今日は朝から晩まで生命力を感じた一日だった。
まずは月に一回の座禅会。
私は子供の頃から何故か座禅好きで、夏休みの座禅会が大好きだった。
そのときの住職が今でも一緒に座っている。
90歳をとうに過ぎているのに、肌はつやつや、声はしっかり
頭はもちろん、説法は聞きやすく、とっても元気で若々しい
”命をかけてお座りください”という住職の言葉に
”あいよ!”と思いながら、なんだか今日も笑えた。
叔父の認知症が進んでいるという連絡を受け、
弟である私の父が今日急遽叔父を訪ねて行った。
4日ぶりの畑で、ぐんぐんのびていくアマランサスの強さに驚く。
自然農法一年生の私は、自然が教えてくれるすべてのことに感動する。
ルッコラが始めの頃は虫に食われて穴だらけだったのだけど、
最近は土の状態がよくなったのか、ルッコラらしいルッコラで、味もすごく濃い。
お隣の広い畑にただ一人もくもくと野良仕事をしているおじちゃま発見。
こんな炎天下では普通の人は農作業なんかしないのよね。
(コツは休み休みやるのです!おじちゃまはカルピスソーダを飲んでいた)
そのおじちゃまは殆どの野菜を自分で作って食べている。
買うのはもやしくらいだな。。。と。
もやしは私はつくれるんだけどな、逆だな、と思ってたら
いっぱい持ってけ~、と山のようにトマトをくれた。(自分でもいだ)
いつもいっぱい師匠のお父さんやれ皆さんからたくさん野菜をいただく。
私はお分けするほどのものがまだ収穫できない。
いつか私もやりたいな。
いっぱいできたのよ、持ってってください!と。
以前からできるだけ自給自足を目指すぞ、とは思っていた。
けど今日私は決心しちゃった。私も殆どの野菜や雑穀を自分で作って食べよう!
願わくば果物の木なんかもくっついてきてくれたら嬉しい。
梅、もも、ざくろ、柿、みかん、びわ、レモン、りんご、梨、、、
あ~、夢はふくらむ。くるみの木もあったらいいな。
いただいたトマトを洗ってバジルと一緒にその場でかじった。
美味しい。甘い。香りがたまらない。
おいしい野菜は生命力に溢れている。
気持ちのよいけだるさで車をいつもの梨園に走らせる。
八千代の美味しい梨を東京の友達に送ってあげるのだ。
私はこのおじちゃんからいつも梨を買う。彼の職人魂が好き。
もぎたての梨をいつもその場で食べさせてくれる。
適当に蒔いたら芽がでてきたというブドウも。甘い。
この美味しさは身体が喜ぶ美味しさ。まさにぬちぐすい。
もぎたて、摘みたて、掘りたて、とりたて。
命、生命力、ぷるぷる、みずみずしい、甘い、香り。。。。
ゴーヤも3本もぎに行ってくれた。その一時間後にサラダにして食べた。
これまた感動の美味しさなのだ。
梨屋さんのおじちゃんのおばあちゃんは98歳。
今でも元気で身体も頭も元気だよ~と高らかに笑う。
生命力のある食べ物を食べ、(昔は添加物なんかなかった、欲しくても)
身体をつかって、(おばあちゃんは米一俵をかついで急な坂を平気で上がっていたらしい)
無理をせずに休む時は休み、早く寝る。
家族と孫とよく笑う。家族と一緒にご飯を食べる。
太陽とともに起きて、太陽とともに寝る。
長生きだけがいいわけではないという人もいる。
けど元気に長生きはやっぱりいいと思う。
おじさんと話しながらもぎたての梨を食べ、
このおじさんの優しい職人の溢れる魅力と共に生命力を感じた。
叔父の様子を父に聞いた。父の声はがっくりきている。
声が悲しそうだった。あんなに一生懸命生きてきたのに、、、と
ぽつりと小声で言った。
叔父は弟である父を理解できなかった。
父もとても辛いんだとおもう。自分のことは何も言わなかったけど。
私はただ話を聞くだけしかできなかった。
しばらく会ってない叔父のことを考えながら、ふと思った。
叔父は毎日を忘れたかったのだろうか。
人はどうして認知症になってしまうのだろう。
人の最大の欲求は、愛されること、認められることという。
その為に、私たちの行動は形作られ、それは時として自虐的でもあるという。
これについては賛否両論だと思う。
しかしその説が正しいとするならば、
叔父は愛されたいから、認められたいから認知症になったのだろうか。
とすると私たちにできることはただひとつ
愛すること、大切にすること。
生きていること、それは様々なドラマがあって
私たちはみんなそのドラマの主人公なんだ、と
