皆さんは、水谷隼さんをご存知であろうか?
若くして日本の卓球界を担う稀代の天才プレーヤーである。
(水谷隼:1989年6月9日、静岡県生まれ。ドイツでの卓球留学を経て、'07年、史上最年少の17歳で全日本王者に輝き、同年から史上初の5連覇達成。青森山田高から'08年、明大に進学。'09年世界選手権ダブルスで銅メダル獲得。北京五輪より2大会連続五輪代表。)
そんな彼も、卓球というスポーツの中で、世界的な“不正行為”の犠牲となり、苦しんできた。
違法な用具を使うことなく、ただ、「フェアな条件で戦いたい」という一念で、卓球という競技の未来のため、選手生命を賭け、問題提起を行っている。
日の丸を背負って北京、ロンドンと2度の五輪を戦った水谷隼。
Number815号に掲載された勇気ある告発を以下に引用する。
僕はこれから、選手生命をかけて卓球界に横行している不正行為と戦っていきたいと思っています。
もちろん、アンフェアな状況への憤りがあるからですが、それだけが理由ではありません。
このまま不正行為を放置すれば、卓球というスポーツの未来にも暗い影を落としていくという危惧が心の底にあるからです。
「補助剤」をラバーの裏側に塗ることで、大きく変わる打球の質。
卓球をしている人なら「補助剤」、英語で「ブースター」と呼ばれる液体のことは聞いたことがあると思います。
その多くは石油系油脂ですが、ラバーの裏側に塗ると、油の分子がラバーの分子と結合してテンションがかかり、反発力が強くなります。
補助剤を塗りこんだラバーは打球のスピードや威力が増してスピンがかかりやすくなるだけではなく、表面が柔らかくなってボールコントロールも安定します。
魔法のような液体なのですが、国際卓球連盟(ITTF)は補助剤の使用を明確に禁止しています。
つまり、補助剤を塗り込んだラバーは“違法ラバー”です。
日本以外の国で、不正行為に手を染める選手が増え続けている。
もちろん、僕たち日本選手は厳格にルールを守っています。
ところが、日本以外の国では、この違法ラバーを使って国際大会に出場している選手がたくさんいるのです。
これまでも何度かこの問題を指摘してきましたが、不正行為に手を染める選手は増え続けているのが現状です。
僕は技術を磨くことで、こうしたルール違反をおかす選手たちに勝とうとしてきました。
世界ランキング5位という地位を手にしたのはその勲章だと思っています。
でも、ロンドン五輪が終わったあと、自分が今やるべきことに気づいたのです。
10代の頃から「天才」と呼ばれ、全日本選手権で前人未踏の男子シングルス5連覇を達成した水谷隼が、年内に出場を予定していた国際大会への出場をキャンセルした。
「選手生命をかけて」補助剤問題の実態を明らかにし、ルールの厳格化を世界中に訴えるためである。
日本卓球界の至宝がさまざまなリスクと向き合いながら、それでも立ち上がった背景にはどんな葛藤と決断があったのだろうか。
なぜ、補助剤が使用されるようになってしまったのか?
