源太郎のブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

アルバイト

2009年05月31日 | エッセイ

 「ワンワンワンワン」と犬になった私、相手の女優が犬の私に人間の言葉で話しかける。これは放送局のスタジオで子供向けテレビ番組のオーディションの一風景。私はひたすら「ワンワンワン」、相手の女優は次々と変わる。翌日、タレント事務所のマネージャーが担当ディレクターに囁いたと言う、「うちにはもっと上手い「犬」が居ますよ」。マネージャーは私がオーディションの相手役を務めるアルバイトだとは知らなかったのだ。

 学生にアルバイトはつきもの。「飛行機を使わないで世界一周」する事を目指していた私、勉強はそっちのけで資金をためる為アルバイトに勤しんだ。もっぱら東京の某放送局でのアルバイト。色々な仕事を体験した。冒頭の仕事はオーディションの相手役。ただ「ワンワン」言っていればお金が貰えると言う仕儀だった。アルバイトを雇う予算の無かったその番組では窮余の策として「出演料」の予算を使って学生アルバイトを雇ったのだ。だから出演料は出演料でも最低ランク。それでも、普通のバイトで一日に稼げるくらいは稼いだ。もっとも、3~4時間で収録が終わればもう一本、と言う事もあったから割の悪い話ではなかった。

 テレビで時々見かける「雪の降る」シーン。広いスタジオを照明器具等で埋め尽くされた天井から見下ろす。場面に合わせて発泡スチロールの「雪」を降らせる。所が、上から見ると「雪の降り具合」が判らない。一応手持ちの「雪」は首尾よく降らせた。後で、放送を見たらチラチラ降る雪の中に時折バサッと雪の塊が落下していたのだった。テストで降らしてみる時間も予算もなかったのだろう。ぶっつけ本番にはこんなリスクが付きまとうのだ。

 放送業界の用語で「FD」と言うのがある。もっぱらスタジオのフロアーに居て、ディレクターの指示を伝えるのがフロアー・ディレクター(FD)の仕事。番組の進行を予定に合わせて早めたり遅らせたりするキュー(サイン)を出演者に送る。ある時、ディレクターの指示が余り唐突だった。慌てて出演者の目を見てキュー、それを見た出演者、びっくりして声が出ない。暫く睨み合っていたがとうとう収録は取り直し。当時、録画する機器が高価で各スタジオが順番待ちをしていた。かくして、スタッフ・キャストは数時間の「待ち」となってしまった。

 ラジオ番組用の座談会の編集作業をやったことがある。座談会を録音した素材を不必要な所をカットしたり放送時間内に収まる様編集したりする作業だ。座談会の趣旨を生かし時間内に収める、と言うのが難しい。アナログだった当時、テープを切ったり張ったりの作業だった。

 スタジオのフロアーの2階に副調整室と呼ばれるコントロール・ルームがある。ドラマ等で予め録音した効果音等をドラマの進行に合わせて出す仕事もしたことがある。阿吽の呼吸で「音」を出すのだがそのタイミングが難しい。一つ出すと、テープで次の「音」の頭出しをして待つ。そして、「音」を出す。その、頭出しが難しい。もたもたしていると、すぐ「出番」がきてしまうのだ。慌てると、タイミングが狂う。失敗すれば数十人のスタッフと出演者が次の「録画」の順番をひたすら待つことになる。

 江戸時代から歌舞伎の「小道具」を担当している会社がある。そこでのアルバイト。幕が変わると必要な「小道具」をあるべき所に置く、と言う仕事。幕毎に色々な小道具があり、配置も違う。それを幕が下りている短時間の間にこなさなければならない。例えば煙管(キセル)が大事な要素になる芝居があったとしよう。芝居が進んでいざ「煙管」を、と思ったらそこに無い、とすれば芝居は台無しに成りかねない。これも最初は随分失敗して大目玉を食った。普段は目にしないが「裏方」の大事な仕事でもあるのだ。


Cunard

2009年03月08日 | エッセイ

Queen_mary_09_012

早朝、船の大きな霧笛の音で目が覚めた。野太い霧笛が3度、港の方から聞こえた。クイーン・メリー2号が横浜の港に着いたのだと、後で知った。

Cunard Line(キュナード・ライン)の所有する世界最大級の豪華客船が世界一周クルーズの途中、横浜に寄ったのだ。「世界で最も有名なオーシャン・ライナー」と自ら称するキュナード社は大英帝国華やかりし頃創立の船会社である。1840年、と言うからもうかれこれ170年前になる。有名なクイーン・エリザベス2号(QE2)の会社でもある。QE2は現在、キュナード社の所有を離れ中東のドバイで水上ホテルとして使われている。

