前回の続きのお姉ちゃんの話に行く前に、何故私がそんなにも
彼女の話に飛びついてむさぼるように聞き入ったのか、
その理由を書いておきたいと思う。
以前私が住んでいた香港にもベトナムからボートで渡ってきた難民が
いっぱいいた。彼らは80年代に香港政府が決めた政策で
すべてのベトナム難民は監獄のような‘閉鎖キャンプ’に入れられ、
外部との接触を禁じられた。
香港政府は他の近隣諸国よりも東南アジアからの難民の負担を
不当に多く分担していると考え、これ以上の負担を排し、
キャンプの滞在者には、ベトナムに帰ってもらい、
新たな流入は阻止しようとした。
そのため、香港での難民の生活環境をかなり劣悪な状態にし、
高いフェンスとコンクリートの壁、四六時中の監視、
食べること寝ること意外、何も許されないプライバシーの全くない生活にした。
この「人道的抑制政策」と呼ばれる悪名高き政策により
香港は居場所の悪い所だと考え、流入はとまり、キャンプ難民は
ベトナムに戻る、というのが政策の意図だったらしい。
そのベトナム難民と呼ばれる人たちをベトナムに送り返す、という仕事に
私は90年代の始めに携わったことがある。
当時はまったくこういう事情がわからず、仕事として
機内でのトイレの使い方、赤ちゃんたちが垂れ流さないようにとの理由で
配るおむつの使い方、など機内での決まり事を
ただただ夢中に一人一人、一列一列教えた。
しかし、その甲斐まったくなく、赤ちゃんはあちこちで
垂れ流していた。 つけてあげても取っていた。
もちろん言葉がお互いにわからないので、
身振り手振りでのやりとりなのだが
はっきり言って紙おむつを知らない人たちに、
おそらくおむつをしない慣習なのかもしれない人たちに、
我々の常識で紙オムツを強要したり、
洋式トイレを正しく使えと言ったり、
(飛行機の中だから郷に入っては郷に従えなのかもしれないが)
それができないからと言って(トイレのふたの上に大便をしてる人もいた)
私もかなりたじろいだが、彼らを軽蔑したりする方が違うのではないかと感じた。
食事の時間になって、異臭の漂う機内を歩いて回った。
そこに4歳くらいの女の子が一人で座っていた。
私は横に座って、フォークを出してあげたり、
食べやすいようにアレンジしてあげた。
なんとも言えない可愛い笑顔が私の心をつかんだ。
可愛らしさとあどけなさ、子供がもっている透き通った光、
おそらく全くなぜ自分がここに座っているのかなんて
全く知らないし、知る必要もない、ただこの瞬間を
楽しんでいた。
私が隣に座ったのが嬉しかったのか
私の手を触ったり、私のおでこに自分のおでこをつけたり、
ニコニコ喜んでいた。
あまりにも可愛くて私の方が彼女のそばを離れることができなかった。
美味しそうに全部たいらげて、私の指輪を触ったりしながら
楽しそうに笑っていた。
私はなんとも表現に難しい不思議な感情で胸がいっぱいになり、
涙が出てきた。けどこのあどけない愛くるしく笑う少女を見て
楽しくこの瞬間を一緒に遊ぶことが、きっと二人にとって一番なんだと思った。
一時的な感情だと言われたけど、私はあの少女を連れて帰りたかった。
飛行機がベトナムの地に着地する前に、注意を受けた。
次のベトナム脱出の時に使うために
難民たちが‘救命胴衣’(あの黄色い膨らむベスト)を盗んで行くから、
見つけたら取り上げるように。
ありがたいことに私は見つけなかった。
けどもし見つけても、見なかったふりをしたんだと思う。
自分が死ぬかもしれないけど出て行きたい自分の祖国。
その思いを持って、家の近所のベトナムレストランのオーナーであり
シェフのお姉ちゃんは、ちょうど私がこの仕事を経験したのと同じ頃、
