もう一つの「弥山」は広島市の南西に位置する廿日市市沖合の瀬戸内海に浮かぶ厳島(いつくしま)にある。人口約2千人の島へはフェリーで10分程度とすぐ目の前だ。島は安芸の宮島とも言われ、日本有数の歴史ある観光地でもある。島の広さは約30?だから杉並区や板橋区と同じ位の面積だ。島のシンボルで世界遺産でもある厳島神社の創建は6世紀にも遡ると言われ、現在の社殿は12世紀に平清盛によって建てられたものである。島自体が「御神体」であり信仰の対象となっている。松島、天橋立と並び、日本三景の一つで、風光明媚な事で知られている。その他、大阪の四天王寺と住吉大社の石舞台と並び、日本三舞台や日本三大鳥居、日本三弁天等々、「自慢」に事欠かない。だから、この島が日本では外国人に人気ナンバーワンの観光スポットだと言われているのも頷ける。2千人足らずの島の人口に対し、年間300万人の観光客が訪れると言うから凄まじい。我々が訪れた時も多くの「修学旅行生」で賑っていた。太平洋戦争の敗戦後、「神道」を敵視したGHQにより島全体が接収され、1954年にはマリリン・モンローが新婚旅行で訪れた事でも知られる。
島の最高峰「弥山」535mへは幾つかの道が整備されている。ロープウェーも途中まで整備され、誰でも簡単に素晴らしい眺望が楽しめる。我々も、勿論?ロープウェーを利用した。二つのロープウェーを乗り継いで展望台のある「獅子岩駅」に着く。観光客は「獅子岩展望台」は向かうが、我々「アルピニスト」は、そんな所には目もくれない。主峰「弥山」を目指す。が、しかし、道はすぐ下りに。山を登っていて「下り」は辛い。下っただけ、登り返さなければならないからだ。「アルピニスト」になるのも辛いのだ。30分程のゆっくり歩きで「不消霊火堂(きえずのれいかどう」」に着く。平安時代の大同元年(806年)に弘法大師が炊いた護摩の火が、1200年後の今でも燃え続けている場所だ。「弥山」の頂上は、そこから10分程、花崗岩の間を登った所にある。頂上からの眺めは、流石素晴らしい。宰相、伊藤博文をして、「厳島の真価は弥山からの眺望にある」と言わしめただけの事はある。が、その素晴らしさを台無しにしているのが「展望台」だ。管理者の財政事情に依るのだろう。とにかく、ぼろぼろなのだ。「良い建物」ならば、古くなっても、それなりの「味わい」と言う物があるが、最初から「醜悪」な建物がボロボロになったのだから、どうしようもない。再建にも撤去にもお金が掛かり、現状維持しか方法がないのだろう。 下山は当初の予定を変更して「大聖院コース」を取り2時間ほどで神社の「宝物館」まで下った。流石、外国人に人気の島、次から次へと登って来るのは外国人ばかりであった。
華やかな「外見」とは裏腹に、「厳島」の内実は「明るい」わけではない。島を去る日、島に3台しかない、と言うタクシーに乗った。この島も、日本の離島・地方都市の抱える「過疎化」という問題の例外ではない、と運転手さんが話してくれた。若者が、島を出て行くのはこの島だけの問題ではないのだ。人口2千人の島に年間300万人もの観光客が来れば、普通は「御の字」のはずだが、どうやら違うようだ。8年ほど前、100年以上も孤高を維持してきた町も、「財政」危機により、大論争を経て、対岸の廿日市市と合併することを余儀なくされた。