「豪華客船」のスケジュールは何年も前から決まっているから、今回の寄港も相当前に決められたものなのだろう。バブルの象徴の様なこの船の一番高いキャビンが2600万円だと言うからやはり「豪華客船」とはセレブの乗るものなのだろう。が、この船が実際の航海に出る時、世の中の事情がこれ程までに変わっている事を誰が想像出来ただろうか。「懐具合」の激変で乗りたかった船を諦めた人、辛うじて乗ってはみたが航海の最中も心安からぬ人等様々に違いない。本来、「豪華客船」は横浜では大桟橋(おおさんばし)に接岸する事になっている。税関などの施設や旅客ターミナルとしての機能も充実し、市内に出るのも便利な場所だからだ。だが、この船は違った。大き過ぎて港の入口にかかる「ベイブリッジ」の下を通れないのだ。だから、ベイブリッジの手前にある普段は貨物の積み下ろしに利用される殺風景な「大黒埠頭」に接岸する事を余儀なくされた。

そこはたまたま家からそう遠くない所だったので、巨船を見たかった私は雨の中、普段は入る事の出来ない「大黒埠頭」まで行ってみた。そこは華やかな「豪華客船」の着く場所としては余り似つかわしいとは言えない場所であった。その上、埠頭は冬の冷たい雨が降り、その上風も強く寒々しい場所であった。そこは今の、世界の、日本の「世情」を象徴するような寒々しい場所でもあった。船はとにかくでかい。長さ345m。東京タワーが332mだから船を立てるとそれより長いのだ。重さは15万トン。QE2が7万トンだからゆうに2倍以上だ。まさしくバブルを象徴する巨大さで埠頭に停泊していた。「船」と言うよりは巨大なホテルが海の上を移動して来た、と言う感じだった。その「停泊」も束の間。船は朝着いて、夕方にはもう香港に向けて出港する。その香港には同じくキュナード社が所有していた初代のクイーン・エリザベス号(QE1)が海底に眠っている。QE2の先代のその船は戦中の1940年に造られたが船の修理中に火災の為、香港の沖合で沈没してしまったのだ。

大分以前の事だが、私はその船に乗った事がある。造られた当時は「豪華船」だったのだろうが私が乗ったのは窓もない船底の大部屋で既に老朽化し「豪華船」とは程遠い存在であった。久し振りにキュナード社の船を目の当たりにし、私の遠い過去の思い出がよみがえった。


江戸前

2009年02月24日 | エッセイ

 食べ物に好き嫌いはつきもの。だが、寿司が嫌い、と言う人にはお目に掛かった事がない。私も「酸っぱい物」は苦手だが、お寿司は好き。「すし」は寿司・鮨・鮓・酸し・寿し・寿斗・壽司などと色々に書かれ食物としての歴史は古い。

 寿司は「保存食」が原点であり日本では元々関西が主流の食べ物であった。「棒寿司・押し寿司・箱寿司」等である。江戸前と言う言葉があるが「江戸前」とは江戸の前、つまり江戸湾内で獲れた魚介類を意味する。が、それは後々の事で元々は江戸城の前のほんの限られた河川を含む海域で獲れた「鰻」を意味したそうだ。つまり、江戸前とは「うなぎ」の事であったのだ。関東に住む現代人の我々にとって今では「江戸前」と聞けばお寿司の事を思い浮かべる人も多いだろう。関西に対し江戸風の寿司は「握り寿司」と呼ばれ江戸の郷土料理とも言える存在であった。

 寿司は「保存食」が原点だから、当時の寿司は今の、所謂「握り寿司」とは大分趣を異にしていた。冷蔵庫の無かった時代、保存食には「腐敗防止」が一番に求められる。「酢」を使う、と言う事に加え、殺菌作用のあると言われる「笹の葉」で包む、と言う方法をとった。

  江戸時代には「江戸三鮨」と呼ばれた鮓屋があった。1824年創業の「与兵衛寿司」、1830年創業の「松がすし」、1702年創業の「毛抜鮓」である。一番創業が古い「毛抜鮓」とはちょっと変わった屋号だが「毛抜」とは毛や骨を抜く道具「毛抜き」の事で、「寿司だね」の魚から丁重に小骨を抜き取っていた事から屋号にしたとも言われている。