小さい船で家族に別れを告げてベトナムを出発していたのだ。
彼女の話に飛びついてむさぼるように聞き入ったのか、
その理由を書いておきたいと思う。
以前私が住んでいた香港にもベトナムからボートで渡ってきた難民が
いっぱいいた。彼らは80年代に香港政府が決めた政策で
すべてのベトナム難民は監獄のような‘閉鎖キャンプ’に入れられ、
外部との接触を禁じられた。
香港政府は他の近隣諸国よりも東南アジアからの難民の負担を
不当に多く分担していると考え、これ以上の負担を排し、
キャンプの滞在者には、ベトナムに帰ってもらい、
新たな流入は阻止しようとした。
そのため、香港での難民の生活環境をかなり劣悪な状態にし、
高いフェンスとコンクリートの壁、四六時中の監視、
食べること寝ること意外、何も許されないプライバシーの全くない生活にした。
この「人道的抑制政策」と呼ばれる悪名高き政策により
香港は居場所の悪い所だと考え、流入はとまり、キャンプ難民は
ベトナムに戻る、というのが政策の意図だったらしい。
そのベトナム難民と呼ばれる人たちをベトナムに送り返す、という仕事に
私は90年代の始めに携わったことがある。
当時はまったくこういう事情がわからず、仕事として
機内でのトイレの使い方、赤ちゃんたちが垂れ流さないようにとの理由で
配るおむつの使い方、など機内での決まり事を
ただただ夢中に一人一人、一列一列教えた。
しかし、その甲斐まったくなく、赤ちゃんはあちこちで
垂れ流していた。 つけてあげても取っていた。
もちろん言葉がお互いにわからないので、
身振り手振りでのやりとりなのだが
はっきり言って紙おむつを知らない人たちに、
おそらくおむつをしない慣習なのかもしれない人たちに、
我々の常識で紙オムツを強要したり、
洋式トイレを正しく使えと言ったり、
(飛行機の中だから郷に入っては郷に従えなのかもしれないが)
それができないからと言って(トイレのふたの上に大便をしてる人もいた)
私もかなりたじろいだが、彼らを軽蔑したりする方が違うのではないかと感じた。
食事の時間になって、異臭の漂う機内を歩いて回った。
そこに4歳くらいの女の子が一人で座っていた。
私は横に座って、フォークを出してあげたり、
食べやすいようにアレンジしてあげた。
なんとも言えない可愛い笑顔が私の心をつかんだ。
可愛らしさとあどけなさ、子供がもっている透き通った光、
おそらく全くなぜ自分がここに座っているのかなんて
全く知らないし、知る必要もない、ただこの瞬間を
楽しんでいた。
私が隣に座ったのが嬉しかったのか
私の手を触ったり、私のおでこに自分のおでこをつけたり、
ニコニコ喜んでいた。
あまりにも可愛くて私の方が彼女のそばを離れることができなかった。
美味しそうに全部たいらげて、私の指輪を触ったりしながら
楽しそうに笑っていた。
私はなんとも表現に難しい不思議な感情で胸がいっぱいになり、
涙が出てきた。けどこのあどけない愛くるしく笑う少女を見て
楽しくこの瞬間を一緒に遊ぶことが、きっと二人にとって一番なんだと思った。
一時的な感情だと言われたけど、私はあの少女を連れて帰りたかった。
飛行機がベトナムの地に着地する前に、注意を受けた。
次のベトナム脱出の時に使うために
難民たちが‘救命胴衣’(あの黄色い膨らむベスト)を盗んで行くから、
見つけたら取り上げるように。
ありがたいことに私は見つけなかった。
けどもし見つけても、見なかったふりをしたんだと思う。
自分が死ぬかもしれないけど出て行きたい自分の祖国。
その思いを持って、家の近所のベトナムレストランのオーナーであり
シェフのお姉ちゃんは、ちょうど私がこの仕事を経験したのと同じ頃、
小さい船で家族に別れを告げてベトナムを出発していたのだ。