島の長い歴史と島自体が「御神体」だと言う宿命の為か過去には多くの「禁忌」が存在した。「御神体」を汚さず守る、と言う観点から「出産」も禁じられ、女性は「出産」が近付くと島を出て出産後100日を経て島に戻ったと言う。生まれてしまった子供は母親と共に、即座に船に乗せられ島を離れた。「御神体」、即ち「土地」を傷つける事を嫌い、農耕すら禁じられていたと聞く。又、島が「女神の御神体内」と言う事で、女性の仕事の象徴であった「機織り」も禁忌の対象であった。「死」も又、穢れと見なし、死者で出ると、遺族は死者と共に対岸に渡り喪が明けるまで島に帰る事が許されなかったとのだ言う。だから、島には今でも「墓」が一つも無いのだ。その他にも、島に暮らす人しか知らない「風習」が今でも数多く残っているのではないかと想像される。「日本一軽いと思う地」に住む私から見ると、それは正しく、「別世界」の事としか思えてならない。

島の最高峰「弥山」535mへは幾つかの道が整備されている。ロープウェーも途中まで整備され、誰でも簡単に素晴らしい眺望が楽しめる。我々も、勿論?ロープウェーを利用した。二つのロープウェーを乗り継いで展望台のある「獅子岩駅」に着く。観光客は「獅子岩展望台」は向かうが、我々「アルピニスト」は、そんな所には目もくれない。主峰「弥山」を目指す。が、しかし、道はすぐ下りに。山を登っていて「下り」は辛い。下っただけ、登り返さなければならないからだ。「アルピニスト」になるのも辛いのだ。30分程のゆっくり歩きで「不消霊火堂(きえずのれいかどう」」に着く。平安時代の大同元年(806年)に弘法大師が炊いた護摩の火が、1200年後の今でも燃え続けている場所だ。「弥山」の頂上は、そこから10分程、花崗岩の間を登った所にある。頂上からの眺めは、流石素晴らしい。宰相、伊藤博文をして、「厳島の真価は弥山からの眺望にある」と言わしめただけの事はある。が、その素晴らしさを台無しにしているのが「展望台」だ。管理者の財政事情に依るのだろう。とにかく、ぼろぼろなのだ。「良い建物」ならば、古くなっても、それなりの「味わい」と言う物があるが、最初から「醜悪」な建物がボロボロになったのだから、どうしようもない。再建にも撤去にもお金が掛かり、現状維持しか方法がないのだろう。 下山は当初の予定を変更して「大聖院コース」を取り2時間ほどで神社の「宝物館」まで下った。流石、外国人に人気の島、次から次へと登って来るのは外国人ばかりであった。
華やかな「外見」とは裏腹に、「厳島」の内実は「明るい」わけではない。島を去る日、島に3台しかない、と言うタクシーに乗った。この島も、日本の離島・地方都市の抱える「過疎化」という問題の例外ではない、と運転手さんが話してくれた。若者が、島を出て行くのはこの島だけの問題ではないのだ。人口2千人の島に年間300万人もの観光客が来れば、普通は「御の字」のはずだが、どうやら違うようだ。8年ほど前、100年以上も孤高を維持してきた町も、「財政」危機により、大論争を経て、対岸の廿日市市と合併することを余儀なくされた。
島の長い歴史と島自体が「御神体」だと言う宿命の為か過去には多くの「禁忌」が存在した。「御神体」を汚さず守る、と言う観点から「出産」も禁じられ、女性は「出産」が近付くと島を出て出産後100日を経て島に戻ったと言う。生まれてしまった子供は母親と共に、即座に船に乗せられ島を離れた。「御神体」、即ち「土地」を傷つける事を嫌い、農耕すら禁じられていたと聞く。又、島が「女神の御神体内」と言う事で、女性の仕事の象徴であった「機織り」も禁忌の対象であった。「死」も又、穢れと見なし、死者で出ると、遺族は死者と共に対岸に渡り喪が明けるまで島に帰る事が許されなかったとのだ言う。だから、島には今でも「墓」が一つも無いのだ。その他にも、島に暮らす人しか知らない「風習」が今でも数多く残っているのではないかと想像される。「日本一軽いと思う地」に住む私から見ると、それは正しく、「別世界」の事としか思えてならない。