 先日、その「毛抜鮓」に行った。創業が1702年と言えば元禄15年だから赤穂浪士が討ち入りをした年だ。今から300年も前の事になる。その店が今でも神田で店を開いている。「毛抜鮓」の寿司は江戸で始まった「江戸前寿司」の原点を色濃く残し「押し寿司」や「なれ鮨」の名残も色濃く残している。保存食とする為「飯」を強めの酢でしめ、「寿司だね」も塩漬けで1日、酸味の強い一番酢で一日、そして酸味の比較的弱い2番酢で3日から4日漬けると言う方法がとられ製造には手間が掛った。この方法は今でも引き継がれ行われていると言うから驚きだ。

 広い通りに面したお店に入ると13代目の奥さんと言う品の良い女性が迎えてくれた。勿論お店で食べる事も出来るが殆どの人は「お持ち帰り」の様だ。メニューは至ってシンプル、2種類しかない。笹に包まれた「お寿司」の数が違うだけの事だ。味も極めて古風な感じ。最近はやりの言葉で表現すれば素朴で「骨太」、噛締めれば噛締めるほど味わいが深いと言った所だろうか。何しろ、広い東京でも、この店以上に古いお寿司屋さんは無い、と断言できるのだから「凄い」ではないか。こんな店には何時までも続けて欲しいものだ。013


2009年02月11日 | エッセイ

マリファナが喧しい。力士やスポーツ選手・大学生が挙げられている。マスコミを賑わすのは氷山の一角だから、世の中には相当蔓延しているのだろう。

マリファナは簡単に言って仕舞えば大麻草を乾燥したものである。Marijuana と書く。スペイン語で「安い煙草」を意味する。これは大麻草が野草として自生し安く手に入れる事が出来たため、メキシコで一般的となり、必然的に隣のアメリカを経由して「マリファナ」が世界に広まったと言う。ただ単に「くさ」、「グラス」とも言われ、インドなどでは「ガンジャ」とも呼ばれる。マリファナと聞くと「麻薬」と言うイメージが強いが、その薬理作用の為医療薬としても使われている。乾燥大麻を圧縮し樹脂状に固めたものが所謂「ハッシーシ」である。

 昔、ザックを背負って「放浪」していた頃のモロッコ。安宿で知り合った日本人の若者。しきりにぼやいている。こっそり手に入れようとした「ハッシーシ」の代わりにカレールーを掴まされた、と言うのだ。思わず笑ってしまった。何しろ、「取引」は路上で、こっそり、素早く行われる。値段の交渉が成立すると、現金と「ぶつ」を手早く交換する。当然、「超」緊張してドキドキものだ。だから、「ぶつ」をその場で確かめる等と言う事は出来ない。ニセモノを掴まされたと判ったのは相手の居なくなったずっと後の事だ。相手が一枚も二枚も上手だったのだ。勿論、被害を届ける事も出来ず、ぼやくしかなかった、と言う訳だ。

 ある時、東北のある県でヒッチハイクをしていたら、道端でアメリカ人と一緒になった。互いに「お仲間」だから、情報交換等をしていたら、彼は楊枝の頭ほどの褐色のかけらを取り出し、火のついたタバコの先に乗せて吸い出した。ははー、やってるな、と思ったが何ら悪びれる様子も無く、「一服」していた。彼にとっては「日常茶飯事」の事の様だった。

 私は常々、タバコが合法でマリファナが非合法である理由が判らない事がある。なぜ、タバコが良く、マリファナはダメなのだろうか? その間に一線を引く、合理的な理由(わけ)はあるのだろうか? タバコが合法であればマリファナも合法化するか、マリファナが非合法ならタバコも非合法にすべきだと考える。因みにオランダではマリファナを吸引する事は合法なのだ。タバコの「害」が叫ばれ禁煙を促進する為「値上げ」をと言われても、税収の落ち込みを心配する政府は及び腰だ。人の健康より税収が大事、と言う訳である。そう言う考え方であれば、将来、禁煙する人が増えて税収が減ったら、税収を上げる為、マリファナを合法化する事だってあり、なのだろうか?

 悪い事をしていなくたって、税関を通る時は緊張する。税関の検査官の任務の一つは禁制品の摘発である。検査官は「物」を見ているが、それ以上に人の「挙動」を観察している。何か「禁制品」が見つかった時はもとより、挙動不審な人物は「別室」と呼ばれる小部屋に連れて行かれ、洗いざらい取り調べを受ける。ある時、一人の外国人男性が「別室」に連れて行かれた。そして、マリファナが見つかった。当然のことならが「おとがめ」が待っている。が、彼の取った行動は意表を突くものだった。検査官が席をはずした一瞬の隙に机の上にあったマリファナに火をつけた。証拠の隠滅をはかったのだ。税関内からそう遠くないその部屋からは、もうもうとしたマリファナの煙が漏れ出し、暫くすると広い税関内は酸っぱい匂いのするマリファナの煙で充満した。たまたま、税関内に私は居て、当たり前のことだがその煙を嫌と言うほど吸い込んだ。はたしてこれは、私が「マリファナ」を吸引した事になってしまうのだろうか?


