源太郎のブログ

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倫敦、あの頃

2008年04月21日 | エッセイ

 古く、狭いアパートの部屋に戻ると、「今日はまいったな~」と、ルームメイトが話し始めた。その日は、やっと見つけたイギリス人の女の子と初デートの日。しとしと雨の降るその日、どことなくぎこちない雰囲気。ふと、窓の外に舞い降りたハト見て、普段はそんな事から縁遠い彼が、思い切りロマンチックな気分になって、思わず「可愛いね!」、と言って、彼女の表情を伺う、すると、彼女は「美味しそうね!」と言った、と言う。<o:p></o:p>

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 若い、と言う事は突拍子もないもの。地球を、飛行機を使わないで一周しよう、と言う計画を立てて、私は横浜から船に乗った。アメリカ大陸はバスで横断、ニューヨークから船でイギリスのサウザンプトン。すぐ、ヒッチハイクでイギリスを一周、そしてロンドンへ。貧乏旅行のオアシスはユースホステル。そのユースホステルのテーブルを4~5人の日本人が囲んで談笑中、ホステルの人が来て、「誰でもいいから、日本人に電話に出て欲しい」と電話が掛かっている、と言う。見ず知らずの人からの突然の電話に、皆顔を見合わせる。私が買って出る。「明日、一日だけ仕事を代わってもらえませんか?」話しの内容にビックリしながらも、先を急ぐ旅でもない私、面白そうだと思い、二つ返事で同意した。それが、私の旅の予定が1年から4年に延びた瞬間だった。彼は、もっと良い仕事を見つけようと面接に行きたかったのだ。仕事を休む訳にも行かず、ユースホステルなら、誰か日本人の代わりが居るだろうと、闇雲に電話をしてきたのだ。彼の狙いは当たった。彼は、もっと良い仕事を見つけ、私が後釜に座り、皿洗いの仕事を続けた、と言う訳だ。その後の事を考えれば、一本の電話が、人の人生を変えてしまった、とも言える。<o:p></o:p>

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 狭いアパートの一室を相棒と借りて、働き、学校に通い、ヨーロッパを旅する生活が始まった。「底辺」に座って見るイギリスの社会は、観光では見えない物を見せてくれた。「揺りかごから墓場まで」は健在で、保険証を持たない「異邦人」が怪我で病院に行っても、一銭も払う必要が無いほどであったから、居心地は悪くなかった。何の制約も束縛も無かった私は、時々旅に出た。船でスペインに向かい、カサブランカ、アルジェ、チュニス、シシリーからイタリア、フランスを巡った「地中海一周」の旅は、途中で些かの「悲劇」が待っていた物の、忘れがたい旅になったりもした。<o:p></o:p>

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 ある時働いていた「日本食」のレストランは、その当時、ロンドンでは一世を風靡したレストランであった。ビルの一階が和食、地下に天ぷら、細い路地を挟んで「すし屋」と、何でも揃っていた。近くに事務所があったせいか、多くのハリウッドスターに混じって、ビートルズの面々がよく「厚焼きたまご」のランチに通って来た。そして、夜はミックジャガーを始めとするローリング・ストーンズが現れた。<o:p></o:p>

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 そして、とうとう日本に帰る時が来て、ギリシャ・トルコ・イラン・アフガニスタン・パキスタン・インドと陸路を辿り、マレーシア・シンガポールから船で香港、横浜と、私の飛行機を使わない「壮大」な旅は3年遅れで、とうとう完結したのだった。<o:p></o:p>


巴里、あの頃

2008年02月23日 | エッセイ

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 「ヨットに住まないか?」友人の義兄が言う。「え~、だって、ここはパリでしょ?」それまで、パリに港があるのを知らなかった、しかもシャンゼリゼ大通のすぐ裏に。私の窮状を見かねて、セーヌ河に係留中の彼のヨットに住まないか、と言う話。勿論、私がヨットのガードマン・管理人を兼ねて、彼も安心、と言う訳。 <o:p></o:p>

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 物価の高いパリで職がなければ貧乏生活は当たり前。住んでいた所はホテル。ホテルと言えば聞こえはいいが、それ以外住む所は橋の下だけ。場末の、8階建て、古く、狭く、小汚い部屋。しかもエレベーターは無い。一日にそう何度も往復できないから、出掛ける時は、入念に忘れ物が無いかチェック。そして、街では少々の距離なら歩いて行く、時間だけは潤沢だったから。食べ物だって、いつも同じ物。バゲット、ジャンボン、チーズ、コーニション(酢漬けの小指大のきゅうり)等など、来る日も来る日も同じ物。半年ほど通っていた学校でとる昼食も安さだけが魅力の質素な物。お昼に、形ばかり飲むワインの小瓶だってアルジェリア産。時々メニューの載る内臓の料理が楽しみだった。料理とは言っても、牛?の内臓を塩茹でにしただけの物。日本の所謂「もつ煮」はそれ程「形」が「あらわ」ではないが、「塩茹で」の物は、塩でただ単に茹でただけだから、その形は「あらわ」で、気になる人はちょっと嫌かも知れない。でも、味は抜群。以後、残念な事に食べる機会に恵まれない。安い「食材」でも「旨い」のは、やはりと言うべきかも知れない。<o:p></o:p>

