西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

旅立ちの駅

2011年02月05日 18時16分00秒 | ステンショから
 久し振りに書く「ステンショから」なので、改めて紹介しておこうと思う。


 「ステンショから」は、私自身が少なくとも一度は改札口を出入りしたことのある駅を取り上げ、また私がその駅を利用した際のエピソードを、いくつか紹介するというもの。
 故にこれまで利用経験のない駅を取り上げることは基本的になく、わざわざ降りたことのない駅に出向き、無理に新しいエピソードを作ることもしていないし、全線全駅を踏破しようという趣旨のものでもない。

 以前、たまたま特定の電鉄会社の駅を連続して取り上げていたら「○○電車がお好きなようで」と読者からコメントを貰ったことがあったが、その駅や沿線近辺に住んでいたことがあったり、学校や仕事場がその沿線付近にあったりと、ただ単に利用頻度が高い駅や路線を数多く紹介しているまでのことで、特別に好き嫌いがある訳ではない。

 そういうことで、紹介も順不同。強いて言えば、思い出した順に掲載。

 さて前置きはこのぐらいにして、本題に戻ることにする。





 近鉄京都線「京都(きょうと)」駅。




 京都に生まれ育ち、20歳前後までは京都を本拠地としていた私であったが、この近鉄京都駅の利用回数は、比較的少ない。

 初めての利用は、1972(昭和47)年5月14日。
 私が小学校6年生の時、伊勢志摩方面への修学旅行の際。確か帰りは国鉄(当時)だったので、往きのみの利用となった。

 前日の深夜まで、風邪で熱を出していた私を、一生の思い出となる大イベント修学旅行に参加させてやりたいという一心で、寝ずの看病で熱を下げ、旅に送り出してくれた母の親心も、忘れてはならないと思う。

 しかし初日の夜には酷い下痢に襲われ、朝旅館の寝床で失禁。それを何とか友達や先生方に隠し通しながら、2日目の行程を必死の思いで消化し、夕方学校に着くと同時に、迎えにきてくれていた兄の自転車の荷台に飛び乗り、ヘロヘロになって自宅のトイレに駆け込んだのを、今でも鮮明に憶えている。
 その夜、再び発熱した私は、父の背中に負われて近くの医院へ。翌朝まだ高熱でぼんやりした目で、テレビから流れる「沖縄返還記念式典」のニュースを見ていた。


 それから19年後の5月15日。
 3月に死んだ父の納骨を京都の大谷本廟で済ませ、西本願寺で私と兄が帰敬式(ききょうしき)を受け法名「釋 宏正(しゃく こうしょう)」を授かり、帰宅に向けて利用したのも、この近鉄京都駅であった。
 ちなみに私が「こうしょう」を名乗るようになったのは、この日から。

 またその同じ日、駅の売店の新聞には「安倍晋太郎元外相死去」と書かれた見出しが並んでいた。


 利用回数の少ない駅ではあるが、私にとって深い思い出の多い、近鉄京都駅である。

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