「世界で一番美しい散歩道」

2009年01月27日 | エッセイ

Milfordtrack09_206a

「一番歳のいった人はいったい何歳なの?」そう聞かれて答える、「70代ですよ」。40代位に見えるその外国人男性、自分が54kmのコースを歩いて、その大変さに気付いたのだろう。平均年齢が高そうに見える我々のグループの「健脚ぶり」を感心して思わず聞いたのだ。

 ミルフォード・トラックは「世界で一番美しい散歩道」と形容される。そう言ってしまった方が勝ちだ。誰にも、どこが「世界一」等と言えないと思うのだが一度は歩いてみたい素晴らしい場所であることは間違いない。が、問題は「雨」。何しろ雨が降る。年間雨量6000mm。東京が1500mmだから4倍。尤も、雨が多い事がミルフォード・トラックの素晴らしさの「元」なのだから仕方がないとも言える。事実、シダや苔の類は雨に濡れていた方が綺麗に見える。

 シーズン中、一日にコースを歩ける人の数は途中にある六つの小屋のベッドの数に制限される。食料・寝袋などを自分で担いで歩く「個人ウオーク」が40人、温水シャワーのある三食付きの「ガイドウオーク」50人が夫々専用の小屋に三泊して歩く。

 日本を出る一週間位前からミルフォード・トラックのあるフィヨルドランド国立公園の天気予報が気になっていた。我々が予定していた期間、初日を除いてずっと「雨」の予報だった。人は期待値が高まるほど逆になった時の落差は大きい。天気もそうだ。だから、成田を出発する時から「雨の時の心構え」を強調してしまった。

 ミルフォード・トラックの初日は朝、ニュージーランドの南島にあるクイーンズ・タウンの町をバスで出発する事から始まる。途中の休憩を挟んで2時間半程でティアナウ湖畔にあるホテルに着く。昼食後、ウオークの起点までバスと船を乗り継いで約2時間。船着場から最初の小屋まで今日はたった1.2km、20分。空は曇ってはいるが雨の降っていない貴重な時間だ。小屋に荷物を置くとガイドに連れられて植物の説明を聞きながらのネイチャーウオークが約2時間。今回は日本語をしゃべる人が多かったせいか日本女性のTさんがガイド。因みに数多いガイドの中でも日本人はたった4人しかいない。それだけ、ここのガイドになるのは難しいのだ。日本人と言っても、相手にするのは日本人に限らず世界中から来た人になるのだ。Tさん、シーズン中トラックを歩くのは30回(1600km)にもなると言う結構きつい仕事だ。夕食の後は、恒例、国毎の「自己紹介」。日本人は最大のグループで我々を含め15人、その他オーストラリア9人、イギリス2人、アメリカ3人、地元ニュージーランドが3人、計32人。日本語と英語を母国語とする人達だけのグループ。これはちょっと珍しい構成なのだろう。

 二日目、今日は、クリントン渓谷のほぼ平坦な道を辿る16km程の道。朝食の前、テーブルに並べられた食材で、皆思い思いのお弁当(サンドイッチ)を自分で作るのが習わし。好みと自分の食欲に応じて作るのだから合理的だ。9時前、歩き始める頃、雨が降り出した。予報通りだ。すぐ、クリントン河にかかる吊橋を渡る。水の色がとても綺麗に見える。前日と違い、シダと苔類が雨に濡れて瑞々しく、生き生きとしている。時々垣間見える川辺の景色が素敵だ。午後1時前、温かい飲み物が用意された小屋に着く。早い人達は既に出発してもういない。雨が降り続いているこう言う時、小屋の中で食事が出来るのがありがたい。40分程の昼食の後、又雨の中歩き始める。それにしても、よく降り続く雨だ。時折超える小さな沢も水流を増している。昼食の小屋を出て2時間、その日の小屋に着く。びしょ濡れの雨具や衣類は強力な乾燥室で乾かす。我々が小屋に入って間もなく雨脚が強まり屋根を叩く音が響き雷もなっている。谷を挟む岩壁に無数の滝が筋となって走る。前回、ここの小屋に来た時も同じだった。いやな予感がする。前回は、翌朝、出ようとすると待ったが掛って待機を繰り返し、結局同じ小屋に連泊を余儀なくされた挙句、峠をヘリで超える事になってしまったのだ。