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 フランス人の朝食は残り物のフランスパンをトーストにしてジャムかバター、それに多めのカフェオレだけの、いたって質素。その代わり、日曜日の昼食は「料理」をする。テーブルクロスを広げ、親戚や友達が集まる。私が贅沢な「お食事」をしたのはそんな時だけ。アパルトマンと呼ばれる所謂「マンション」には勿論、旧式だがエレベーターがついている。セットになって地下にワインセラー、最上階にはグルニエと呼ばれる、「女中部屋」が付随している。各家の厨房の奥にその「女中部屋」に通じるドアがあり、暗く狭い螺旋階段を昇り降りする。今では、「女中さん」のいる家など少なく、家族が住むか人に貸したりもしている事が多い。当時から「エコ?」の進んでいたのか、窓の無いその螺旋階段には一定時間が経つと消える裸電燈があった。よっぽど早く歩かないと、大抵消えてしまい、真っ暗な中を歩かねばならなかった。<o:p></o:p>

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 住んでいたホテルのドアをノックする「やつ」が居る。こんな時間に何?ベッドから起き出すと、昼間仲間と一緒に居た「ベルリン映画祭」に来たと言う映画女優が「泊めて」と言う。諍いがあって飛び出して来たらしい。断るほど「野暮」ではない。彼女は何も言わず、私がさっきまで寝ていた極小のシングルベッドに一直線に向かうと、そのまま潜り込んで背を向けた。<o:p></o:p>

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「画狂老人卍」

2008年01月27日 | エッセイ

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 浮世絵画家・葛飾北斎の世界的名画「富嶽三十六景」の「神奈川沖波裏」は私の地元、神奈川の沖合を描いた傑作だ。遠くに見える富士、画面一杯に広がるデフォルメされた大波、その下を行く三隻の小船と人々。フランスの巨匠ゴッホをして、「北斎」をもっとも影響を受けた人の1人に挙げているのももっともな事とその絵は語っている。

 北斎は宝暦10年(1760年)に生まれ90歳まで生きたから、江戸時代の人としては「超」長寿であった。私見だが、長寿の秘訣はその類希な「向上心」にあったのではないか。北斎はの直前、大きく息をして「あと10年の寿命があれば」と言い、しばらくして「5年の寿命が保てれば本当の絵師になれるのに」との言葉を残して亡くなったと伝えられている。「富嶽三十六景」を完成させたのも72歳の時だったと言うから、生涯エネルギーに満ち溢れていたに違いない。北斎は自らを「画狂老人」と称し、生涯で3万点とも言われる作品を残していると言う。不思議と言ってはいけないが娘の「お栄」も絵の才能に恵まれ、後年は北斎の代筆も務めたと言うから、相当な腕であったのだろう。はたして「門前の小僧」なのか、「遺伝」なのか・・・。

 その北斎の展覧会に行ってみた。その物凄さにただただ素晴しいと感じるのみだ。サブタイトルの「ヨーロッパを魅了した江戸の絵師」と言うのに些かの誇張も感じられない。今回の特徴は40点のものぼる肉筆画のヨーロッパからの里帰りである。浮世絵と言えば版画だから大量の「肉筆」はやはり珍しいと言うべきだろう。

 鎖国の時代、唯一対外的に開かれていた窓は長崎の出島であった。その主は島原の乱を契機にポルトガル人からオランダ人に代わった。出島はさながら「大使館」としての機能を果たし、お互いの情報収集の拠点でもあった。出島の商館長は4年毎の参府(江戸城で将軍に拝謁する事)を義務付けられていた。現代の我々が旅行をすれば写真をとり、自らの記念とすると共に、家族友人に「かの地の様子」を見せる事は普通のことに違いない。しかしながら「写真機」の無いその時代、出来る事は「絵」を描くことであった。商館長は参府の折々、北斎を訪ね、写真があったら撮るであろう「被写体」を描く事をオランダの紙を渡して注文したと言う。だから、その絵は注文主の希望により描かれた肉筆画の一点ものであった。その注文主の1人にはシーボルトも居たと言う。ヨーロッパに持ち帰られたそれらの絵は、巡り巡って「オランダ国立民俗学博物館」や「フランス国立図書館」等に収蔵され今回の里帰りとなった。「画狂」とは良く言った物だ。その素晴しさに、ただただ恐れ入った。