昔のさだまさしの曲を思い出した。
まずは月に一回の座禅会。
私は子供の頃から何故か座禅好きで、夏休みの座禅会が大好きだった。
そのときの住職が今でも一緒に座っている。
90歳をとうに過ぎているのに、肌はつやつや、声はしっかり
頭はもちろん、説法は聞きやすく、とっても元気で若々しい
”命をかけてお座りください”という住職の言葉に
”あいよ!”と思いながら、なんだか今日も笑えた。
叔父の認知症が進んでいるという連絡を受け、
弟である私の父が今日急遽叔父を訪ねて行った。
4日ぶりの畑で、ぐんぐんのびていくアマランサスの強さに驚く。
自然農法一年生の私は、自然が教えてくれるすべてのことに感動する。
ルッコラが始めの頃は虫に食われて穴だらけだったのだけど、
最近は土の状態がよくなったのか、ルッコラらしいルッコラで、味もすごく濃い。
お隣の広い畑にただ一人もくもくと野良仕事をしているおじちゃま発見。
こんな炎天下では普通の人は農作業なんかしないのよね。
(コツは休み休みやるのです!おじちゃまはカルピスソーダを飲んでいた)
そのおじちゃまは殆どの野菜を自分で作って食べている。
買うのはもやしくらいだな。。。と。
もやしは私はつくれるんだけどな、逆だな、と思ってたら
いっぱい持ってけ~、と山のようにトマトをくれた。(自分でもいだ)
いつもいっぱい師匠のお父さんやれ皆さんからたくさん野菜をいただく。
私はお分けするほどのものがまだ収穫できない。
いつか私もやりたいな。
いっぱいできたのよ、持ってってください!と。
以前からできるだけ自給自足を目指すぞ、とは思っていた。
けど今日私は決心しちゃった。私も殆どの野菜や雑穀を自分で作って食べよう!
願わくば果物の木なんかもくっついてきてくれたら嬉しい。
梅、もも、ざくろ、柿、みかん、びわ、レモン、りんご、梨、、、
あ~、夢はふくらむ。くるみの木もあったらいいな。
いただいたトマトを洗ってバジルと一緒にその場でかじった。
美味しい。甘い。香りがたまらない。
おいしい野菜は生命力に溢れている。
気持ちのよいけだるさで車をいつもの梨園に走らせる。
八千代の美味しい梨を東京の友達に送ってあげるのだ。
私はこのおじちゃんからいつも梨を買う。彼の職人魂が好き。
もぎたての梨をいつもその場で食べさせてくれる。
適当に蒔いたら芽がでてきたというブドウも。甘い。
この美味しさは身体が喜ぶ美味しさ。まさにぬちぐすい。
もぎたて、摘みたて、掘りたて、とりたて。
命、生命力、ぷるぷる、みずみずしい、甘い、香り。。。。
ゴーヤも3本もぎに行ってくれた。その一時間後にサラダにして食べた。
これまた感動の美味しさなのだ。
梨屋さんのおじちゃんのおばあちゃんは98歳。
今でも元気で身体も頭も元気だよ~と高らかに笑う。
生命力のある食べ物を食べ、(昔は添加物なんかなかった、欲しくても)
身体をつかって、(おばあちゃんは米一俵をかついで急な坂を平気で上がっていたらしい)
無理をせずに休む時は休み、早く寝る。
家族と孫とよく笑う。家族と一緒にご飯を食べる。
太陽とともに起きて、太陽とともに寝る。
長生きだけがいいわけではないという人もいる。
けど元気に長生きはやっぱりいいと思う。
おじさんと話しながらもぎたての梨を食べ、
このおじさんの優しい職人の溢れる魅力と共に生命力を感じた。
叔父の様子を父に聞いた。父の声はがっくりきている。
声が悲しそうだった。あんなに一生懸命生きてきたのに、、、と
ぽつりと小声で言った。
叔父は弟である父を理解できなかった。
父もとても辛いんだとおもう。自分のことは何も言わなかったけど。
私はただ話を聞くだけしかできなかった。
しばらく会ってない叔父のことを考えながら、ふと思った。
叔父は毎日を忘れたかったのだろうか。
人はどうして認知症になってしまうのだろう。
人の最大の欲求は、愛されること、認められることという。
その為に、私たちの行動は形作られ、それは時として自虐的でもあるという。
これについては賛否両論だと思う。
しかしその説が正しいとするならば、
叔父は愛されたいから、認められたいから認知症になったのだろうか。
とすると私たちにできることはただひとつ
愛すること、大切にすること。
生きていること、それは様々なドラマがあって
私たちはみんなそのドラマの主人公なんだ、と
昔のさだまさしの曲を思い出した。