 三日目の翌朝、まだ雨が降っていたが出発には支障が無さそうだ。雨具を着て歩きだす。今日はマッキノン峠越えの日。700mの登りと900mの下りが待っている。歩行距離は16km。峠からの絶景は見えるだろうか? 今日はちょっと大変なので早めに出発。2時間程の所にある小屋でトイレ休。まだ、雨が降っている。30分ほどでジグザグの登りが始まる。その頃雨は止んだ。標高が高くなるに従って視界が開け色々な花が咲いている。マウントクックリリーの花期にはちょっと遅かった様で光った大きな葉っぱだけが目につく。丁度12時、この道を開発したスコットランド人、マッキノンのメモリアルに着いた。これで登りの大半は終わりだ。ガイドのTさんが暖かいスープを用意して待っていてくれた。その頃、目まぐるしく変わる天気は再び霧を呼んでいた。昼食を食べる小屋に急ごう。再び歩き始めて間もなく、さっきまで霧にけぶっていた景色も少しずつ良くなっている。今晩泊まる小屋もはるか遠くに見えている。青空も少しずつ覗き始めた。そして、見えた! 我々が歩いてきた山に囲まれたクリントン渓谷を覆っていた霧がゆっくりと上昇している。同時に歓声がこだまする。そして、普通なら20~30分で着く小屋まで景色を見ながら、写真を撮りながらで1時間も掛ってしまった。足の速い先行組が峠に着いた時、まだ視界は無かったと後で聞いた。「残り物に福」とはこの事を云うのかも知れない。

 四日目、サンドフライ・ポイントと呼ばれる船着場のあるゴールまで約21km。

緩やかな下りとは言え距離は長い。しかも、船が出る時間が午後四時と決まっている。ゆっくり歩きの我々、せめて早めに出よう、と言う事だったが、歩き始めて早々、どんどんと追い抜かれて行く。でも、天気が良く気持ちが良い。歩き始めて一時間ちょっとで「行者小屋」ならぬ、「ぎょうざ小屋」に着く。小屋の前にある山が「餃子」の形に似ているのでDumpling(餃子) Hutと呼ばれているのだ。サンドフライと呼ばれるアブがやたらに多い。不思議に歩いている時は寄ってこないが止まると集まってくる。早く出よう。トイレ休憩をして、再び歩き始める。途中、ニュージーランド紹介の写真には必ずと言って良いほど出てくる「マッカイ滝」や「鐘石」を見て川沿いの道を進む。午後2時過ぎ、やっと昼食をとる東屋に到着。サンドフライ以外、もう誰もいない。30分ほどゆっくりと自分でこしらえたサンドイッチを食べて最後の歩きに入る。一時間ほど歩いて32マイル(51.5km)のサインを過ぎた辺りで声を掛ける、「あと30分頑張ってくださ~い!」すぐ、「ハーイ」と「可愛らしい」声が揃う。そして、最後のマイル表示「33」を過ぎればゴールは近い。そして、船の出る10分前、ゴールイン。全員無事完徒。満面の笑みと共に万歳の声が辺りに響いたのだった。

Milfordtrack09_146a


フランス語2題、フーとペー

2008年12月31日 | エッセイ

 セーヌ河の南、パリの14区に「パリ国際大学都市」がある。その中に、各国の個性的な建物に混じって、1929年に薩摩治郎八の寄付で建てられた7階建ての「パリ日本館」がある。かつて、その日本館一階のサロンにある、印象深い藤田嗣治の大きな壁画を見たことがある。藤田は1913年渡仏、スーチンやモジリアーニ等との交流があり天才ピカソが藤田の「乳白色」の絵の前で1時間も動かなかったと言われる程の才能を発揮した画家であった。渡仏する10年も前、17歳の時にフランス語を習い始めたと言うから、その時、既に将来フランスに行く事を希望していたのだろう。結果的に1955年にはフランス国籍を取得し1959年にはカトリックの洗礼を受け、レオナルド・ダビンチにあやかりレオナール・フジタと改名し、晴れてフランス人になった。

