西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

再び動き出したフールプルーフ

2009年03月14日 10時43分00秒 | 出演情報
 韓国の映画祭への出品も決まり、ますます話題に事欠かない映画『フールプルーフ』(鈴木雄大監督)のオフィシャル・ウェブ・サイトが、新たに開設!

 http://sunshineboyz.web.fc2.com/

 作品の紹介は勿論、キャスト、スタッフの紹介、DVDが購入出来るページもある。

 ウェブ・サイトの製作は、当映画の製作チーフであり、音楽監督でもある、倉橋拓也。

 製作という部署は、撮影現場における他の各部署を思えば、比較的地味で、言わば雑用の総もとじめ。しかしながらこの部署がしっかりしていなければ、チームワークが全体的にガタガタになり、ひいては作品の出来の良し悪しにも影響が出てしまうであろう大事な部署。
 私が自主映画や学生映画のスタッフと最初に接する機会にも、その出演依頼を受けるか否かを判断する一番の決め手としているのが、この製作スタッフの手腕や人柄。実際、その時点で駄目だと判断し、お断りしたケースもいくつかある。
 つまり彼は、この作品のスタッフの要。倉橋拓也がいなければ、恐らく私はこの仕事を受けなかったか、或いは途中退場してしまっていたかもしれないし、ひょっとしたら作品自体も完成出来なかったかもしれない、そんな重要人物。
 また彼の作曲した音楽がイイ! 是非聴いてやって欲しい!

 http://www.myspace.com/takuchisound

 そういう彼が、今回作ってくれたウェブ・サイト。
 しかしいつまでも彼一人に頼っていてはいけない。今後は、スタッフ・キャストが一丸となってプロモーションに励まなければならない。

 皆さん、どうか『フールプルーフ』を観て下さい! そしてもし良かったらDVDを買って下さい!(情報では、爆発的に売れ始めているとか。) 出来れば、周りの皆さんにも宣伝して下さい!


 以上、コピペ大いに歓迎! 広げて下さい、フールプルーフの輪!
 お願いしま~す!

人生の分岐点にて

2009年03月14日 02時27分00秒 | Weblog
 一緒に映画作りをした大学4回生たちが、卒業をしまた就職を控え、一人また一人と、大阪を去りつつある。
 彼らのここ最近のブログの多くには、「引越し」という言葉が躍っている。
 
 私も結婚した2年前に、実家から数百メートル離れた今のアパートに引越した訳であるが、2年経った今でも、お恥ずかしいことに実家の私の部屋は片付いていない。
 別に大学生らに触発されたつもりはないが、そこで先日私も、少々実家の部屋を片付けたり掃除したりしてみた。

 部屋からは、どうでもいいようなガラクタやら書類やらが数多く発掘されたが、その中から古い新聞も出てきた。
 それは今から8年前、2001(平成13)年10月25日の産経新聞夕刊。私が書いた投書が、その第4面に載っていたのだ。
 新聞紙も、8年も経てば随分と色あせ黄ばんで、何か埃っぽい。コピーをとって残しておきたいとも思うが、念の為、ネット上の当ブログにも書き写しておくことにする。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


≪私も言いたい≫ ~善悪判断できない教師~

 私が私立高校に通っていた二十年以上前の話です。三年のときの新担任は、生徒たちに厳しいと評判で、生活指導担当でもありました。同じクラスの生徒の中には不良も多く、私もこの担任に期待を抱いていました。しかし、そんな私の気持ちとは裏腹に担任の厳しさは、むしろ私に向けられました。
 生徒会の役員をしていた私は、ある日、職員室で担任に呼びとめられ、日直の仕事を怠っていたと怒鳴られました。放課後の教室の机の並べ方が気に入らなかったということでした。
 ところが、教室のすぐ隣にあるトイレが、休み時間に生徒の吸うたばこの煙で真っ白になり廊下まで煙っているのに、この担任は何の注意もしませんでした。なぜ校内の喫煙が野放しにされて日直の机の並べ方が気に入らないと怒鳴られなければならないのか、私にはどうしても納得がいきませんでした。
 数日後、通学時に乗る市バスが交通渋滞に巻き込まれ、遅刻をしました。校門をくぐったとき偶然担任と出くわし、また怒鳴られました。交通渋滞という理由は、全く聞き入れてもらえませんでした。私は神経性の胃炎になり、不登校になりました。「学校にいきたくない」と言う私に始めは親も困っていました。しかし担任に呼び出され学校に出向き、自宅に戻った母の第一声は「あんな学校には行かなくていい。今後のことを考えよう」だったのです。
 私から聞いた煙草の矛盾を、母が担任に話したところ、その答えは「私は教師ですよ。そんなことを生徒に注意できると思いますか」。母もあきれていました。
 それから私は、関西から単身九州の高校へ転校し、翌春、無事関西の大学に進学しました。あのように善悪の判断もできず、またそれを教えることもできない教師が教育現場にいる限り、いつまでたっても日本の前途は暗いと私は思います。
 大阪府羽曳野市、匿名


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 8年前当時のこの投書は一応匿名としてあるが、今となっては、それも隠すつもりはない。だからと言って、別に今更昔の教師を弾劾するつもりもない。
 ただこの内容から見ても、私は昔から頑固者だったことが窺える。また一般的な目で見れば、変人に見えたかもしれない。
 そしてまた、母の強さとその英断に、感謝したいとも思う。

 あの後、九州という初めての地で初めての一人暮らしを始めた私。東西南北、右も左も分からず、登校初日の朝通学時に道に迷い、帰宅時にまた迷子になった。最初の数日間は、ホームシックで枕を濡らしたこともあった。下宿屋の賄いが休みの日曜日に碌に食事もせず、月曜に学校でぶっ倒れて病院へ運ばれたこともあった。

 あの1年間は、私の人生を大きく左右した1年間だったことは間違いない。今思えば、厳しく辛く悲しく、そしてまた楽しい1年間であった。


 今、新しい生活をスタートさせる若者たちに言いたい。
 大きな期待と大きな不安の渦の中で、恐らく葛藤していることでしょう。しかし、これからの1年を大切に、頑張って乗り越えて下さい。応援していますよ!