卓球を知らない人にはわかりにくいでしょうが、補助剤が登場した経緯を簡単に振り返っておきます。
2008年の北京五輪までは「スピードグルー」という接着剤を僕を含めたほとんどの選手が使っていました。
ラバーをより弾ませるために、この「グルー」を大量に塗り込んでラケットに貼り合わせていたのです。
ゴムの分子と溶剤の分子が結合して膨張するのは補助剤と同じですが、グルーは有機溶剤が主成分なので、人体への影響が懸念されていました。
グルーの使用が禁止されたのは、'07年にグルーを塗っていた日本の選手が意識不明の重体になった事故がきっかけです。
日本卓球協会がいちはやくグルーの使用禁止を選手に勧告し、ITTFも北京五輪後にグルーの全面禁止に踏み切りました。
同時に、ラバーに接着剤や接着シート以外の付加的な処理、いわゆる「後加工」を禁じることもルールに定めたのです。
初めてグルーを塗らないラバーで打った時、全然弾まないし、摩擦力も落ちて愕然としたことを覚えています。
同じラバーを使っても、感覚がまったく違うんです。
いろんなラバーを試し、違和感なく打てるようになるのに2カ月ほどかかりました。
しかし、グルーと同じ感覚を求めた一部の選手は、新たな方法でラバーを弾ませることを考えました。
それが、補助剤です。
もちろん、補助剤を塗る行為は「後加工」にあたりますから、補助剤はこの時点で卓球界に存在してはならないものだったのですが……。
考えられないボールの回転や速度、金属を叩くような打球音。
半年もしないうちに補助剤を使っている選手が何人か現れました。
いつ、誰がどこで最初に使ったのかはわかりませんが、'09年4~5月に横浜で世界選手権が開かれたころにはかなり増えていたと思います。
対戦すると、ITTFに公認されたラバーの性能では考えられないスピードと回転でボールが返ってくるし、金属を叩くような打球音が会場に響くからわかるんです。
僕たちはミリ単位の繊細な感覚で技術を競っています。
補助剤を塗った選手との試合を100m走にたとえれば、スタートラインの10m先に相手のスターティングブロックが設置されているようなものなんです。
大事な試合で違法ラバーを使う選手に負けるたび、もし、補助剤がなかったら……と考えないわけにはいきませんでした。
用具ドーピングを見抜くはずの検査方法にも問題が。
練習場で堂々と補助剤を塗ったり、補助剤を塗ったラバーを持って移動バスに乗り込む選手を何度も目撃するようになったのは、ここ2年ぐらいのことです。
ルールを破る選手が増えるにしたがって、彼らのなかに罪悪感がなくなっていったのです。
日本のスタッフに、製造メーカーの関係者が補助剤を使うよう勧めてきたこともありました。
補助剤を塗り込めば膨張してラバーが厚くなります。
ラバーの厚さは4ミリ以下に制限されているので、ラケットの表面をくり抜き、その上に違法ラバーを貼り付けて厚みをごまかす選手もいるのです。
問われているのは、選手や指導者、メーカー関係者のモラルだけではありません。
ITTFが用具ドーピングで使う検査器は揮発性の高い有機溶剤を検査するためのもので、揮発性の低い補助剤の成分はほとんど検出できません。
補助剤は健康問題ではなく、後加工の問題ととらえて新たな検査方法を設けるべきなのですが、今のままだと簡単に検査をすり抜けてしまうのです。
北京五輪後に国際卓球連盟へ直訴も、ロンドンでは何も変わらず。
北京五輪が終わったあと、僕はメダルを逃した悔しさを次のロンドンで晴らそうと練習を積んできました。
その思いが強かったから全日本選手権を5連覇し、世界ランキングも5位まであげることができました。
補助剤の問題が起こっても、ロンドンまでには解決すると信じていたのです。
ロンドン五輪の直前、僕はITTF副会長で日本卓球協会副会長も務める木村興治さんに直訴しました。
「卓球をやめる前に、一度でもいいから、補助剤なしのフェアな条件で世界の頂点を争ってみたい」と。
木村さんは僕の思いを受けとめてくださり、ITTFのアダム・シャララ会長にフェアプレーの精神を選手に徹底させるよう強く訴えてくれました。
そのことにはとても感謝しています。
でも、結果的にロンドンでも何も変わらなかったのです。
議論の対象として受け止められない日本の問題提起。
水谷の思いを受け止めた木村氏は「新しい検査器を導入しても、いたちごっこに終わる懸念が残ります。問題を解決するには、抜本的な改革が必要なんです」と語る。
「例えば、日本卓球協会では接着剤を使わずにラバーをラケットに貼り付ける接着シートを研究開発し、すでにITTFにも提言しています。
『簡単にはがれてしまう不安がある』とアスリート委員会から反対されていますが、他にも薄いアルミをラケットの表面に貼り付け、ラバーの厚さを簡単に計測できる方法、あるいは接着剤を公認制にし、成分を正確に把握したうえで試合後にはがして異物が混入していないか検査する方法などを検討しています。