 前から行きたかった、その藤田の展覧会を見に上野に行った。素晴らしかった事は勿論だが、ただ単に「油彩」に止まらず陶器、ワイングラス、木の箱等にも描き、墨を使う等、日本人としての技も駆使しているのに驚かされた。私がフジタの絵について論評するのは僭越だが、私が興味を持ったのは彼の署名「Foujita」である。普通なら「Fujita」と書く所、「Foujita」とFとUの間にOが入っている事だ。この名前の綴りは彼が「フランス人」になってから書き始めたのではなく、渡仏直後には既にそうなっている。因みに、絵の署名にはローマ字で「Foujita」と書き、併せて漢字の縦書きで「嗣治」と署名している。このスペルではフランス人は「フジタ」ではなく「フージタ」と読んだはずである。では、「Fujita」と書かず、「Foujita」と署名したのはなぜなのだろうか?そこには、藤田の諧謔の気持ちが表れていると、私は見る。「フジタ」ではなく「フージタ」と呼ばせる事に意味があったのだろう。フランス語で、「フー(Fou)」とはバカとか狂人の意味になる。17歳からフランス語の学校に通い、フランス語を勉強していたフジタが「Fou」の意味を知らないはずはなく、意図的だったはずである。パリ時代、彼のニックネームは「FouFou」(フーフー)だったそうだ。フランス人はフジタへの親しみと共にフジタの望んだ諧謔の気持ちを込めて、そう彼を呼んだに違いない。

 「ペーテーテー(P.T.T.)」と私が言うと、決まってパリジェンヌの友達、ローゼレーヌが私の発音を直す。違うわよ!「ペーテーテー」。そう言われて、すぐおうむ返しに「ペーテーテー」。でも、まだ違う。そんな事を何度繰り返しただろうか。「ペーテーテー(P.T.T.)」は「Post,Telephone et Telecominication」の略、これは日本の「NTT」に相当する、郵便局と電話局を合わせたような組織。それが、何回直されてもどうしても正しく発音できないのだ。そして、彼女は諦めたのか、しまいには直してくれなくなってしまった。

 随分後になって、彼女が私の発音を、どうしても直したかった訳が判った。私の「ペー」の発音はフランス語では「おなら」の意味に聞こえていたのだ。トホホ。


ヘラートにて

2008年11月10日 | エッセイ

Photo

 銃を持った男が私の方に足早に近づいてくるのが見えた。白い民族衣装シャルワール・カミースを着ている。じたばたするよりはと、腹をくくって成行きにまかせた。

 アフガニスタン。テロとの戦いの主戦場だと言う。もう、随分長い間、戦いは続いている。アフガニスタンの歴史は古い。紀元前四世紀、アレキサンダー大王東征の折築いたと言われる都市、ヘラート・カンダハール・バルフ等が今に残る。紀元前から攻防を繰り返してきた。1880年、第二次アフガン戦争ではイギリスに敗れ、保護国となった。1919年、3度目の戦いでイギリスに勝ち、独立を勝ち取った。そして、1979年のソ連侵攻、2001年のアメリカと続く。数限りない「戦」の果て、それは今も続く。パシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人等、多民族国家故の宿命であったのかも知れない。イラン、パキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン等多くの国とも国境を接し、東部のワハーン回廊では中国とも、僅かだが国境を接している。誇り高いこの国の人々は、外国人の「侵略」を決して許さない。そのしたたかさは紀元前からの歴史が物語っている。「戦い」はそう簡単には終わらないであろう。

 私がアフガニスタンに入ったのはイランの「聖なる殉教地」マシャドから、ボロボロのワゴン車に乗って丸一日。ワゴン車が庶民の主な交通手段になっている所は、世界の辺境の地では、どこも同じだ。現地の人が被っている、元々は白かったターバンは手拭いでもあり、時には「鼻紙」にもなったりする。今は無いユーゴスラビアの首都、ベオグラードの中央駅で偶然出会い、パキスタンまで旅の友となったSさんと私以外は、煮しめたようなターバンを被った現地人がすし詰め状態で窮屈な席を埋めていた。距離は300キロ程度、が入国の手続きや悪路と時折現れる「関所」で一日がかりのバスの旅だった。

 ヘラートに着くと、まず最初に目についた「ホテル」の看板を目指す。タバコ一箱程度の宿賃。部屋には埃だらけのベッド以外は何も無い。標高が高いせいか、寒い。ストーブにくべる薪を買いに出る。ホテルの部屋は「空間」だけ、寝る以外の事は全て、自分で賄わなくてはいけない。そして、街の探訪と徘徊が始まる。

目の前に現れた銃を持った髭面の男は、有無を言わせず、見せろ!と言う。ヘラート城の城壁の土手を歩きながら、落ちている、とても綺麗なペルシャン・ブルーの陶器片を拾っている時の事。遠くで見ていた男は、見知らぬ東洋人が拾った「何か」を確かめたかったのだろう。指を拡げて握っていた物を見せると、一瞥して、「がらくた」だと判った様だった。男は踵を返すと身の丈程の銃を片手に、何事も無かった様に私の前から立ち去った。 


