「つねさんぽ」は不定期更新 Since 2009

TSUNEAKI THE ADVENTURE Since 2009

木材流通・住宅研究室の同期

2018年06月11日 | 学校のこと

桜の木の下で会おうよ友よ。

有名な日本大学の歌「桜の木の下で」
の一節で始まる。今回のブログ。

大学時代の研究室。井上ゼミの面々と
会ってきました。



梶村氏が長野で家業を継ぎ、社長さんになり東京へ出てきたので
廣澤氏の音頭で連絡が取れる面々で再会。



「お前変わったな」
なんて、ドラマみたいなセルフも出ることなく。
みんな、あの頃と全然変わらず。

体のサイズも変わらず。

懐かしい話や、今後の母校について話し合いました。

2ne

廣澤君へLineの友達申請を許可してください。

あと、懐かしい写真見つけたらまたブログに載せます。


勘弁してくださいよ

2018年06月05日 | 学校のこと

試験の珍解答集みたいなものに
板垣退助が暴漢に襲われた際に言った言葉は?
という問いに
「勘弁してくださいよ」
という答えが面白かったです。

どうも岡本です。

5月はつらかった。
勘弁してくださいよ。
何がつらかったって、母校の問題である。
本当に相手の選手が復帰したことだけが
せめての救いである。

連日の報道は正直見る気も起きず、
事にワイドショーなんかは見たくもなかった。
なんか、思い出まで否定されるような感じが嫌だった。



新聞はかろうじて読んでいたが、
見るものすべてが日大問題に思えてきて

新聞広告も「日大」に思えてきたり

「連日大賑わい」なんて記事も
「え!!また日大!?」
なんて・・・。
この一件に関して冗談も言えるようになってきたけど、言った後の空しさというのもありつつ。


早く終息に向かってほしい。

一般OBとして何かできる事があればと思いますが、できることと言ったらヘンテコブログくらいしかないのも歯がゆいです。

2ne



マイフェニックス 六会と湘南台はざまで

2018年01月10日 | 学校のこと

(前回からから続く)
今の学生さんはなんだかかわいそうだ、と思う。
ぶっちゃけた話、大学にあがればお酒だってタ
バコだって解禁だったあの頃。
就職活動だって3年生の後半くらいからあれや
これやと慌てふためいていたあの頃。
今なんて2年生くらいから準備しだすなんてこと
を聞く。

まあ、高望みしなければ、言い方は悪いが望めば
大学生になれる今の世の中、学生生活は様変
わりしていることは確かなようだ。

さて、付属校の内部試験(統一テスト)の結果で
何の因果か農獣医学部の林学科への進学が決まっ
た。
将来何になるなどあまり考えていなかったあの頃。

あこがれていた大学生活が始まった。
あこがれていたキャンパスライフとは少々、食い
違いが生じ、神奈川県藤沢市にある藤沢校舎が
4年間のキャンパスライフの地となった。

江の島まで自転車で40分くらい。電車で20分ほど
湘南とは名ばかりの小田急江ノ島線六会駅。
隣駅は湘南台。

まむし谷と牧場と農場とに囲まれたそんなキャン
パスだ。

それでも女子学生はいた。
いたけど農業系の学部にいる女学生はだいたい
全体の3割くらい?

「ニコル」と言えば藤田ニコルではなく
C.W.二コル系な学部であった。

合コン。
はじめての合コンは、新入生歓迎の意味を込めた
演習林(まむし谷)でのキノコの「ほだ木」の運
搬後のたき火を囲んでの日本酒の飲みまわしだった。

何かが違う。

そういった矛盾を抱きながらも、次はサークル活動。
一度も経験したことのない「写真研究部」という
サークルに、最初知り合った友人に誘われての入部。
その後そのサークルに誘った彼は1年もしないうち
にサークルを去る。
僕は残る。

なんかちがう。

新歓コンパ
お鍋のふたに日本酒(剣菱)を注がれてお鍋のふたの
穴を塞ぎつつ飲む。
一升瓶を同期と回して飲む。
終わりはいつも「日大節」
♪だーいがーくにほんのーがくせーいさんはー
どーきょーひーとーつのおーとーこーだーてー
えっさこりゃこりゃ♪

こりゃ違うな。

高校時代に日本酒がくっついてきただけのキャンパス
ライフ。

当時は携帯は高価だったので、ほとんどの学生の連絡
手段は掲示板とサークルなら「昼集」だった。

昼休みに部室にて連絡事項を聞くのだ。
いかないと村八分にされる。

昼集中、新製品のジュースを飲む先輩(女性)
「これおいしい!!ねえねえ飲んでみて!?」
とジュースの缶を差し出す先輩(女性)
(間接キッスっすか!?)ドキドキしていた。
「いや、僕はいいです・・・。」
男子校出身者には刺激が強すぎた。

守られていた。
実は、僕らは守られていたんだ。
あの理不尽極まりない環境下でも。
パンツ一丁で校舎内を歩き回れた環境下に・・・。
男子校は男子校の良さがあったのかな?