しかし、他の国の理事たちの問題意識が薄く、ITTF内では日本が投げたボールを議論の対象としてきちんと受けとめてくれていないというのが実感でした」
「メダルを獲れなかった言い訳にするな」という声も。
だが、ロンドン五輪開催中にアダム・シャララ会長が「不正行為をしている選手がいるのはわかっている」と、日本のテレビ局の取材に語ってから流れが変わってきたという。
「これは大きな前進です。トップが不正を認めたのですから、ITTFは急いで問題解決にあたらなければいけません。水谷選手の憤りは理解できますが、今は自分の技術を磨くことに集中してほしい。問題が解決したとき、改めて日本選手のフェアプレーの精神が讃えられるはずですから。シャララ会長は同じ取材で『リオまでには解決したい』と語ってましたが、私個人の思いとしては、この1年以内にすべての状況をフェアにしていきたい」
ロンドン五輪のあと、問題を解決するためには自分の進退をかけるしかないと思いました。
それで静岡に帰省したとき、新聞記者の人たちに補助剤の問題を訴え、解決するまでは国際大会を欠場する意向を伝えたのです。
いろんな反応がありました。
「メダルを獲れなかった言い訳にするな」という声も聞こえてきました。
僕の立場が危うくなることを心配してくれる人もいましたが、僕は自分の競技人生だけではなく、卓球という競技が歪んだ方向へ流れていくのをなんとかしてくい止めたいのです。
ルール違反を認めれば、卓球はスポーツでなくなる。
僕は5歳で卓球を始め、14歳でドイツへ渡りました。
外国で生活するのは大変でしたが、多くの観客の前でプレーすることが楽しかったから耐えられました。
卓球をするのが楽しいという気持ちが、僕の原点なんです。
今、ラケットを振り始めたばかりの子どもたちにも、同じように楽しいと感じてほしい。
でも、トップ選手たちによる不正を放置したままでは、胸を張って子どもたちに卓球を楽しんでほしいとは言えません。
日本の女子代表は五輪で銀メダルを獲得し、僕も世界ランクの上位にいます。
そうした結果をとらえて「補助剤を塗ってもあまり変わらない」と指摘する人もいますが、それならなぜ、補助剤を塗り続ける選手がいるのでしょう。
なにより、ルールに反する行為を認めてしまえば、それはもうスポーツではありません。
「日本選手も使えば、フェアになる」という意見もあるが……。
「体に無害なら、ルールを改正して補助剤の使用を認めてもいいのではないか」という意見も耳にします。
「日本選手も使えば、フェアになる」と。
でも、後加工を認めると、卓球はどんどん用具偏重の特異な競技になってしまいます。
それに、もし今から補助剤が認められたら、僕は卓球をやめるでしょう。
誠実にルールを守りながら、技術を磨いてきたこの4年間、19歳から23歳までの日々が無駄になるからです。
アスリートにとって、時間は命です。
もし、今回の行動でなにも変わらなければ、これまでと同じ気持ちで世界選手権やオリンピックを目指すことはできません。
一刻でも早く、この問題に終止符が打てる日が来ることを願っています。
卓球という競技は、エスカレートする用具開発に歯止めをかけるルール改正を繰り返してきた。
使用する用具の差ではなく、アスリートが心技体のすべてをぶつけて勝敗を競うというスポーツの本質から逸脱しないためだ。
だが、補助剤の問題は明確なルールがありながらそれが守られていない点に、これまでとは違う闇の深さを感じてしまう。
今はこの問題を解決するために、自分がいるんだと思っています。
インタビューを終える直前、水谷隼は「自分は捨て石になってもかまわない」とも言った。
だが、その覚悟の強さが、稀有な才能を孤立させることにつながらないだろうか。
そんな危惧を伝えると、さらに力のこもった言葉が返ってきた。
もちろん、協会をはじめ、いろんな人と協力してこの問題を解決していきたい。
でも、仮に声をあげるのが僕一人になっても考えは変わりません。
それは、卓球という競技を守るために、自分は正しいことをしているという確信があるからです。違う時代にプレーできていれば……と否定的に考えたこともありましたが、今はこの問題を解決するために自分がいるんだと思っています。
この話を聞き、水谷さんの中に武士道のようなものを見出しました。
勝利することだけにこだわる。
勝利すればやり方は何でもいいのか。たとえ卑怯なことをしても。
正々堂々と戦う。
その結果として勝ち負けがある。
私たち日本人は、古来からその精神を受け継いでいる民族である。
常に、水谷さんのように気高く、正々堂々と生きる。
今、私たちが置き忘れてきた精神である。