男体山

2008年09月28日 | エッセイ

08_017

 久し振りに「青空」を見た。樹林帯を抜け、稜線を見上げると久々の、本物の「青空」が白い秋雲の先に広がっていた。山の上は、もう初秋の雰囲気が漂い、紅葉も薄っすらと始まっていた。空気も澄み、風が吹くと寒さが身にしみた。ザレた急登の後、九合目からは、なだらかな道が頂上まで続く。古びた鉄剣のそそり立つ頂上の北側の木々は、この時期珍しい「霧氷」に覆われ、白く輝いていた。この日は、子供の頃、地元の実家で長い間この山を見ながら暮らしていたと言うTさんが、念願だった初登頂を果たした日でもあった。

 男体山は標高2484mの信仰の山。日光二荒山神社の奥宮がその頂上にある。男体山を父親に例えれば、さしずめ女峰山は奥さん、太郎山が長男で愛子(まなご)の大真名子・小真名子が控え、一家をなしている。

 この山の初登頂は日光開山の祖、勝道上人だと伝えられている。天応2年(782年)、釈迦が雪山で修業したとの故事に習い、あえて残雪期に登り、3度目にして初めて頂に立つことが出来たと言う。勿論、道はなく、木々をかき分け、残雪を踏み、途中2泊の野営を重ね、その過程は、困難を極めた末の登頂だったと言う。

 その山に、首都圏から日帰りで行けないか、と勝道上人が聞いたら怒られそうな事を考えた。中禅寺湖のある南側から登ると標高差は1200m、コースタイムだけで約6時間、実際は8時間以上は掛る。電車のスケジュールや駅から登山口を往復する時間を考えたら、日帰りはとても無理、と判る。色々と思案して、新幹線の利用できる宇都宮からレンタカーで北側の登山口、標高差700mの志津乗越に直行すれば可能との結論になった。

 そして、前日の蒸し暑さから、打って変って肌寒いその日、10人乗りの車は8時過ぎには宇都宮駅を出た。10時ちょっと前、志津乗越で現地集合の3人の「紳士」が合流。10時20分には、何時もの登山口での「儀式」を済ませて、出発。

 歩き始めて10分、避難小屋を過ぎて間もなく「一合目」と書いた木柱が立っている。それからしばらく続いた、ややなだらかな傾斜も、三合目を過ぎると急登に変わる。所々、山道がえぐれ、大きな段差も。背後には太郎山や女峰山の雄姿も見え隠れしている。そして、六合目を過ぎると赤茶け、ガレた地肌を剥き出した大きく浸食された所に出た。ここからは初めて東側の広々とした景色が見え歓声があがる。そこから上は火山灰のざらざらとした道が続き、所々にトラロープも。そして、歩き始めて3時間20分、頂上に立つことが出来た。そして、下山。そろそろ日も暮れかかる頃、峠に戻ると、満員だった車は、数台の車を残し、ひっそりとしていた。


現れなかった殿下

2008年09月26日 | エッセイ

 皇太子殿下の登山が時々報じられる。先日も富士山に登頂を果たした、との報道があった。日本百名山にも、既に60数座登ったそうだから相当お好きなのだろう。山を習慣的に登る事を趣味にしている皇室の一員としては世界的にも稀有の例ではないだろうか。今や「皇室」の制度を持っている国が少なくなっている事に加え、登山に相応しい山の質と量を考えると、国の数は限られる。考えられるとすれば北欧の国に「山歩き」を趣味にする皇室の一員は居るかも知れない。いずれにしても、その程度だから「貴重」な存在と言えるだろう。日本山岳会の会員番号は5000番だそうだ。限の良い欠番の所に後から無理やり入れたのだろう。

 それにしても、聞く所によれば、殿下が山に登る時、周りの対応が大変らしい。山小屋を初め山道の整備や報道陣の規制などだが如何な物だろうか。尾瀬の近くの日本百名山「平ヶ岳」もそうだ。元々、この山は距離的に言って日帰りはぎりぎりの山で、日帰りをしなければテントを担いで山中に一泊と言うのが普通なのだが、殿下が登った折、「近道」が作られたと言う。爾来、その道が恒常化し多くの人がそのルートを辿っているようだ。その事を、良しとするかどうかは議論の分かれる所だろうが私はなるべく自然に保ち、その山を登る為に「思案」が必要な山がある方が良いと思うのだが。