これでいいんだ。
この学部でよかった。
ほどほどに女子学生がいる程度でいいんだ。
たまにお話しする程度が良いんだ。

昭和の香りを少々残した平成5年の春。

僕の学生生活はこんな感じで始まっていた。

つづく

2ne



マイフェニックス 天と地と編

2017年12月27日 | 学校のこと

(前回より)
伝説の映画「マイフェニックス」を観た岡本少年。
特別感動しなかったが、「マイ!マイ!マイ!」
往年の片岡鶴太郎のギャグが少年を駆け抜けた。

大学生活・・・。

この欲望と暴力がまかり通る学園生活において
唯一の救いの地。

青春・・・。
恋やバイト、サークル活動etc。
あすなろ白書、ビバリーヒルズ青春白書。
フェニックスの試合を彼女(いる予定)と観戦
にいっちゃったりなんかしちゃったりして。
女子と授業を受けたり、お昼食べたり、、、。
合コン、あこがれのキャンパスライフ。

ここにはない物が待ち構えている。

と、思ってた。

そうは言うけど、この男子だらけの学園において
3年もいれば、それなりに染まっていくわけで、
高校生になると、あのチョコチップ地獄やエンドレ
スに続く自販機でジュースを買う事もなくなった。

(チョコチップ地獄とは:学食内においてパンコ
ーナーで中学生が、特に中1・中2がいようものな
ら高校生からの情け容赦ないオーダーがはいり、
「チョコチップパンください!」「チョコチップ!」
「チョコチップ!」と連呼し続ける地獄絵巻。
類似したものに「とりめし地獄」というのもある。)

高校生になると制服が変わる。
中学生は紺色の学ランで、高校になると黒になる。
つまり、見分けがつくのでそういった「かわいがり」
もなくなる。

両国の地。そうした所縁もあるのやもしれぬ。

高校生になると、近所のラーメン屋「やっこ」にも
気兼ねせず行けるし、「もっくもっく」(通称:も
く弁)だって、高校生に気兼ねせずに買える。
校内のエレベーターだって堂々と乗れる。
気にらない中学生(中坊)だって、「どけ!」と一
喝は・・・。小心者の私にはできなかった。

しかし、学校生活の苦痛が約半分には減った。
中坊と高校生、この学園では関取と幕下のような
階級格差があったのだ。

しかし、そんな中でいくらもがいても手に入らぬ物
それは「女子生徒」
校内の女性は、事務所の職員(ほとんど接すること
はない)と学食のおばちゃん、そして保健室の
「浜ちゃん」(当時推定50歳)
学食に研修で若い人が来ようものなら、その人がい
る「ラーメンコーナー」に長蛇の列ができる学校。
それが「男子校」である。

ここから出たい。そして憧れのキャンパスライフ
を目指して当時進学率40数%の大学受験にむかって
いくのでした。


(写真はイメージです)

つづく。




マイフェニックス そこの中坊チョコチップ買ってこいや編

2017年12月18日 | 学校のこと

2017年12月17日 日曜日
大学フットボールの日本一を決める決戦
甲子園ボウルが阪神甲子園球場で行われた。
27年ぶりの日本一を狙う日大フェニックスの
応援に土曜から大阪の地に足を踏み入れた。

その前に、私と日大フェニックスという事で
少々27年前、1990年まで時計を戻したい。

1990年、平成2年。日本がバブル景気にかげりが
みえはじめた頃。
私は高校1年生。当時付属校の高校1年生だった。
その時を最後に日大は甲子園ボウルでの勝利から
遠ざかっていく。

甲子園しかり箱根駅伝もしかり、当時付属校の
男子校にいて、悶々とした学生生活を送る私にと
って、そういった大学スポーツとは、大学生活に
おいて、男女仲間と肩を組み応援し青春を語り合う
普通で健全な学生生活を
送れる場だと想ってやまなかった。

普通で健全な・・・。
小学校を卒業して間もない岡本少年にとって
中高一貫の男子校は強烈な日々だった。
毎日が理不尽の連続であり、暴力と欲望に
飢えた思春期の男子が1800人、狭くて細長く
て茶色くて、歪んだ青春の落書きに満ちた
「下町の学習院」と称される学び舎に押し
込められていた。
国歌からお風呂の正しい入り方まで教えてもらった
6年間。

早くここを出て、自由でそしてバイトや恋愛
に大忙しの「ホイチョイムービー」的な
キャンパスライフを夢見ていた。

まあ、それも大学にあがったら中高時代と似たよう
な環境下の中で過ごすことにはなるのだが、
まだその頃の少年には思いも知らぬことではあった。

その前の年、つまり1989年、中学3年生の岡本少年は
ある映画に強制的に出会わされた。

マイフェニックス。
日本大学100周年記念に制作された、愛と勇気と
友情と山田顕義(学祖)と日大崇拝映画である。
記憶が定かではないが、とある都内の公会堂を
借りて封切前のありがたい映画を全校生徒で
出席単位と引き換えに観に行った記憶がある。
同時上映で大島紬を織る人みたいなドキュメ
ント映画だったような気がする。

フェニックスとの出会い。
私のマイフェニックス。

つづく

2ne