大相撲で豪栄道が全勝優勝した。
琴奨菊が優勝して豪栄道も優勝。
横綱にいちばん近い男だったはずの稀勢の里は、
綱取りも逃し、胸中さぞかし複雑であろう。
優勝もなければ、横綱昇進も消えてしまった。
勝負の世界の厳しさが垣間見えた。
NHKの大相撲中継の解説は、初日・中日・千秋楽
大体にして解説は北の富士さん、向正面の解説は
舞の海さんだ。
北の富士は、豪栄道に今まで厳しかった。
「そんな人いたの?」くらいのことを言う。
それは、豪栄道の成績のふがいなさからくる叱咤
激励と僕は解釈する。
一方で舞の海は、豪栄道びいきである。
それは、豪栄道の人柄もあるだろうが、大半は
豪栄道の師匠である境川親方への舞の海のリスペ
クトからくるものだ。
豪栄道の師匠は、元小結・両国の境川親方だ。
日大出身で、大関候補と言われたが、最高位は
小結で終わった。
当時中学生だった僕は、両国のファンだった。
理由は、日大出身という事と、通っていた学校が
両国にあったからだ。
低い重心から、そり出たお腹で相手を寄り切るタイ
プの力士で晩年の千代の富士に勝っていたりしてい
たのが記憶に残る。
引退後は出羽の海部屋の部屋付の親方から、境川を
襲名して独立した。
舞の海と両国は日大出身であり、出羽の海部屋の
同部屋力士、学生時代からの先輩後輩の
絆も強いそうだ。
舞の海の結婚披露宴のテレビ中継を見たことがあるが
媒酌人は両国(当時中立親方)だった。
人気力士舞の海の結婚の媒酌人を頼まれるくらいな関係
なのである。
あまり関係ないけれど中継の最後、「日大節」が時間の
都合上カットされたのが今でも覚えている。
日大節はその後、日大の歌の歴史から抹消されるされ
ることとなったので、あれは何かの暗示だったのかと今は
感じている。
話がそれたが、そうした間柄なので、舞の海はことある
ごとに北の富士から豪栄道をかばってきた。
優勝が決まり賜杯を賜る際に、北の富士は「豪栄道お酒
強いのかな?今度飲みたいね」と言っていたのが面白か
った。
新聞のコラムにも、舞の海は境川親方の人となりをこと
あるごとに書いていたので、豪栄道の優勝は、舞の海の
今までのうっ憤というか、いろいろなものを吹き飛ばし
てくれた事だろう。
境川親方は、部屋の旅行で訪れたサイパンで、日本人の
戦没者の慰霊碑が落書きや汚されていたのをたまりかねず
弟子たちと掃除したエピソードを前述のコラムで読んで、
その人となりを感じた。
そして現役時代ライバルだったのが栃乃和歌(現・春日野
親方)である。
両国は日大、栃乃和歌は明治出身。
当時の僕はこの二人の対戦に燃えた。
僕は当時日大の付属校におり、やっとのことで入学した
学校に少しならずとも愛着があった。
ところが、隣の席になった男は入試で成績が良く(中一
時のクラス編成は、入試一番がA組の級長以下BCD組の級長
となる。その男はA組の副級長だったので、実質入試の5位
という事になる)事あるごとに「俺は本当は明中(明大中野)
に受かっていたんだ。模試では合格圏内に常にいたんだ」と
言っており、周りの連中も「俺も本当は明中に行けたんだ」
とか「入試で体調が良ければ明中に・・・」
なんて言ってる連中ばかり。
高校に進学しても高校入試から入ってきた連中も
「本当は明中に・・・」なんて口をそろえやがる。
僕はやっとのこと入って、入学した初日に担任の先生から
「君たちはせめて日大を出ろ」と言われ、日大に進学する
ことを学園生活の最終目標に掲げ始めた矢先の同級生の
冷めた態度。
なので、僕は両国・栃乃和歌の取り組みは特別なものと
なった。
僕の明大(明中)へのコンプレックスはこの時に生まれた。
以後在学中、ゲーセンで「目つきが悪い」とか交友が絡ま
れたり、追いかけられて逃げたり、金銭を要求されたり
とコンプレックスは深まるばかりだった。
挙句の果てには逃げ込んだ文房具屋のおじさんに
「逃げてないで戦え!!男だろ!!」と怒られる始末。
しかし、である。
月日は過ぎると学校というものは、みんなが流されると
