いつものように食材購入の場で、珍しくパセリの小束を見つけ、懐かしさの余り、買ってしまいました。その理由は、70年近く前の、小林市(宮崎県)での出来事に絡んでいます。
それは、私が小学校下級生の頃、”飲兵衛”の義父(叔母の夫)が、花見の時期、思い立ったようにパセリを育て、小束にまとめたものを数把準備し、「花見の出店に売って来い」というのです。恐らく、行きつけの飲み屋で、花見の時期の需給の様子を聞いて思いついたか、頼まれたかしたのでしょう。
北側の台所からのジメジメした排水路周りの薄汚い環境で育てた野菜が、あんな煌びやかな花見の席の、美味しそうな洋風料理の添え物として珍重されることに、一種異様な感じがしたものでした。
私が10歳まで育った宮崎県小林市は、桜の名所として有名だったらしく、九州全域からの観光バスが来ていた。私の家から花見で賑わう現地まではおよそ1里(4km)で、子供の足で、片道1時間だったでしょうか…。
皆の話題になったのは、今から65年くらい前だが、ボンネットバスでなく、皆で『鼻ビッシャゲ・バス』(鼻のひしゃげたバス、くらいの意味)と俗称した、エンジン部分が後ろに有り、運転席の前が突き出ていないバスで、福岡ナンバーだったか、西日本鉄道バスの真新しい最新式のバスが連なって、我々の日常生活の場を突っ切って、南の霧島山の麓の方角に有る、「種馬所の桜」並木へ、浮かれた観光客を乗せて運ぶようになった。
初めのうちは、予約の有った出店に届けたような気がしますが、そのうち、私の才覚だったか、多目に持って出て、予約のない店にも飛び込みで売り込んだような気がします。それで、思いの外売り上げが伸びたせいか、義父は一部を小遣いとして渡してくれました。今思えば、現金の少ない田舎の生活で、しかも伯母一家は大陸帰りで極貧に近い生活で、お小遣いなど、年に数回(お正月のお年玉、学校の遠足の時程度)しか手にしたことは無かったのですから、嬉しかったものです。
働いた代償として金をもらう、という形の上では、その後の私の長い長いアルバイト人生の始まりだった、とも言えます。
2月初めの下書き稿に加筆(気が向けば、続く…)
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