 イギリスの皇室では、伝統的に「陸軍士官学校」に入学する事が多い。チャールス皇太子の子供、ウイリアム王子やヘンリー王子も入校した。卒業すれば、国民に範を垂れる為、士官として前線に送られる。同じ皇室でも日本では考えられない事だ。その代りと言っては何だが、エネルギーの発露として皇太子殿下が日本百名山を目指す、と言う事は悪い話ではない。

 百名山の鹿島槍ヶ岳と五竜岳。難路の為縦走する人は少ない。共に、一座ずつ往復するのが主流となっている。想像を言えば、この両山を目指した時、殿下も縦走を希望したに違いない。が、庶民とは違い、はいそれではすぐに、とは行かない。しかるべく様々な準備が必要となる。殿下もこのルートに挑戦する事に、密かに熱いもの感じていた事は、想像に難くない。担当者は事前にコースを歩いて下見をするかもしれないし、宿泊予定の小屋も、それなりに小奇麗にしなくてはいけない。準備を進める過程で、「お役人」の担当者は「不安」を感じたに違いない。万が一の事があったら責任が及ぶのは私だと。殿下は、楽しみにしている、が不安は募る。そして、とうとう話を切り出す時が来たに違いない。どう切り出して、どう「諦める様」説得したのかは判らない。コース上で宿泊予定だった「キレット小屋」は新築されたが、殿下はとうとう来なかった、と言う。殿下の無念は如何ばかりだったのだろうか。戦地に赴く王子様を持つ国の国民は幸せだ! 今でも質実剛健な国と質実剛健だった国の違いなのかも知れない。


飛んでいなかった、コンドル

2008年06月20日 | エッセイ

08_223

 「空中都市」と言われ、山麓からは見えない集落だったマチュピチュ。16世紀のある日、インカ帝国の首都クスコの陥落が伝令によって、即座に知らされると、運命を悟った人々は「空中都市」の放棄を決めた。そして、集落の北に今でも残る「インカの橋」を抜けて、ジャングルの中に消えたと言う。その「橋」に向う日、一団の最後尾を歩きながら、「マチュピチュ」最後の日、落延びる一団の最後尾を歩いたのはいったい誰であったのだろうか、何を思いながら住み慣れた集落を後にしたのだろうか、と考えた。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

 アジアの地から、ベーリング海を越えて、北米から南米まで辿り着いた彼らは、モンゴロイドとして日本人と共通の祖先を持つ。1532年、スペイン人の侵略者、ピサロが200人足らずの手勢でインカの地に上陸し、帝国の滅亡に至るまで、3000年に渡るアンデス文明を築いた人々であった。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

 マチュピチュはアメリカ人考古学者ハイラム・ビンガムによって1911年に発見され、500年の眠りから醒めた。彼は、スペインの征服時代、神父デ・カランチャがその存在を書き残した黄金郷「ビルカバンバ」を探していた過程で偶然にも発見した。15世紀に作られたと言う、標高2300mの集落には7~800人の人々が生活していたと推定されている。我々同様、文字を持たなかった彼らの歴史は、伝説から想像する以外は今でも多くの謎に包まれている。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

 我々がマチュピチュに滞在中、遺跡の南にアーモンドを立てた様な山、ワイナピチュ峰(2634m)に登った。頂上直下、急峻な岩場の続く先にも穀物の貯蔵庫と言われる石造りの遺跡があった。なぜ、こんな所に、と思わざるを得ない場所だったが、たぶん、相対的に温度が低い、と言う事にその訳はあったのだろう。頂上からは遺跡が見渡せ、新たな遺跡の発掘も続いていた。ガイドをしてくれたルイスさんは、「観光客がクスコからヘリコプターで飛んで来るようになってから、コンドルの姿を見かけなくなった」と話していた。眼下のマチュピチュの谷を流れる聖なる川、ウルバンバ川はアマゾン川の源流として、はるか大西洋に注いでいる。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

 標高が槍ヶ岳より高いインカ帝国の首都クスコを訪れたのは、旅も終わる頃だった。主は変わっても住む人はインカの時代と変わらない。当時の言葉、ケチュア語しか判らない人々が今でも国民の30%もいると言う。クスコにはインカ帝国で最も神聖な場所であったコリカンチャと呼ばれる「太陽の神殿」の跡には、土台と一部の石壁を残し、今では植民地支配の象徴としてサントドミンゴ教会が建っている。<o:p></o:p>

<o:p> </o:p>

滞在した、昔の王宮の跡地に建つと言う古めかしいスペイン風の家具・調度に埋まったホテルには、スペイン人にとっての英雄、「ピサロ」の名前を冠した大きな部屋があった。その部屋の前を通る時、何かの厄災を恐れる気持で、私は足早に通り過ぎた。<o:p></o:p>