いうか、その色に染まるもので、中学2年生の頃。
高校の野球部が夏の甲子園の都大会決勝にコマを進めた。
連絡網が回り、「在校生は応援に行くように」とお触れが
出た。(対修徳戦)
岡本少年もいざ神宮へと思った矢先。
母親が「おばあちゃんが隅田川の花火大会の為に屋形船を
予約してくれたからそっちに行きなさい!!めったにそんな
経験できるもんじゃないから」と神宮行きを断念せざるを
えない状況に陥った。
決勝を勝ち甲子園出場を決めたのだが、またしても母が
「お父さんの入っている銀行の会でオーストラリアに行けるの
めったに行けるもんじゃないから行きなさい!!」
という事で甲子園行きを断念せざる得ない状況にまた陥った。
めったに経験できるもんじゃないレベルとめったに行けるもん
じゃないレベルを当時の僕は見誤った。
わが母校はその後現在に至るまで甲子園のグランドに立って
いない。
その後高校2年生時にもう一度来た。
都大会の決勝にまたしてもコマを進めたのだ!!(対帝京戦)
またしても連絡網が回り、あの時の失敗を活かすべく今回は
と思ったのだが、
「来年に受験を控えて夏季講習に行かねばならない。よって
行かない。甲子園に行ったら行く」
決勝で三澤(のちに早大―巨人他)の前に大敗した・・・。
中一の頃の副級長はその後立派に愛好心を育み、毎年予選の
応援に行っていた・・・。
高校生活も終わりに近づき、結局中学受験の頃と同じく
何とか大学には滑り込むことができた。
しかし、中高と学園生活を振り返れば、「明中がよかった」と
言う同級生はどんどん学校のカラーに染まっていき、僕は
何となく「せめて日大」という呪縛から逃れられないでいた
かも知れない。
それでも楽しい思い出はあるが、愛校心という点では
彼らのが数倍あったのかも知れない。
話が飛んでしまいましたが、豪栄道良かったね。
という事と、明中は正直好きです。行けるのであれば僕も行って
いたであろうという弱腰な僕。
あの頃となんら変わってないような気がするのです。
長文駄文失礼しました。
2ne
琴奨菊が優勝して豪栄道も優勝。
横綱にいちばん近い男だったはずの稀勢の里は、
綱取りも逃し、胸中さぞかし複雑であろう。
優勝もなければ、横綱昇進も消えてしまった。
勝負の世界の厳しさが垣間見えた。
NHKの大相撲中継の解説は、初日・中日・千秋楽
大体にして解説は北の富士さん、向正面の解説は
舞の海さんだ。
北の富士は、豪栄道に今まで厳しかった。
「そんな人いたの?」くらいのことを言う。
それは、豪栄道の成績のふがいなさからくる叱咤
激励と僕は解釈する。
一方で舞の海は、豪栄道びいきである。
それは、豪栄道の人柄もあるだろうが、大半は
豪栄道の師匠である境川親方への舞の海のリスペ
クトからくるものだ。
豪栄道の師匠は、元小結・両国の境川親方だ。
日大出身で、大関候補と言われたが、最高位は
小結で終わった。
当時中学生だった僕は、両国のファンだった。
理由は、日大出身という事と、通っていた学校が
両国にあったからだ。
低い重心から、そり出たお腹で相手を寄り切るタイ
プの力士で晩年の千代の富士に勝っていたりしてい
たのが記憶に残る。
引退後は出羽の海部屋の部屋付の親方から、境川を
襲名して独立した。
舞の海と両国は日大出身であり、出羽の海部屋の
同部屋力士、学生時代からの先輩後輩の
絆も強いそうだ。
舞の海の結婚披露宴のテレビ中継を見たことがあるが
媒酌人は両国(当時中立親方)だった。
人気力士舞の海の結婚の媒酌人を頼まれるくらいな関係
なのである。
あまり関係ないけれど中継の最後、「日大節」が時間の
都合上カットされたのが今でも覚えている。
日大節はその後、日大の歌の歴史から抹消されるされ
ることとなったので、あれは何かの暗示だったのかと今は
感じている。
話がそれたが、そうした間柄なので、舞の海はことある
ごとに北の富士から豪栄道をかばってきた。
優勝が決まり賜杯を賜る際に、北の富士は「豪栄道お酒
強いのかな?今度飲みたいね」と言っていたのが面白か
った。
