『伊那路の祭』(草風館1999年)を著した下村幸雄氏によると、日曽利の火祭りについて「どんど焼き」ではなく「ほんやり」と記している。この日地元の方たちにから発せられるのは「どんど焼き」であって「ほんやり」と言う単語はなかった。「ほんやり」という言葉を知らないわけではないが、現在は「どんど焼き」である。また下村氏は「やがてかさんぼこは南に倒れた。北に倒れるとこの年は凶作、南なら豊作という」と記している。昨日かさんぼこが倒れた方向は南西であった。この日は風が強く、その風は南東側からのものだったので、北西側に倒れると思っていたところ、意外にも少し南寄りに倒れたわけである。会場でも「箸を作ると良い」という話をされていたが、このことも下村氏は「火で焦がされた花飾りは家内安全になり、箸に使えば虫歯にならないという言い伝え」があると記している。ビジュアルフォークロア製作の「こんぶくろ」の最後に「昔はあれをこしらえるにもっと大がかりで、嫁様がよめってくると、その家に行ってみんなで作ったの」というおばあさんのコメントがある。このどんど焼きが中断したのは昭和27年のことと言われ、再開は昭和63年という。再開以降トーヤ制は行われていないのだろうが、この言葉からかつては祝い事のあった家、とくに新たに嫁をとった家がトーヤを務めたと思われる。
会場にはケーブルテレビが訪れ撮影をされていたが、彼らの質問に答える内容を聞いていて思ったのは、過去の正確な伝承はなかなか伝わらない現在だということ。ことさら「かさんぼこはここだけですか」という問いが繰り返されたが、これはここで聞いても解らないことだろう。地元の方に下伊那に詳しい方がいて「下伊那の方で行われている」と答える方がいたが、日曽利と似ている形式のものをわたしは下伊那で実見したことはない(新聞などで見る限り、飯田市周辺では傘らしきものを頂きに掲げている例がけっこうある)。まだまだわたしの認識不足といえばそれまでなのだが、記録から抽出したものは、以前「柱立ての世界②」や「道祖神の柱立てを探る・中編」で取り上げた。『上伊那誌民俗篇上』の684頁にある中川村大草町の「長い竹の頭に傘をつけ、傘の骨に紙の花を飾り、初荷に使った福扇やお多福面や麻を飾り「ホンヤリホウホ」とはやしながら焼く」という例は、日曽利のかさんぼこにかなり似ていると思われるが現在は行われていない。傘を櫓のてっぺんに掲げる例は「柱立ての世界②」に紹介したように下伊那地域にかけての記録に残る。また、傘ではないが花を上げる、いわゆる辰野町あたりに多いデーモンジに近い事例は、「道祖神の柱立てを探る・中編」で取り上げたものだろう。伊那市東春近下殿島字古寺の例では、「オンベウチワは青竹の上に竹ヒゴで輪を作り、下はりをした上に赤い紙をはってウチワのようにして、これを山から伐って来た二間位の松の頂上に結びつける。ヒフセは竹ヒゴに紙を巻きつけて柳のようにして三十三本(各戸一本)作り、松の木の下の方を飾る。オソべはオンベウチワのすぐ下につける」とある。これはまさに柱建てにあたり、どんど焼きで焼く櫓とは別に用意されている。したがってどんど焼きの芯棒に柱建てと同じような飾りを付ける例とは少し異なるものかもしれない。したがって日曽利以南の地域の記録に見られる「どんど焼き(ホンヤリ)の芯棒に傘を掲げてヤナギ風の飾りを掲げる」例で、現在も行われていて、さらに「御柱」の類似例として取り上げられるレベルのものは日曽利のものだけではないだろうか。このことは今後も注目していきたいと思っている。
さてこれが柱建てに当たるのかどうかということになる。先日松本市内田の荒井のサンクロー作りを見ていて思うのは、サンクローの櫓を建てるのも柱建てと変わりはない。ただ一本柱ではなく、三本柱という違いはあるが。浜野安則氏は「道祖神の柱立てと火祭りとの関係-安曇野・松本平・上伊那の事例からー」(『信濃』63-1/信濃史学会)において「しだいに火祭りの中に取り込まれていったのではないか」と御柱について指摘している。だとすれば、日曽利のものは柱と火祭りが同化して一体化した事例とも捉えられる(このことは「道祖神の柱立てを探る・中編」の中でも触れた)。いずれにしても辰野町や箕輪町、そして伊那市あたりに現存するデーモンジのように単独の柱建ては伊那谷中部から南部に例をみない。むしろ「傘」に注目した坂本要氏の視点で捉えて行った方が良いものなのかもしれない。
最後に付け加えておかなくてはならない記録を幾つか。昨日地元の方たちは「松が減って…」という言葉を何度となく繰り返した。きっと昔はもっと松がたくさん集まったのだろう。しかし、集められた松飾りを見て思ったのは、別の地域に比較したらかなり松の量が多いということ。最近飾りを簡略化したことについて触れた旧和田村や松本市などに比べたら、まだまだ松がたくさん集まっているという印象である。またビジュアルフォークロアが撮影した2010年時にはミズブサの枝だろうか、繭玉を挿して持ち寄って焼いている人が何人も映っている。しかし、昨夜はそうした人がまったく見られなかった。繭玉についてはかつては当たり前のように見られたものだが、現在では作る家がほとんどなくなっている。
終わり
付記 カサンボコに似たものといえば似ているかもしれないが、松川町周辺ではホンヤリの櫓の頭に傘をつける例が多い。しかし、日曽利のように傘に花が付けられるわけではない。これら傘の付随する事例は後に注視した記事を記しているので参照されたい。(令和3年1月10追記)
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