小学英語、外国人の指導助手巡る問題山積
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090728-00000597-yom-soci
この記事は外国人指導助手の質の低さだけを一方的に問題にしているが,学校側の志の低さも同様に問題であるのが,コトの本質だ.
なぜだろうか.日本では責任を負う自由から逃げたがることばかりだ.
値切るのなら,自分の価値も低くすることを知らなければならない.
思い切った予算を使うのであれば,それを見届ける責任も伴うことを忘れてはならない.
そもそも「外国語指導助手」というポジション自体が,質の上限を押さえているものではないのか.
「外国語指導助手」を続けることでパーマネントの職を得ることができる道が開かれているのか?
上限が決まっていて,減点法しかないところに,偏りのある天の声をいつまでも待つ若者を期待することに不健全性を感じないのだろうか.
腰かけしか期待していないから腰かけしか来ない.
もっと言えば,腰かけしか期待できないから腰かけしか来ないのだ.
責任ある立場を用意すべきだと思う.
奴隷の質を上げようと使用者がいくら努力したとしても,奴隷解放という結論にはたどり着けないのと同じ.
実に簡単な「志」の問題だ.
自由・平等・博愛
なぜ「自由」を語る時に「責任」まで説明しないといけなくなったのか.
なぜ「平等」を語る時に「機会の」と注意しなくてはいけなくなったのか.
なぜ「博愛」を語る時に「同情ではなく」と釘を刺さなくてはいけなくなったのか.
恐ろしいことに,赤信号をみんなで渡ることに慣れすぎると,人は赤信号の意味すら分からなくなる.
知的インフラというものは,安易な怠惰の前に,実に脆く儚い.
しかしそれ故に挑戦し続けることは尊い.
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