山中さんがノーベル賞を受賞された日に、わが国の子どもたちの理数系の能力が向上したという記事が出た。
偶然にしても面白いと思った。
よく理数系の能力の必要性について議論されることがある。
例えば、分数がわからなくてもりんごを人数分わけれるだろうという稚拙な議論である。。
確かに、微分・積分などなんの役に立つのかと自分自身考えたこともある。
しかし、日常の中で使われていることが多い。
前述の分数がわからない子は、多分、後ろに回ってりんごを切ろうとしないであろう。
わかる子は自信満々に「私がやる!」といって前面に出てくることだろう。
わからないということが悪いことではなく、その人の生き方を消極的にしてしまう場面に出くわしてしまう可能性が高いということ。
「死にやしない」と高をくくる人はいい。
でも、そうでない人もこの世にはたくさんいる。
偉そうにいっているが、私自身も法律が苦手で理数を選んだのである。
しかし、法律が基本にある職業についてしまった。
以前にも書いたことがあるのだが、法律を読むのが苦痛で仕方なかった。
この仕事を生涯やれるのだろうかと不安に思った時期もある。
そんなある日、ぼんやりと条文を見ていて気付いたことがある。
条文にはパターンがあることを。
他の法律にも目を通すと、やはりパターンがある。
必ず、目的がしっかりと書かれている。
次に、その条文で出てきた言葉の定義が説明してある。
そして、作業の手順、いわゆる時系列に書かれていること。
さらに、但し書きは例外的なことであること。
罰則のあるものとないもの、などなど。
これらのことが見え始めた時からずいぶんと法律を読むのが楽になった思い出がある。
また、数学の定理を導き出すプロセスも現在の仕事に役立つところがある。
それは、仮説を立て、さまざまな方法で証明をしていき、立証するという流れである。
特に前例のない事業に向き合った時に、自分なりの仮説を立て、それを導き出すための手法を組み立てていく。
うまく導き出せない時は、証明の過程にミスがあったのではないかと疑うのである。
ミスが見つけられないときは、仮説に根本的な間違いがあったのではないか、ならば新たな仮説を立てるといった具合に行動をするのである。
このときに大事なことは、仮説にこだわりすぎると深みに入ってしまうので迅速に切り替えを行うことである。
しかしその仮説に思い入れが深いとアクションが遅れてしまう。
このすばやさを欠くと、軽傷が重傷になる可能性が高い。
だが理数系的な発想は、平気で自身を否定しないと前へ進めないのである。
おかげで、「自分もまちがえるのだから、相手もまちがえて当然」といった感じを常にもっている。
すると、「誰がミスをしたか」ではなく、「なぜ、ミスをしたか」を考えるようになる。
ここが、「人と変わっている」とか、「公務員らしくない」と言われる所以なのかもしれない。