新聞のコラムにも、舞の海は境川親方の人となりをこと
あるごとに書いていたので、豪栄道の優勝は、舞の海の
今までのうっ憤というか、いろいろなものを吹き飛ばし
てくれた事だろう。
境川親方は、部屋の旅行で訪れたサイパンで、日本人の
戦没者の慰霊碑が落書きや汚されていたのをたまりかねず
弟子たちと掃除したエピソードを前述のコラムで読んで、
その人となりを感じた。
そして現役時代ライバルだったのが栃乃和歌(現・春日野
親方)である。
両国は日大、栃乃和歌は明治出身。
当時の僕はこの二人の対戦に燃えた。
僕は当時日大の付属校におり、やっとのことで入学した
学校に少しならずとも愛着があった。
ところが、隣の席になった男は入試で成績が良く(中一
時のクラス編成は、入試一番がA組の級長以下BCD組の級長
となる。その男はA組の副級長だったので、実質入試の5位
という事になる)事あるごとに「俺は本当は明中(明大中野)
に受かっていたんだ。模試では合格圏内に常にいたんだ」と
言っており、周りの連中も「俺も本当は明中に行けたんだ」
とか「入試で体調が良ければ明中に・・・」
なんて言ってる連中ばかり。
高校に進学しても高校入試から入ってきた連中も
「本当は明中に・・・」なんて口をそろえやがる。
僕はやっとのこと入って、入学した初日に担任の先生から
「君たちはせめて日大を出ろ」と言われ、日大に進学する
ことを学園生活の最終目標に掲げ始めた矢先の同級生の
冷めた態度。
なので、僕は両国・栃乃和歌の取り組みは特別なものと
なった。
僕の明大(明中)へのコンプレックスはこの時に生まれた。
以後在学中、ゲーセンで「目つきが悪い」とか交友が絡ま
れたり、追いかけられて逃げたり、金銭を要求されたり
とコンプレックスは深まるばかりだった。
挙句の果てには逃げ込んだ文房具屋のおじさんに
「逃げてないで戦え!!男だろ!!」と怒られる始末。
しかし、である。
月日は過ぎると学校というものは、みんなが流されると
いうか、その色に染まるもので、中学2年生の頃。
高校の野球部が夏の甲子園の都大会決勝にコマを進めた。
連絡網が回り、「在校生は応援に行くように」とお触れが
出た。(対修徳戦)
岡本少年もいざ神宮へと思った矢先。
母親が「おばあちゃんが隅田川の花火大会の為に屋形船を
予約してくれたからそっちに行きなさい!!めったにそんな
経験できるもんじゃないから」と神宮行きを断念せざるを
えない状況に陥った。
決勝を勝ち甲子園出場を決めたのだが、またしても母が
「お父さんの入っている銀行の会でオーストラリアに行けるの
めったに行けるもんじゃないから行きなさい!!」
という事で甲子園行きを断念せざる得ない状況にまた陥った。
めったに経験できるもんじゃないレベルとめったに行けるもん
じゃないレベルを当時の僕は見誤った。
わが母校はその後現在に至るまで甲子園のグランドに立って
いない。
その後高校2年生時にもう一度来た。
都大会の決勝にまたしてもコマを進めたのだ!!(対帝京戦)
またしても連絡網が回り、あの時の失敗を活かすべく今回は
と思ったのだが、
「来年に受験を控えて夏季講習に行かねばならない。よって
行かない。甲子園に行ったら行く」
決勝で三澤(のちに早大―巨人他)の前に大敗した・・・。
中一の頃の副級長はその後立派に愛好心を育み、毎年予選の
応援に行っていた・・・。
高校生活も終わりに近づき、結局中学受験の頃と同じく
何とか大学には滑り込むことができた。
しかし、中高と学園生活を振り返れば、「明中がよかった」と
言う同級生はどんどん学校のカラーに染まっていき、僕は
何となく「せめて日大」という呪縛から逃れられないでいた
かも知れない。
それでも楽しい思い出はあるが、愛校心という点では
彼らのが数倍あったのかも知れない。
話が飛んでしまいましたが、豪栄道良かったね。
という事と、明中は正直好きです。行けるのであれば僕も行って
いたであろうという弱腰な僕。
あの頃となんら変わってないような気がするのです。
長文駄文失礼しました。
2ne