくれました。
  
   昨日は、これまで私が3年間、隣町の史談会の学習会に参加していたことを喜び、恩師Y先生の素晴らしさを感じた1日でした。

  昨日1日で、市文化財保護協会に参加する人1名、機関誌への投稿者2名が居りました。

   機関誌への投稿は印刷屋さんとの約束の期限が過ぎていますし、予算のページ数をオーバーしてしまいます。

   それでも何とかできたら、私は人の役に立てる人でしょう。

   頑張りますが、明日は八HIROさんの所に1泊でお出かけ、その後にしっかり頑張ります

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